琉球中山王とは
琉球の王を中山王(ちゅうざんおう)と呼びます。中国皇帝より「琉球国中山王」として冊封を受け、代替わり度に中国から冊封使が派遣されるのが特徴です。これが一四世紀始めより五〇〇年続きました。
歴代
- 察度王統(三山・グスク時代):1.察度(さっと)-2.武寧(ぶねい)
- 第一尚氏王統(首里城創建):1.尚思紹(ししょう)- 2.尚巴志(しょうはし)……7.尚徳
- 第二尚氏王統(四〇〇年の長期政権):1.尚円-2.尚宣威-3.尚真……7.尚寧……13.尚敬……19.尚泰
成り立ち
1.琉球語と文化
沖縄で話される言葉である琉球語は、本土方言とともに日本語の二大方言の一つ。言語学的には同じ系統の言葉です。
風俗・習慣は日本文化をルーツとし、また琉球文化の中に日本文化の原型が多く秘められています。言語・民俗学者の伊波普猷(いはふゆう)は沖縄を日本の「古物博物館」と例えました。
2.按司とグスク
一一世紀の終わり、沖縄本島も元軍の襲来を受けました。
一二世紀頃になると、沖縄各地で按司(あじ、あんじ)と呼ばれる首長が活躍。按司は現在の市町村の版図で、グスク(城)と呼ばれる城塞を築いて、覇権を争いました。
3.三山とは
一四世紀になると、沖縄島には三つの小王国こと三山(さんざん)が成立。
今帰仁(なきじん)グスクを拠点とする北山(ほくざん)、浦添(うらぞえ)グスクを拠点とする中山(ちゅうざん)、島尻大里(しまじりおおざと)グスクを拠点とする南山(なんざん)が覇権を争いました。
一方中国では元を滅ぼした明朝が成立。一三七二年、成立まもない明朝に中山王察度(さっと)が入貢。冊封・朝貢関係を結ぶと、続いて南山王、北山王も明朝に入貢、三山の抗争は熾烈を極めました。
逆に中国からは三十六姓という福建人が派遣され、彼らは那覇久米村に移住して朝貢など交易を担いました。
中山王察度の跡を継いだ武寧(ぶねい)は、中国から派遣された冊封使によって「琉球国中山王」として冊封を受けました。それ以後五百年もの間、琉球の王は中国皇帝の冊封を受けるなわらしとなりました。
4.統一王朝誕生
南山の佐敷上(さしきうえ)を拠点にする地方の按司に過ぎなかった思紹(ししょう)尚巴志(しょうはし)父子は一四〇六年、軍を率いて浦添(うらぞえ)グスクを攻めて中山王武寧を滅ぼしました。
一四一六年には大軍を送り今帰仁グスクを攻め、北山を手にいれました。かくして一五世紀初頭に尚巴志は琉球三山統一を成し遂げました。新しい拠点・首里城も尚巴志が創建し、父思紹が初代中山王、尚巴志を二代として、ここに第一尚氏王朝が誕生。
しかし尚巴志亡きあとは権力基盤が安定せず、第一尚氏王統は六〇年余りしか続きませんでした。
5.第二尚氏王朝
七代尚徳(しょうとく)が死去すると、クーデターが起こり、世子を排して王族は首里城から追放されました。クーデター勢力に擁立され、王位に就いたのが金丸(かなまる)[註]。金丸は即位して尚円(しょうえん)と号し、第二尚氏王朝の始祖となり、一八代尚泰まで四〇〇年続く長期政権となりました。
三代尚真(しょうしん)は、依然として各地に割拠していた按司を首里に移住させました。そして役職を与えることで、行政機構を整備・強化しました。
この頃のヨーロッパは大航海時代にあたり、琉球はアジアにおける一大中継交易拠点でした。然しながら、七代尚寧の代には秀吉の朝鮮出兵が起こり、島津氏の琉球侵攻という試練が待ち受けているのでした。
補註
第二尚氏王統始祖・金丸の謎
金丸(かなまる)の父は農民で、金丸は泰久に仕えてた。泰久は金丸を評価し、即位すると金丸も昇進。泰久死後は子の尚徳が即位。しかし金丸の諫言を聞かず、金丸は隠遁。尚徳が死去すると、群臣は世子を排して金丸を王に迎えたという。中国皇帝に冊封を受けるための正当性ないし正統性が必要で、どこまで本当の話かわからない。