プロフィール
肥後熊本城主。通称は虎之助。主計頭(かずえのかみ)。
文禄・慶長の役で日本軍のシンボリックな存在。
文禄の役では第二軍として出兵。第一軍の小西行長と首都ソウル入りの先陣争いをし、また朝鮮第一の大寺・仏国寺は焼き払った。
ソウル制圧後、鍋島直茂と共に東に北上して咸鏡道を制圧。朝鮮王子二人を捕え、明との国境・オランカイまで侵攻。
これにより慶長の役で清正は、明・朝鮮側にとって絶対に生かしちゃおけねえ存在となっていた。
詳細
1.賤ヶ岳は準備体操?
清正は尾張国生まれで、父・清忠は三歳のときに死亡。母が秀吉の遠い親戚という縁で、小さい頃から秀吉に仕えてきました。
天正一一年(1583)二二歳の時、賤ヶ岳の戦い(柴田勝家VS秀吉)では福島正則・加藤嘉明・脇坂安治らと共に賤ヶ岳の七本槍の一人として勇名を馳せ、秀吉の九州制圧後に肥後半国一九万二千石を得ました。
それにしても清正が豊臣の槍働きの代表的な存在となるのは、このあと起こる秀吉の朝鮮侵攻によるものです。
2.入念な備え
天正一九年八月、翌春の朝鮮侵攻の備えとして京にあって清正は、肥後の家臣に向けて、三五ヶ条に渡って書き付け命じました[註]。
幟(のぼり)の棹に使う竹を五六〇本を切って矯(た)めて置く(八条)、和船の船底材五〇艘分は拵(こしらえ)えて置く(一四条)、鉄砲を放つ者を二百人召し抱えて置く(二八条)など。
これら背けば処罰するとのこと。ワンマンというか、具体的に数字まで示す几帳面な性格にして用意周到なのでした。
3.朝鮮仏国寺を焼き払う
秀吉が日本の諸将に朝鮮・明への出陣を命じ文禄元年(1592)四月一三日に第一軍の小西行長らが釜山(プサン)に上陸。破竹の勢いで北上しました。
朝鮮軍は日本軍を制止できず、国王宣祖は柳成龍らを従え首都ソウル(漢城)を脱出して平壌(ピョンヤン)へ避難。
第二軍の清正三一歳は、朝鮮第一の大寺・仏国寺の伽藍を焼き払って、第一軍の小西行長・宗義智と五月三日にソウルへ入りました。
しかし清正は行長と先陣争いをしていたため、五月二日にソウル入りと肥前・名護屋日本本営に報告。
こうして清正の、朝鮮だけでなく、何故か行長とも戦い続ける長い日々の幕が切って落とされました。
4.二王子を捕らえる
日本軍がソウルから北上して臨津江と開城も制圧すると、第二軍の清正・鍋島直茂五五歳は、咸鏡道(ハムギョンド)を目指して東北に兵を進めました。
この時の清正について、柳成龍著『懲毖録』によれば以下の通り。
「清正は安城(アンソン:京畿道南部 図2参照)の住人二人を捕えて道案内をさせようとしたが、二人はこの土地で成長したので北路のことはよく分からないと拒絶した。清正はその場で(一人)を斬り、もう一人が恐れて先導を申し出」ました。
清正・直茂らはソウル制圧から二か月後の七月半ばには、咸鏡道も制圧。ここは清正曰く「日本にて八丈が島、硫黄が島などの様なる流罪人の配所(清正高麗陣覚書)」により、国王に反発を抱く土地柄でした。
そんなこともあって咸鏡道官吏・鄭末守(チョンマルス)は、会寧(フェリヨン)で朝鮮王子の臨海君(イムヘグンソン)と順和君(スンファグンジク)兄弟を捕らえて清正に突き出します。これにより清正は何もしないで二王子を捕らえたのでした。
5.オランカイへ侵攻
同年七月末から八月末にかけて清正は、明への道を探る為にオランカイに侵入。オランカイは中国東北部(満州)にあたる場所で、女真族が暮らしていました。
清正はオランカイや咸鏡道北部一体を支配するつもりでしたが、地質が悪く物資も乏しいため、諦めて咸鏡道南部支配に徹することに。
清正は安辺(アンビョン)に、直茂は咸興(ハムフン)に本陣を置き、それより北は清正軍に寝返った在地の士官に在番させることにしました。
それにしても清正の咸鏡道支配は年貢の取り立ては厳しく、おまけに咸鏡道の日本軍は城の外で略奪を重ねていました。
6.咸鏡道での戦い
朝鮮全土に目を向けると、慶尚道で郭再祐率いる最初の義兵が立ち上がったのを皮切りに、各地で義兵活動が活発化。
清正の圧政に苦しむ咸鏡道も例外ではなく、鄭文孚(チョン・ムンブ)が咸鏡道北部・鏡城(キョンソン)で義兵を挙げて鏡城を奪還すると、会寧でも義兵が立ち上がり、直茂本陣が置かれた咸鏡道南部・咸興でも義兵抗争が展開されました。
同年一〇月には、鄭文孚の義兵は清正支配の最北・吉州(キルジュ)城を取り囲みました。直ちに救援に向かいたい清正でしたが、安辺の清正本陣には朝鮮二王子がいて下手に動けず、吉州に多くの兵を割くほどのゆとりもありません。
吉州の日本軍は籠城することとなり、清正が救出するまで翌年の一月まで続き、こうして清正と直茂の半年に渡る咸鏡道支配は失敗に終わったのでした。
7.虎狩り
その頃、小西行長は平壌で明将の李如松に敗退。海上では日本水軍が李舜臣率いる朝鮮水軍に連戦連敗。清正軍だけでなく日本は劣勢に大きく傾いていました。
既にソウルに帰陣していた行長は、明の沈惟敬と和議を進めますが、咸鏡道からソウルに帰陣した好戦家・清正はこれに反発。
しかし和議の流れを止められず、和議は成立して文禄二年(1593)四月、明は遼東への撤収し使節を日本へ派遣。清正は朝鮮二王子を返還し、日本軍は釜山まで撤退することになりました。
明・朝鮮と日本の一時休戦に入り、清正こと虎之助の有名な虎狩りはこの時に行われました。理由は単なる暇つぶしです。この頃の朝鮮には虎がいて、虎の髭は帽子の飾りにもなっています。
8.黄石山の戦い
慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、これにより清正三六歳は、行長と一番隊と二番隊と二日交代で務めることになりました。
明は朝鮮に援軍を再派遣。指揮官には経略・邢玠と楊鎬、提督・麻貴らがいました。
同年八月はじめ、朝鮮の日本軍は軍全体を左右に分けて、宇喜多秀家を総帥とする左軍の行長・島津義弘らは穀倉地帯の全羅道へ。毛利秀元を総帥とする右軍の清正・黒田長政らは首都ソウルを目指して兵を進めました。
右軍先鋒の清正は、同月一七日、慶尚道・黄石山(ファンソクサソン)城をあっさり落としました。その頃、日本左軍は南原城を落として、大量殺戮と鼻切りを行いました。
9.蔚山倭城の工事
同年一一月より清正・浅野幸長らは、慶尚道・蔚山(ウルサン)に倭城の築城工事をスタート。
この普請は日本の医僧・慶念の日記によると「日本から連れてきた農民を、朝から晩まで城普請の材木採りに駆り立て、その労役を怠ったり逃走する者あらば、首枷をかけ焼金(火印)をあてる、またはその首を斬る」という苛酷さでした。
明の邢玠・楊鎬・麻貴は狙いを、日本軍のシンボリックな存在・清正に定めました。かくして朝鮮軍総帥・権慄も軍を率いて加わり、同年一二月二三日、明・朝鮮連合軍六万の大軍が、日本軍二千余が籠る普請半ばの蔚山倭城を囲みました。
10.蔚山籠城戦
しかしこの時、清正は西生浦(ソセンポ)倭城にいて、蔚山の急を聴いて西生浦から船で急ぎ駆けつけ、二四日に蔚山倭城に入りました。
明・朝鮮連合軍に水道を立たれた城中は水も米もなく困窮し、日数が増えるごとに投降する日本兵が続出。絶体絶命の清正は、楊鎬の指令の元、降倭沙也可が持ちかけた和議に乗ろうとしました。
しかし年明け正月二日、毛利秀元・黒田長政ら一万三千の救援軍が駆け付け、明・朝鮮軍の背後をつき囲みを解かせました。
五日、楊鎬が全軍に撤退命令を出して一〇日余続いた蔚山の戦いはついに終了。この戦いにより日本軍は一気に戦線縮小・撤退案に傾いていきました。
同年(慶長三年)八月には秀吉が死去。日本軍の帰国が始まると、これを追撃すべく同年一一月に李舜臣と明水軍陳璘が、露梁で日本水軍を撃破。七年にも及ぶ朝鮮の役はこうして幕を閉じました。
11.晩年
帰国後、関ヶ原の戦いでの清正三九歳は石田三成嫌いのこともあり、徳川家康率いる東軍の側に付き、九州で立花宗茂などと戦い、その功により肥後二万石の大大名任ぜられました。
秀吉の遺児・豊臣秀頼を守るため、清正は常に秀頼の傍にいて、慶長一六年(1611)秀頼の二条会見に随伴して家康との会見も無事に終わると、その二ヶ月後に死去しました。享年五〇。
一説によると徳川方の毒殺によるものとも言い、また豊臣と徳川の板挟みで晩年はかなり疲弊したとも言われています。どちらにせよ徳川にとって豊臣最右翼の加藤・福島・黒田は最も危険な外様だったので、加藤家は清正と息子の二代でお家取り潰しとなりました。
清正の熊本城は見事なのもので、あの厳しさと重厚感ある美しさは偽者には造ることができないように思われます。しかし朝鮮役での、容赦のなさはどこから来るのか。心の問題として留めておきたい人物です。
加藤清正 相関図
加藤氏
- 父:清忠、母:伊都
- 妻:清浄院殿(せいじょういんどの:水野忠重の娘)
- 息子:忠政、忠広
- 娘:榊原康勝(康政三男)室
- 孫:光広(忠政の子)
豊臣政権
同僚
文禄・慶長の役
咸鏡道支配
- 相方:鍋島直茂
蔚山の戦い
補註
文献2第1巻134頁より渋沢栄一氏所蔵文書(天正一九年八月一三日 加藤喜左衛門尉・下川又左衛門尉宛 加藤清正書状)参照。清正の指示が細かく長いので読むのも大変である。
参考文献
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)
- 笠谷和比古・ 黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役と関ケ原合戦』(文英堂、2000年)
- 上垣外憲一『文禄・慶長の役-空虚なる御陣』(講談社、2002年)
- 柳成竜(著)・朴鐘鳴(翻訳)『懲毖録』(平凡社、1979年)
- 北島万次『加藤清正 朝鮮侵略の実像』(吉川弘文館 、2007年)
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- 素材:陣中床几・蛇目紋・肖像
- イラスト:with李舜臣 行長