プロフィール
室町幕府・管領 細川氏庶流の藤孝長男。武将兼茶人。幼名は熊千代。
通称は与一郎。丹後少将。号は三斎宗立(さんさい-そうりゅう)。
信長の命令で、一六歳の時に明智光秀の三女で同い年のガラシャと結婚。しかし本能寺の変が起きると、離縁して丹波国山中に妻を幽閉。
二年後に復縁した際、幽閉中にガラシャがキリスト教に入信したことを知ると、憤激して棄教を迫る。
迎える関ヶ原。前代未聞の愛憎織りなす、夫婦の運命やいかに――!?
詳細
1.長岡と称す
忠興は、山城国(京都府南部)勝竜寺城主・細川藤孝の長男として永禄六年(1563)一一月一三日、京都に生まれました。父藤孝は初め三淵氏、のちに長岡氏を称しました。
将軍足利義輝の命により、忠興は生後間もなく細川輝経の養子となりましたが、実際には父母の手元で養育。忠興が細川の家名を継いだ年月は定かでなく、天正一〇年頃にはなお、長岡を称しています。
忠興三歳の時、三好義継・松永久秀らが将軍義輝を殺害。藤孝は、興福寺に監禁されていた義輝の弟・足利義昭を救出。藤孝は諸国を流浪することとなり、幼い忠興は勝竜寺城を離れ家臣と共に京都に隠れました。
2.父藤孝、信長に接近
藤孝は、明智光秀と共謀して義昭の上洛を企図。信長の援助を得て同一一年九月に入京に成功して義昭は一五代将軍に就任。忠興六歳は父藤孝の勝竜寺回復により帰城しました。
天正元年(1573)信長から藤孝は山城国の地を与えられ、地名にちなんで長岡とも称しました。同五年、信長が石山の戦いにおいて雑賀一揆を攻撃した際、忠興は藤孝と共に従軍して和泉国貝塚合戦で初陣。この時一五歳。
続いて松永久秀の攻撃に参加。この頃から、信長の長男・信忠から一字賜り与一郎忠興と名乗りました。
3.ガラシャと結婚
天正七年(1579)、信長の命によって、忠興と明智光秀の三女・玉(のちのガラシャ)が結婚。
忠興と玉は同い年で、この時共に一六歳。信長はかわいいカップルが誕生したと大喜びだったと言います。
忠興はこの美貌の妻を偏愛、庭先から妻を見たというだけで職人の首をはねたそうです。また玉は、忠隆・興秋・忠利の三子及び二女を儲けました。
信長と義昭の関係が悪くなると、父藤孝と光秀は信長に属し、父と共に転戦を重ねた忠興は翌年、信長から丹後国(京都府北部)に一二万石余を与えられて八幡山城、宮津城と移り住みました。
同一〇年、本能寺で信長を倒した光秀は、藤孝・忠興の協力に大きな期待を寄せていました。しかし父子は光秀に従わずに羽柴秀吉に属し、藤孝は剃髪して幽斎玄旨と号して忠興が当主となりました。
4.ガラシャを幽閉
忠興は玉と離婚して、玉を丹波国三戸野山中に幽閉。玉二〇歳は、一七人の侍女をつけられ外出は禁止されました。山崎の戦いにおいて父・明智光秀が敗れて一族は滅び、果ては忠興が側室を迎えたことも知ることになりました。
この頃から玉は、侍女の清原マリアの影響を受けてキリスト教へ傾倒。洗礼を受けてガラシャ(伽羅奢)と名乗りました。家康の計らいにより、秀吉より忠興を諭し、忠興は玉と復縁。
しかし妻の入信を知った忠興は激怒。侍女たちの耳や鼻を削いで追放し、ガラシャののどもとに刀を突き付けて棄教を迫ったとも言われてます。しかしガラシャは生涯信仰を捨てることはありませんでした。
一方、秀吉政権下で忠興は小牧・長久手、九州平定、関東平定などに歴戦しました。
5.文禄の役 緒戦
豊臣秀吉が日本の諸将に朝鮮・明への出陣を命じ、文禄元年(1592)四月、先鋒小西行長、第二軍加藤清正らが釜山に上陸。
破竹の勢いで北上し、僅か半年で首都ソウル(漢城)を制圧しました。忠興三〇歳は第九軍として渡海。主に慶尚道方面で行動、仁道城などを落としました。
緒戦は日本軍優勢でしたが、錦山(クムサン)で全羅道に侵入した第六軍の小早川隆景らが、官軍・権慄と義兵将・郭再祐&金誠一の朝鮮連合軍に敗退。
日本水軍は全羅左水使・李舜臣率いる朝鮮水軍に敗戦を重ねていました。
6.第一次晋州城の戦い
次第に追い詰められてゆく日本軍に対して秀吉は、晋州城(チンジュソン)を攻撃するよう指示。
晋州は慶尚南道から全羅道へ通じる要塞の地。同年十月四日、釜山浦近くの金海駐屯の忠興・長谷川秀一・木村常陸介は、加藤光泰・太田一吉・片桐且元らと共に二万の大軍で朝鮮の要衝・晋州城を包囲しました。
これに対して城内には牧使・金時敏以下三八〇〇人しかありませんでしたが、郭再祐が義兵を率いて応援に駆け付け、招諭使金誠一は防備の中心を担いました。
かくして激戦が繰り広げられ、戦闘開始から六日目、午前九時頃になると秀吉軍は撤退。
この戦いで朝鮮軍は勝利を収めましたが金時敏は戦死しました。
7.第ニ次晋州城の戦い
第一次晋州城の戦いによって勢いをつけた朝鮮・明連合軍は、年明け同二年に明・李如松が平壌城の小西行長を、権慄がソウルの日本軍を幸州山城で大いに撃破。
一方、日本軍の第一次晋州城の戦いの恨みは深く、秀吉は晋州城再攻撃を日本軍に厳命。これにより同年六月、第一隊の加藤清正・黒田長政、第二隊の小西行長・宋義智・忠興・伊達政宗、第三隊の宇喜多秀家ら日本軍九万二〇〇〇に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。
一一日間の激戦の末、晋州城が陥落。金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。
8.秀次(に借金していた)事件
翌月、一時停戦に入り、忠興は同年閏九月に帰国。同年四年、関白豊臣秀次が太閤秀吉に謀反の疑いをかけられ、高野山で切腹させられました。
子女・妻妾ら三〇余人も京都三条河原で処刑され、多数の近臣も殺されました。忠興は連座することを恐れました。秀次に借金があったからです。家老のつてで徳川家康から金を借りて返済し、事なきを得るとこれを機に家康派となりました。
慶長元年(1596)九月、秀吉と明使節の楊方亨・沈惟敬らの接見に忠興は奏者役(取次)を務め、慶長の役には出兵しませんでした。
9.ガラシャ自刃
慶長三年(1598)八月、秀吉死去。忠興三六歳は、家康側に付く意味で三男忠利を質として江戸に送りました。
同五年閏三月、豊臣の大黒柱・前田利家が大坂城で病死。これを機に加藤清正・浅野幸長・黒田長政・福島正則・加藤嘉明・忠興らは、反派閥の石田三成を大坂で襲い、三成を佐和山に引き籠らせました。
同年六月、家康が会津の上杉景勝を討たんとして東下したので忠興はこれに従い、同年七月に下野国(栃木県)小山で三成挙兵を知りました。
三成は、家康側につきそうな武将の妻子を質として大坂城に納める作戦に出ました。これにより忠興出陣中の大坂玉造の細川邸に使者がやって来て、ガラシャに城内に移るよう要求。
ガラシャは夫忠興の命を待たずしては何事もできないと拒否。三成兵数百が邸を囲み、これを脅すとガラシャは嫁や娘たちを逃がしたあとに、邸に火をかけて自刃(じじん)して果てました。享年三八歳。
忠興はガラシャを偏愛するばかり、家臣ですら奥向きに近づくことが禁じられていたため、他家のように脱出させることができなかった、とも言えます。また長男の忠隆(ただたか)は、死を選んだガラシャも見捨てて脱出した妻千代を弁護したたため、父忠興に追放されました。
10.関ヶ原と大坂の陣
ガラシャの死は忠興をして顧慮の念を断ち、あえて妻子のために小山から一人西帰する武将をなきに至らしめ、三成らの計画に齟齬を生じさせ、関ヶ原合戦の勝敗に関係するところが少なからずありました。
かくして忠興は、福島正則ら諸将と共に家康の先鋒となって西上。八月に岐阜城を落とし、九月の関ヶ原合戦では首級百三六を挙げ、そのあと父藤孝の丹後田辺城を救援。
この功により、豊後国三九万九千石を与えられ、同国中津城に移り、同七年一一月に豊前小倉に移りました。元和元年(1615)大坂夏の陣で忠興五三歳は、藤堂高虎と共に平野に陣して軍功がありました。
11.最期
同五年から忠興は病気がちになり、家督を子の忠利に譲渡。剃髪して三斎宗立(さんさい-そうりゅう)と号しました。寛永九年(1633)一〇月に加藤清正の子・忠広の改易を受けて忠利が肥後熊本へ国替。
忠興は六四歳の時に肥後国八代に移り、八〇歳の時に忠利が忠興より先に死去。忠興は長寿を保ち、正保二年(1645)八三歳で死去しました。
忠興は越中具足を考案して、細川家中の具足を統一。また武家故実に通じ、鷹狩・能・若・連歌を好み、特に茶の湯では千利休の高弟で、利休七哲に数えられています。
しかし「茶の湯の道具を見せてほしい」と言われると、武具甲冑を並べて見せて「武士の道具といえばこれではないか」と言い放って武威を誇るような所がありました。意味がわかりませんが、ガラシャにとって忠興以外の武将は考えられない気もします。
細川忠興 相関図
細川氏
主君
文禄の役
諸国の大名
- 秀次事件:豊臣秀次にお金を借りていました。
武断派の仲間たち
文化交流
参考文献
- 村井益男「細川忠興」『国史大辞典12』(吉川弘文館、1979年)737-738頁
- 平凡社編『日本人名大事典〈第5巻〉ニ~マツ』(平凡社、1979年)504頁
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「細川忠興」269頁
- 奈良本辰也 監修『戦国武将ものしり事典』(主婦と生活社、2000年)