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文禄・慶長の役

慶長の役 日本軍 相関図(정유재란 일본군상관도)

目次

最高司令官参謀右軍左軍水軍総大将

諸隊哲人解説参考文献関連記事

明と日本との和議の破綻により、秀吉の命で朝鮮再出兵となり一五万の日本軍が渡海。日本軍VS朝鮮・明連合軍の大戦争が再び始まる――

最高司令官(최고사령관)

京都 伏見城 (교토후시미성)

豊臣秀吉

豊臣秀吉(도요토미 히데요시)

再出兵の日本軍に"鼻切り"を指示。朝鮮から大量の鼻が秀吉の元に送られた。文禄の役と違い本役では本営の肥前名護屋には赴かなかった。

参謀(참모)

京都(교토)

西笑承兌

西笑承兌(사이쇼 조타이)

明使節が来日した際、皇帝の国書を字面通り読み上げ、和議が破たん。鼻塚において大施餓鬼会(せがきえ)を行えと秀吉から命が下る――

釜山から再び首都漢城(ソウル)侵入を目指して北上する。総帥の秀元はともかく構成メンバーは政治的にも右なので覚えやすい。各将は慶尚道・南東海岸に築かれた倭城を軍事拠点とする。

右軍総帥(우군총대장)

毛利秀元

毛利秀元(모리 히데모토)

父は毛内元就の四男。数えで19歳の青年だが、稷山で黒田長政軍が、蔚山で加藤清正が危機とあれば、これを救うべく駆け参ずる――!

蔚山(ウルサン)倭城(울산왜성)

加藤清正

加藤清正(가토 기요마사)

楊鎬権慄の明・朝鮮連合軍が清正を討つべく蔚山倭城を包囲。清正はこの時、西生浦倭城にいたが、船で駆け付け蔚山倭城に入った。

浅野幸長

浅野幸長(아사노 요시나가)

当時22歳。蔚山の築城工事担当。工事の途中で明・朝鮮連合軍に包囲されて防戦。清正が蔚山に駆け付け、清正と苦しい籠城戦を展開した。

梁山(ヤンサン)倭城(양산왜성)

黒田長政

黒田長政(구로다 나가마사)

ソウルを目指し釜山から北上するが、楊鎬の指令により明軍が稷山(チクサン)で長政軍を迎撃。これ以上の進軍なるか――?!

後藤又兵衛

後藤又兵衛(고토 마타베)

長政に付き合っているため、幸か不幸か文禄・慶長の役において数々の武勇伝あり。そのため大名でもないのに結構存在感がある。

馬山(マサン)倭城(마산왜성)

鍋島直茂

鍋島直茂(나베시마 나오시게)

慶尚南道で朝鮮・明連合軍の襲撃にあい、その中には清正の元先鋒将である降倭・沙也可がいた――

左軍(좌군)

釜山から穀倉地帯の全羅道へ進軍。南原城を楽々と落とすが、この戦争の最後に露梁海峡で無敵の李舜臣率いる朝鮮水軍と戦うことになる。各将は慶尚道・南西海岸に築かれた倭城を軍事拠点とする。

左軍総帥(좌군총대장)

宇喜多秀家

宇喜多秀家(우키타 히데이에)

秀家帰国後に順天倭城の小西行長が明・朝鮮連合軍に包囲され、これを左軍のメンバーが助ける。秀元と違って肝心な時にいない。

順天(スンチョン)倭城(순천왜성)

小西行長

小西行長(고니시 유키나가)

倭城最南端の全羅道・順天倭城を拠点とする。秀吉が死去し日本軍の帰国が始まった時、順天が明・朝鮮連合軍に包囲される。

南海(ナムヘ)倭城(남해왜성)

宗義智

宗義智(소 요시토시)

順天の義父・行長のピンチに島津・立花軍と共に救援隊として駆け付ける。救援隊が海上で戦っている隙に行長は順天を脱出した。

景轍玄蘇

景轍玄蘇(게이테쓰 겐소)

行長・義智と共に尽力した日明和議交渉が決裂し、再出兵となる。戦後は直ちに日朝国交回復に奔走、玄蘇の新たな戦いがここから始まる――

泗川(サチョン)倭城(사천왜성)

島津義弘

島津義弘(시마즈 요시히로)

日本水軍が漆川梁で朝鮮水軍を撃破すると、陸地に逃れた元均を敗死させる。蔚山の戦い後、明・朝鮮連合軍は泗川倭城に向かって進軍する――!

固城(コソン)倭城(고성왜성)

立花宗茂

立花宗茂(다치바나 무네시게)

順天の小西の救援隊として島津・宋らと共に駆け付け、露梁海峡で李舜臣陳璘率いる水軍に挑む。七年にも及ぶ戦争の決着はいかに!?

水軍(수군)

安骨浦(アンゴルポ)・熊川(ウンチョン)倭城交代在番(안골포・웅천왜성교대근무)

藤堂高虎

藤堂高虎(도도 다카토라)

隊長の九鬼嘉隆は慶長の役には参戦せず、藤堂・脇坂・加藤嘉明が日本水軍を率いて元均率いる朝鮮水軍を漆川梁で撃破。これにより更迭されていた李舜臣が統制使に復活。鳴梁で朝鮮水軍と激突する――!

脇坂安治

脇坂安治(와키자카 야스하루)

同上。

その他

加藤嘉明

加藤嘉明(가토 요시아키)

本役も水軍として奮戦するが、清正籠る蔚山倭城が包囲されると、豊臣武断派にふわしく?救援軍として右軍の面々と蔚山に駆け付ける。

来島通総

来島通総(구루시마 미치후사)

文禄の役では兄・通之と共に水軍として戦ったが、通之戦死。慶長の役では、南原城攻略後、鳴梁で再び李舜臣に挑む機会が訪れる。

総大将(총대장)

釜山日本本営(부산왜성)

小早川秀秋

小早川秀秋(고바야카와 히데아키)

総大将として進軍せず釜山に留まる。しかし蔚山の戦いで兵を率いて敵軍に突撃。これが軽率な行動とされて、秀吉に帰国を命じられる。

諸隊(딴군)

総大将補佐(총대장보좌)

黒田官兵衛

黒田官兵衛(구로다 간베에)

総大将・小早川秀秋の補佐役。息子・長政の梁山倭城にあって明軍としばし戦うこともあった。

遊撃軍(유격군)

長宗我部元親

長宗我部元親(조소카베 모토치카)

泗川倭城を築城し、慶長二年の暮れに島津義弘に引き渡した。蔚山の戦いでは救援軍として参戦。

壱岐在陣(이키근무)

毛利輝元

毛利輝元(모리 데루모토)

文禄の役に引き続き毛利一族は日本軍の主力となし、秀秋は総大将、秀元は右軍総帥、輝元は壱岐まで出陣した。

哲人(철학자)

儒学者(성리학자)

藤原惺窩

藤原惺窩(후지와라 세이카)

日本が朝鮮再出兵に突き進む中、へ留学しようとした最強のKY。その心の強さは武将以上。運命のいたずらで朝鮮の学者・姜沆と出逢う。

解説

右軍・左軍・水軍の三つに分けよう!

慶長の役にも一軍二軍三軍…という陣立てがあるのですが、これは肩書きみたいなものなので、文禄の役のように進軍する方向を意味していません。

よって慶長の役全体の動きを捉えるには、大きく右軍・左軍・水軍の三つのカテゴリに分けて考えるとよいです。また慶長の役では、豊臣秀吉秀吉の指示もあって積極的に鼻切りが行われました。

しかしその分、のちに「奇跡の鳴梁(ミョンリャン)」と呼ばれる李舜臣李舜臣率いる朝鮮水軍と日本水軍との戦いは、開戦以来最も胸を打つ戦いとなるのでした――

倭城について

慶長の役の最も大きな特徴は、文禄の役と異なり休戦中に慶尚道の南海岸に多数建設した倭城を軍事拠点としたことです。

当相関図では慶長二年(1597)一二月前後の各将の在番の(拠点の)倭城を明記しました。築城者ではないので注意してください。というのも黒田長政黒田長政の梁山(ヤンサン)倭城のように、築城者と在番の大名が一致するケースばかりではないからです。

例えば蔚山(ウルサン)倭城は浅野幸長浅野幸長・宍戸元続らが築城、完成後に加藤清正加藤清正に引き渡す予定でした。しかし楊鎬権慄の明・朝鮮連合軍は蔚山に清正がいると思い、六万の大軍で蔚山倭城を包囲

この頃、清正は西生浦倭城いて、蔚山の急を聴いて船で駆けつけ、わざわざ蔚山に入りました。偉い!ではなくて明・朝鮮連合軍も勘違いするくらい、倭城の築城者と在番の大名の関係はややこしいです。

参考文献

関連記事

文禄の役 日本軍朝鮮・明連合軍琉球尚寧