解説
文禄・慶長の役を知るにあたっては、まず最初にこの頃の明・女真・朝鮮・対馬・日本および琉球の位置と関係を頭に入れておきましょう。要点は以下のとおり。
- 日本の本営は、肥前(佐賀県)名護屋(なごや)と一番最初に制圧した釜山(プサン,부산)。秀吉は渡海せず文禄の役は名護屋から、慶長の役は名護屋に赴かず京都伏見から日本軍に指示。
- 朝鮮王朝の首都は現在のソウルと変わりがないが、この頃は漢城(ハンソン,한성)と呼ぶ。
- 明(中国)の首都は北京(ペキン)、副都が南京(ナンキン)。
- 中国東北部の遼東(りょうとう)は、李如松の一族が代々、中央政府からモンゴルや女真の防衛を任されている。また朝鮮とも隣接しているため、日本軍が朝鮮へ侵攻すると、明は提督として李如松を派遣。
- 女真(じょしん)は、遼東と朝鮮の北に位置するオランカイ(満州)に居住。度々、明や朝鮮へ侵攻しては、両国を悩ませていた。
- 対馬は朝鮮と日本の間に位置し、両国との仲介貿易が盛ん。戦争前に秀吉の命で、対馬島主宗義智と僧の景轍玄蘇は、通信使の金誠一ら一行を来日させる。
- 琉球王国は、福建(省)福州(ふくしゅう)と交易が盛ん。那覇久米村に住む福建人・三六姓は、戦争の兆しを察知すると明へ通報。また尚寧王は、秀吉への服従回避に努める。
上記の通り秀吉侵攻の兆し等により、周辺国は戦争が始まる前から既に、なかなかのパニックでした…
名護屋城
名護屋(なごや)は、名護屋城と陣屋(諸大名の城)、城下で構成。名護屋城は大坂城につぐ規模で「天守以下、聚楽(第)に劣ることなし」の豪壮さ。参集した諸大名の陣屋は約一三〇ヵ所、大大名の陣屋は広大で、堀秀治の陣屋は能舞台が発掘されている。
城下には武具武器や呉服染物の「茜屋(あかねや)町」を中心にして、材木町、塩屋町、石屋町、刀町、板屋町、魚町など様々な業種の町が形成された。一方で、大名にかりだされた諸国の人夫や水夫が多数おり、朝鮮半島で捕らえた人あるいは首が名護屋に送り込まれた。
参考文献
- 上垣外憲一『文禄・慶長の役-空虚なる御陣』(講談社、2002年)
- 杉谷昭・宮島敬一・神山恒雄・佐田茂『佐賀県の歴史(県史14)』(山川出版社、2013年)「巨大都市名護屋の建設」152-153頁
- 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)
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