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戦国人物解説

豊臣秀次(とよとみ-ひでつぐ)秀頼誕生!関白with東海軍団の危機

目次

プロフィール詳細:1.小牧・長久手の戦い 2.長久手隊の顛末

3.関白となる 4.秀頼誕生 5.秀次事件相関図関連記事参考文献

プロフィール

豊臣秀次
Hidetsugu Toyotomi

秀吉の甥で関白職を授かる。幼名・孫七郎。古書収集家。

小牧・長久手の戦いでは、織田信雄徳川家康連合軍と戦うが、池田恒興・森長可は戦死してしまい秀吉から叱責を受ける。

戦後は改易された信雄の旧領を与えられて清州城に入り、山内一豊堀尾吉晴・中村一氏らを付与され秀次東海軍団がここに誕生。

秀吉の子・鶴松の夭逝により、秀吉から関白職を譲られて聚楽第に入る。文禄の役では秀次軍団の根拠地が東海のため渡海を免れた一方、秀頼が誕生する――!

享年二八(生1568-没1595)。伊達政宗より一つ年下。同い年は黒田長政

詳細

1.小牧・長久手の戦い

豊臣秀次系図
図1:豊臣秀次系図

豊臣秀次秀次は、豊臣秀吉豊臣秀吉の近臣・三好吉房と秀吉の姉ともの間に生まれた子で、秀吉の甥にあたります。

秀吉は天下統一のため、山崎の戦いで明智光秀明智光秀を、賤ヶ岳で柴田勝家柴田勝家を討ちましたが、織田家の生き残りである織田信長信長の次男・織田信雄信雄(のぶかつ)と争うようになりました。

信雄は徳川家康徳川家康を味方につけて秀吉と断交。天正一二年(1584)秀次一七歳の時に、小牧・長久手の戦い(秀吉VS家康・信雄連合軍)が起こりました。

秀吉軍の池田恒興は「小牧山に軍勢が結集された為、その隙に家康の本国・三河を攻撃すれば家康隊は大混乱に陥るはずだ。」と秀吉に提案。秀吉は迷いましたが、甥の秀次までが三河攻撃の大将を務めると言ってきた為、恒興の作戦を採用しました。

2.長久手隊の顛末

長久手隊として先手・池田恒興隊、二番・森長可森長可隊、三番・堀秀政隊、四番・秀次隊で合計二万の大部隊のが組織されると、長久手隊は隠密行動で三河に向かいました。

しかし途中でこの情報が漏れて伝わってしまい、家康は直ちに一万の対撃隊を組織して進軍。家康の対撃隊である先鋒の榊原康政榊原康政は、秀吉軍最後尾の秀次軍を攻撃しました。ふいをつかれた秀次軍は、敵の二倍の兵力を持ちながらあっけなく敗走。

堀秀政隊は康政隊を撃退しましたが、家康本陣が既に近くまで到着していたので退却。危ういところを助かった秀次の急報により、富士ヶ根付近まで戻った恒興隊と長可隊は、ここでついに家康隊と対峙。

狭い地域での大激戦が始まり、あっという間に恒興は子の元助と共に戦死。また鬼武蔵と名高い森長可も戦死。八〇〇〇人を率いて出陣した秀次ですが、この顛末(てんまつ)に秀吉から「無分別」と叱責されました。

3.関白となる

文禄年間 東海地方諸大名配置図
図2:文禄年間 東海地方諸大名配置図

翌天正一三年(1585)七月、秀吉が関白・従一位に任ぜられると、同年八月に秀次は紀伊,四国平定(VS長宗我部元親長宗我部元親)の功により、秀吉から近江四三万石を与えられて八幡山を居城としました。

また宿老として、山内一豊山内一豊堀尾吉晴 ・中村一氏・田中吉政らを付与しました。

翌年、秀吉は太政大臣に昇進し豊臣姓を授かり、また京都の居城として聚楽第(じゅらくだい)の造営に着手。天正一七年には秀吉と淀殿淀殿の間に鶴松が誕生しました。同一八年、秀次は改易された信雄の旧領尾張と北伊勢五郡を与えられ清州城に入り、宿老たちは三河・遠江・駿河で知行を得ました。

同年七月の小田原合戦(VS北条氏政北条氏政)には先陣を承り、山中城・韮山城を攻略。翌・同一九年(1591)には奥州平定(VS九戸政実)のため徳川家康と共に派遣され、検地や刀狩りを実施。

同年八月、鶴松の夭逝により同年一二月、秀吉から秀次二四歳は関白職を譲られて聚楽第に入りました。

4.秀頼誕生

文禄元年(1592)四月、秀吉の明国制圧の野望により日本軍朝鮮に侵攻すると、秀次は国内にあって継舟・次飛脚の制度を定め、兵糧米の確保や独自の軍事編成によって京畿の警護にあたりました。

翌年八月、秀吉と淀殿の間に豊臣秀頼お拾い(秀頼)が誕生すると、秀吉との間に亀裂が入りました。

関白としての秀次は、天皇の意思を取り次ぐ立場にあり、公家・寺社・官位・交通など国家的事象に関わる事柄でした。他方で秀次は、尾張を中心とする独自の家臣団を有していましたが、秀吉は尾張に検地を派遣して、政治的監察を行い尾張の実態を掌握しました。

5.秀次事件

文禄四年(1595)七月、秀吉は秀次に謀反の疑いをかけて出家させ、無位無官としたうえで高野山に追いやり、秀次は一五日に切腹させられました。享年二八。

八月二日、子女・妻妾ら三〇余人も京都三条河原で処刑され、多数の近臣も殺されました。この妾の中には最上義光の娘が含まれ、細川忠興細川忠興は秀次に借金をしていたことにより連座の恐れ、もとより宿老の山内一豊らはじめ東海軍団はどうなってしまうのか、全国各地の大名に波紋を広げました。

ところで七月の秀次事件より三ヶ月前に秀次の弟である大和郡山城主・秀保一七歳が謎の死を遂げています。また同事件の一年後の慶長元年(1596)閏七月に畿内大地震、一一月には秀吉によりキリスト教信者二六人が処刑、翌二年に日本軍は朝鮮へ再出兵となりました。

秀次は軽率だとか残忍だとか性格の問題がよく指摘されますが、古書収集家の一面がある教養人で、経典の補修などにも意を払っていました。

秀次事件の息苦しさは、朝鮮・明との一時停戦期において、との和議交渉を決裂させ、再度戦争に突き進むことしかできなかった世相を反映しているかのようです。

豊臣秀次 相関図

豊臣家

主君で養父:豊臣秀吉豊臣秀吉/従弟:豊臣秀頼豊臣秀頼

他の秀吉養子:宇喜多秀家宇喜多秀家小早川秀秋小早川秀秋

小牧・長久手の戦い

味方の長久手隊:池田恒興森長可森長可・堀秀政

ライバル:織田信雄織田信雄徳川家康徳川家康榊原康政榊原康政

秀次付 宿老

山内一豊山内一豊堀尾吉晴 ・中村一氏・前野長康・田中吉政

  

参考文献

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