プロフィール
第107代天皇。日本最初の木版活字本・慶長勅版本を刊行。
初名和仁(かずひと)のちに周仁(かねひと)。父は前代正親町(おおぎまち)天皇の第一皇子・誠仁(さねひと)親王。母は勧修寺(かじゅうじ)晴子。
父が35歳で急死したため16歳で即位。羽柴秀吉は天皇より太政大臣と豊臣姓を与えられ、勅命と称して九州討伐など天下統一に拍車をかける。
また秀吉は、聚楽第行幸という一大パレードを催して天皇を歓待。
詳細
1.天皇は一六歳
織田信長死後、羽柴秀吉が天下統一に向けて台頭。天正一三年(1585)七月に正親町(おおぎまち)天皇六九歳は秀吉に対して関白を宣下しました。
正親町天皇は老齢であり、ようやく第一皇子誠仁(さねひと)親王に譲位が行われる予定でしたが、天正一四年七月に三五歳の若さで誠仁親王が急死。
誠仁親王の第一皇子にあたる和仁が、祖父の正親町天皇の養子となり譲位を受けて、同年一一月に一六歳で即位しました。天皇嫡孫(ちゃくそん:祖父の家督を継承)の即位は、他に文武(もんむ)天皇(683~707)の例があるだけです。
2.父のような?秀吉
同年翌月(天正一四年一二月)、秀吉は即位したばかりの青年――後陽成天皇から太政大臣に任ぜられ、また豊臣姓を賜りました。秀吉は関白就任にあたり、近衛前久の養子となり摂関家との関係を形式的に付けました。
家柄貧しい秀吉は、天皇を擁し高位高官を得て、自己を権威付けたのでした。かくして秀吉は、天下統一に向けて、九州討伐(VS島津義久・義弘)においても小田原合戦(VS北条氏政・氏直)においても、「勅命」として自己の正当性と大義名分を誇示して制圧。天下統一を成し遂げました。
3.聚楽第行幸
秀吉は天正一四(1586)年から着工して、ようやく完成した聚楽第(じゅらくてい)に、一八歳の後陽成天皇を招きました。聚楽第とは、楽しみ聚(あつ)める屋敷という意味。
同一六年四月一四日から五日間、贅の限り尽くした饗宴が催されました。一四日の一日目、御所から聚楽第まで天皇の長い行列の行幸(ぎょうこう:パレード)があり、沿道は六〇〇〇人余の警護と天皇の行列を見ようとする人で埋まりました。天皇は聚楽第で秀吉に迎えられて酒宴となりました。
二日目に秀吉は、京中の銀地子(年貢)五五三〇両余を禁裏御料所(天皇所有地)として進上。米地子八〇〇石の内の三〇〇石を皇弟・智仁(としひと)親王へに献上、諸公家や諸門跡(皇子・貴族などが住する寺)へも知行地を与えました。
また秀吉は聚楽第行幸と併せて、内大臣・織田信雄、大納言・徳川家康以下二九人の諸大名を通して誓紙を奉らせました。
- 今度の聚楽第行幸についての命令は、誠にもって有り難く感涙を催すこと。
- 禁裏の御料所の年貢以下、公家やその寺などについて子々孫々、異議のないようにすること。
- 関白殿の命令はいつ、いかるときも聊(いささか)も違反しないこと。
林羅山は、事を行幸に託して己に背かざることを誓わせたもの、としました。しかし天皇の権威が必要だったとはいえ、信長同様に衰微していた朝廷を支えたという側面もあります。
三日目は和歌の会、四日目は舞楽、五日目の一八日午の刻に天皇は御所に戻られました。
4.朝鮮役の「神」対応
秀吉が日本の諸将に朝鮮・明への出陣を命じ、文禄元年(1592)四月一三日、先鋒隊の小西行長らが釜山に上陸。日本軍は破竹の勢いで北上して僅か半月余りで首都ソウル(漢城)を制圧しました。
この善戦に、肥前名護屋で秀吉は自身も朝鮮へ渡海するとし「大明国を平らげたうえで、後陽成天皇の行幸を仰ぎ、鳳車(ほうしゃ:天皇の車)を明の国都北京で迎えたい」云々言い始めました。
秀吉の渡海を浅野長政、徳川家康、前田利家が制止。後陽成天皇二二歳もまた秀吉を制止するため、秀吉に下記勅書を下しました。
「高麗国への下向、険路波濤(はとう)を乗り越えること勿体なく、諸卒を遣わしても事足りないのでしょうか。且つ朝家(ちょうか:皇室)のため、且つ天下のため、返す返す出発を遠慮するべきです。勝(かち)を千里に決して、この度の事を思い止まりましたら、とりわけ悦び思し召します。なお勅使(ちょくし:天皇の意思を伝える特使)にて申します。かしこ、太閤どのへ」 [註]
こうして秀吉の渡海は延期になりました。日本軍は翌年、明の大援軍が到着したこともあり、窮地に陥り一時停戦となりました。朝鮮抜きで和議が進められ、秀吉は名護屋で来日した明使節に和議七ヶ条を示しました。
その一条目には明の皇女を日本の天皇の后にすることとあり、以下勘合貿易の復活などが記されていました。明側は到底受け入れられない内容であり、天皇にしても予め聞かされていた話なのでしょうか。
5.幽斎の為に勅命
和議は破たんし朝鮮再出兵となり、戦争の只中の慶長三年(1598)八月に秀吉が死去。
二八歳の後陽成天皇にとって秀吉の死は衝撃だったようで、病気を理由に智仁親王に譲位しようとしました。しかし九条兼孝、家康の反対で実現しませんでした。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いで、東軍に属した細川藤孝は居城の丹後(京都)田辺城に籠城。一万五千の西軍を六〇日にも渡って引き付けていました。
この際、西軍に包囲され幽斎の討死を心配した八丈宮智仁親王が、使者を遣わして開城を勧告。更に後陽成天皇も古今集秘事の伝統の絶えることを惜しみ、勅命をもって開城するよう伝えさせました。
6.猪熊事件
同八年(1602)江戸幕府が開闢(かいびゃく)し、信長・秀吉時代より後陽成天皇の御料地は増加しましたが、家康と度々対立が続きます。
同一四年(1609)、多数の公家と女官らの密通事件が発覚。その女官のうちに天皇の寵愛した者がいたことから、天皇は彼らを極刑にすることを主張。一統は流罪になりましたが、天皇は不満を抱き再び譲位を決意。
家康は一度は承諾したものの延期としました。天皇は譲位を強行しようとしましたが、皇位継承する第三子の政仁(ことひと)親王の元服期日などの対立意見などもあり事態は紛糾。
京都所司代の板倉勝重の奔走により事態は収束して、同一六年(1611)二月、政仁親王一六歳の譲位が実現されました。
7.慶長勅版本刊行
後陽成天皇は多芸多能で書を能くし、和歌の道に優れていました。
元和元年(1615)に『武家諸法度』を制定した家康は続いて『禁中並公家諸法度』を金地院崇伝に起草させ、二条昭実・徳川秀忠・家康の名で制定。天皇の知行を三万石に制限し学問の研究を強制しました。
天皇は在位中から時世の推移を洞察し、古典文学に精通され『伊勢物語愚案抄』二巻を著しました。また朝鮮出兵より活版の伝来を機に、侍臣に命じ『日本紀神代巻』『職原抄』や医書などを印刷。
部数は二〇〇未満の少部でしたが、後陽成天皇が刊行したこれらを慶長勅版本(けいちょう‐ちょくはんぼん)と呼び、日本最初の木版活字本となりました。
一方で繊細な性格な天皇は皇子たちを疎んじ、第一子の子良仁親王を廃嫡。後水尾(ごみずのお)天皇となる政仁親王とも終生不和で、臨終に挑んでも対面を拒否続けました。
後陽成天皇は生涯を通じ、廃れていた朝廷の儀式の復興に力を尽くしました。秀吉と違い家康とは一見うまくいってないように見えますが、学問を重視した徳川幕府が開かれたことにより、その才を存分に発揮できたのではないでしょうか。元和三年崩御四七歳。
後陽成天皇 相関図
天皇家
- 祖父:一〇六代・正親町天皇
- 父:誠仁親王、母:勧修寺晴子
- 弟:智仁(としひと)親王(誠仁親王第六皇子)
- 第三皇子:一〇八代・後水尾天皇。母は近衛前子(さきこ)。
- 第四皇子:近衛信尋(のぶひろ)。母同。
- 孫娘:一〇九代・明正(めいしょう)天皇。奈良後期 称徳天皇以来の女帝。母は秀忠の娘・和子。
大名家
東アジアの国王
補註
文献4第1巻381頁「後陽成天皇宸筆御消息」(『宸翰英華』)より当サイトによる現代語訳。
参考文献
- 松尾美恵子「後陽成天皇」児玉幸多 編 『天皇(日本史小百科)』(東京堂出版、新装版1993年)
- 桑田忠親「後陽成天皇」星野昌三 編『歴史と旅特別増刊 愛蔵版百二十五代の天皇と皇后』(秋田書店 、1997年)
- 「後陽成天皇」『日本歴代天皇大鑑』(日本皇室図書刊行会、1995年)
- 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)
- 菅原正子「天皇家」小和田哲男(監修)同左二人・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)33-35頁
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束帯姿_後陽成天皇イラスト