戦国サプリメント

戦国未満

  1. HOME
  2. 資料集
  3. 文禄・慶長の役

文禄・慶長の役

文禄の役 日本軍相関図(임진왜란 일본군상관도)

秀吉の明国制圧の野望により文禄元年(1592)四月、日本軍二〇万が朝鮮全土へ侵攻。日本軍VS朝鮮・明連合軍との七年にも及ぶ大戦争がここに始まる――

目次

最高司令官参謀第一軍第二軍第三軍第四軍第五軍

第六軍第七軍第八軍第九軍水軍諸隊朝鮮奉行増派軍

名護屋 後詰め朝廷解説参考文献補註関連記事

最高司令官(최고사령관)

豊臣秀吉

豊臣秀吉(도요토미 히데요시)

弱い敵を叩き潰して何がわるいの?渡海はせずに日本から朝鮮支配について指示。「結果を出せない大名は改易だYO☆」

参謀(참모)

西笑承兌

西笑承兌(사이쇼 조타이)

臨済宗相国寺派のトップで秀吉のブレーン。京都五山の知識をもって、朝鮮へ侵攻する諸将に檄を飛ばす文書を起草したりする。

第一軍(제1군)

平安道(ピョンアンド)へ進軍

兵力18,700人:小西行長7,000・宗義智5,000[1]・松浦鎮信(まつら-しげのぶ)3,000・有馬晴信2,000・大村喜前(よしさき)1,000・五嶋純玄(ごとう-すみはる)700

小西行長

小西行長(고니시 유키나가)

釜山に上陸するや破竹の勢いで北上、半月余りで首都ソウルを制圧。更に進軍して平壌も制圧するが、から李如松の大軍が現れる。

宗義智

宗義智(소 요시토시)

行長の娘婿で対馬島主。戦争前夜、朝鮮に事の重大さを伝えに自ら釜山まで行って説く。戦争が始まると行長と明の外交家沈惟敬との和議交渉を支える。

景轍玄蘇

景轍玄蘇(게이테쓰 겐소)

対馬宋氏の外交僧。交渉の最前線に立ち、通信使金誠一司憲院首職・李徳馨、明使節・沈惟敬らと会談を行った。

第二軍(제2군)

咸鏡道(ハムギョンド)へ進軍

兵力22,800人:加藤清正10,000・鍋島直茂12,000・相良長毎(ながつね)800

加藤清正

加藤清正(가토 기요마사)

二軍なのに行長と先陣争いをし、朝鮮第一の大寺・仏国寺は焼き払った。朝鮮二王子を捕え、制圧した咸鏡道で年貢を取り立てを徹底させる。

鍋島直茂

鍋島直茂(나베시마 나오시게)

清正と二人三脚で咸鏡道支配に励むが、義兵抗争が激化。清正が捕らえた朝鮮二王子が足かせとなり、義兵鎮圧に集中できない事態に陥る。

第三軍(제3군)

黄海道(ファンヘド)へ進軍

兵力11,000人:黒田長政5,000・大友義統(よしむね)6,000

黒田長政

黒田長政(구로다 나가마사)

第一軍と共に北上して平壌を制圧。このあと南下して黄道道・海州(ヘジュ)を軍事拠点としたが義兵が起こり、彼らとの戦争が始まる。

後藤又兵衛

後藤又兵衛(고토 마타베)

長政の家臣。第二次晋州城の戦いでは清正と長政が亀甲車なるものを考案し石壁を崩し、又兵衛は一番乗りで城内に侵入した。

第四軍(제4군)

江原道(カンウォンド)へ進軍

兵力14,000人:島津義弘10,000・毛利吉成2,000・高橋元種 秋月三郎 伊東祐兵 島津豊久2,000

島津義弘

島津義弘(시마즈 요시히로)

文禄の役はさほど目立たず、慶長の役で大暴れする。停戦前の第二次晋州城の戦いでは第一隊として清正・長政・直茂と共に戦闘に加わった。

第五軍(제5군)

忠清道(チュンチョンド)へ進軍

兵力25,100人:福島正則4,800・戸田勝隆3,900・長宗我部元親3,000・蜂須賀家政7,200・生駒親正5,500・来島兄弟[2](通之・通総)700

福島正則

福島正則(후쿠시마 마사노리)

忠清道は釜山とソウルの中間にあり、兵站の保全と輸送が主な任務の為、四国衆の五軍は非常に影が薄い。しかし他軍同様、義兵抗争には苦戦を強いられた。

長宗我部元親

長宗我部元親(조소카베 모토치카)

朝鮮にあって秀吉に大量の木材を贈る奇行アリ。

第六軍(제6군)

全羅道(チョルラド)へ進軍

兵力15,700人:小早川隆景10,000・毛利秀包1,500・立花宗茂2,500・高橋直次(宗茂の弟)800・筑柴広門900

小早川隆景

小早川隆景(고바야카와 다카카게)

秀吉に指示されていた担当区域の全羅道侵犯を目指すが郭再祐金誠一権慄らの朝鮮連合軍に、錦山(クムサン)で撃退される。

立花宗茂

立花宗茂(다치바나 무네시게)

平壌城の小西行長を敗走させた李如松がソウルの日本軍襲撃の為南下。これを迎撃すべく先鋒として碧蹄館で明軍に挑む。

第七軍(제7군)

慶尚道(キョンサンド)釜山在陣

兵力30,000人:毛利輝元30,000

毛利輝元

毛利輝元(모리 데루모토)

この戦争は毛利対朝鮮・明連合軍かと思うほど毛利一族が主力をなす。七軍は全軍の出発点である釜山に留まり、ここを守備する。

第八軍(제8군)

京畿道(キョンギド)首都ソウル在陣

兵力10,000人:宇喜多秀家10,000[3]

文禄の役 総大将(총대장)

宇喜多秀家

宇喜多秀家(우키타 히데이에)

総大将ではあるが存在感は余りない。しかし碧蹄館李如松率いる明軍を、幸州山城権慄率いる朝鮮軍との戦いに奮戦。

第九軍(제9군)

慶尚道へ進軍

兵力11,500人:羽柴秀勝秀次弟)8,000・細川忠興3,500[4]

細川忠興

細川忠興(호소카와 다다오키)

秀吉から要塞の地・晋州攻撃の指示を受け、金時敏籠る晋州城を包囲。英雄との死闘の六日間が始まる。

水軍(수군)

兵力9,200人:九鬼嘉隆・藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明

九鬼嘉隆

九鬼嘉隆(구키 요시타카)

信長水軍として無敵の毛利水軍を撃破した日本一の水軍将。第二ステージは朝鮮の海。東アジア一になれるかな?

藤堂高虎

藤堂高虎(도도 다카토라)

破竹の勢いで進軍する日本陸軍に対し、高虎水軍は李舜臣の朝鮮水軍に玉浦で撃破されて、日本軍最初の敗戦将に輝く。

脇坂安治

脇坂安治(와키자카 야스하루)

先駆けの功名を狙って、九鬼嘉隆と加藤嘉明を置き去りにし、手勢のみで李舜臣に閑山島で挑むという面倒くさい人。

加藤嘉明

加藤嘉明(가토 요시아키)

手勢のみで出撃した脇坂を九鬼と共に追いかけ、高虎とは功を争って遂には絶交までに至ってしまう。

来島通之""

来島兄弟(通之・通総)(구루시마형제(미치유키,미치후사))

石山合戦で毛利を助けた能島・因島村上水軍と違い、来島村上水軍は織田を助け、秀吉の時代に大名となる。

来島通総

文禄の役では四国衆の第五軍に配属されたが、日本水軍連敗により水軍に配置替え。満を持して李舜臣に挑む。

諸隊(딴군)

黒田官兵衛

黒田官兵衛(구로다 간베에)

名護屋城の設計者。ソウルで日本の大名たちに明軍からの攻撃対処について助言。停戦前の第二次晋州城の戦いの戦闘に加わった。

上杉景勝

上杉景勝(우에스기 가게카쓰)

小西行長と黒田長政が平壌城に入った文禄元年六月に、釜山にほど近い慶尚道南東海岸の熊川(ウンチョン)に出陣した。

赤松広通

赤松広通(아카마쓰 히로미치)

但馬竹田城主。兵八〇〇を率いて渡海。藤原惺窩と共に日本に連行された姜沆の帰国を助ける。

木下勝俊(長嘯子)

木下勝俊(長嘯子)(기노시타 가쓰토시)

播磨竜野城主。小早川秀秋の兄。惺窩の友でのちに歌人。文禄の役に従軍。[5]

朝鮮奉行(조선봉행)

兵力7,200人:石田三成2,000・大谷吉継1,200・増田長盛1,000・加藤光泰1,000・前野長康2,000

石田三成

石田三成(이시다 미쓰나리)

穏健派を倒して政権を奪取、文禄の役が始まる。秀吉に渡海を促すが中止となり、三成が奉行として大谷らと渡海することとなった。

大谷吉継

大谷吉継(오타니 요시츠구)

奉行の三成らと共にソウルに到着した文禄元年七月には、戦況が暗転。奉行も碧蹄館・幸州山城及び第二次晋州城の戦いに加わった。

第二次晋州城の戦い 増派軍(제2차진주성전 증파군)

晋州城再攻撃のため新たに秀元・政宗・浅野長政らが加わり、かくして文禄二年六月日本軍九万二千、戦乱最大の大軍団が晋州城を包囲した。

毛利秀元

毛利秀元(모리 히데모토)

輝元のいとこで当時15歳の少年。慶長の役で再渡海、右軍総帥として活躍する。

伊達政宗

伊達政宗(다테 마사무네)

関東・東北の大名は渡海しなくてもいいのに、わざわざ渡海するおバカ。

浅野長政

浅野長政(아사노 나가마사)

自身も渡海するという秀吉に一喝した男の中の男。

肥前名護屋 後詰め(히젠나고야 후방군)

徳川家康

徳川家康(도쿠가와 이에야스)

渡海はしないが本営の肥前(佐賀県)名護屋に在陣。自身も渡海するという秀吉を浅野長政と共に家康・利家・氏郷が制止した。

前田利家

前田利家(마에다 도시이에)

秀吉ナンバー2にして後詰め。

蒲生氏郷

蒲生氏郷(가모 우지사토)

福島の大名40歳。名護屋で病を患ってしまう。

朝廷(조정)

後陽成天皇

後陽成天皇(고요제이 천황)

渡海せんとする秀吉に神対応する22歳の帝。学問好きで、朝鮮からの活版伝来を機に多くの本を刊行する。

解説

戦国時代の合戦は一般的に、敵国から近い武将が先鋒以下に順次配属されます。これにより文禄・慶長の役では主に九州の大名を中心とした西国の大名が動員されました。

文禄の役では当時活躍していた武将がほぼ出揃い、オールスターの様相を呈しています。しかしみんなで朝鮮へ遊びに行ったわけではないので、朝鮮・明連合軍がこれを迎え撃ちます。

第一軍の小西行長小西行長宗義智宗義智らが釜山(プサン)に上陸すると、破竹の勢いで北上。僅か半月余りで首都ソウル(漢城)を制圧しました。ソウル制圧後、日本の各軍は豊臣秀吉豊臣秀吉に指示された担当地域に進軍、朝鮮全土をほぼ制圧。しかし各地で義兵抗争が活発化すると窮地に追い込まれました。

かくして文禄の役の後半戦は、ソウルで総力を結集した日本軍VSソウル奪還を目指す朝鮮・明連合軍という構図になります。

また、これとは別に李舜臣李舜臣率いる朝鮮水軍と日本水軍の海戦が、陸地の両軍に与えた影響も少なくありません。詳しくは関係地図文禄の役 略年表等および各武将の解説ページをご参照ください。

  

参考文献

  1. 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)第1巻179頁「毛利家文書」(刊本八八五 天正二十年三月十三日 毛利輝元宛 豊臣秀吉朱印状/高麗へ罷渡御人数事)…当該「毛利家文書」を補註において文書Aとする。
  2. 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
  3. 笠谷比古, 黒田慶一『秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦』(文英堂、2000年)

補註

  1. 文献1第1巻165頁「黒田文書」(天正二〇年正月五日 黒田長政宛 豊臣秀吉朱印状)、167頁「浅野家文書」(刊本八一 年月日欠 唐入軍勢進発次第書)の陣立てにおいては、先鋒隊に対馬勢(宗義智)は数に入っていなかった。
  2. 便宜上、来島兄弟と記したのではなく、文書A五番隊に「一、七百人 来嶋兄弟」とある。
  3. 文書A八番隊に「一、壱万人 対馬在陣 備前宰相」とあるが、秀家は朝鮮へ渡海。
  4. 文書A九番隊に「一、八千人 壱岐に在陣 岐阜宰相(羽柴秀勝)一、三千五百人 同 丹後少将(細川忠興)」羽柴秀勝は文禄元年(1592)巨済島にて戦病死。忠興は慶尚道へ進軍。
  5. 「浅野家文書」(註1同文書)唐入り道行きの次第によれば、十番は二月二一日より一日違いで稲葉衆、伯耆衆、但馬衆、十一番は二月一五日より一日違いで丹後の少将殿(細川忠興)、越前衆、若狭衆とある。

関連記事