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戦国武将解説

豊臣秀次(とよとみ-ひでつぐ)

プロフィール

豊臣秀次
Hidetsugu Toyotomi

秀吉の甥で関白職を授かる。幼名・孫七郎。古書収集家。

小牧・長久手の戦いで、秀吉軍@長久手隊として池田恒興・森長可らと共に、織田信雄徳川家康連合軍と戦うが、忠興・長可は戦死してしまい秀吉から叱責を受ける。

改易された信雄の旧領尾張と北伊勢五郡を与えられ清州城に入り、秀次宿老の山内一豊堀尾吉晴・中村一氏・田中吉政らも三河・遠江・駿河に知行を得た。

秀吉の子・鶴松の夭逝により、二四歳の時に秀吉から関白職を譲られて聚楽第に入る。

文禄の役では、秀次軍団の根拠地が東海ということもあり渡海を免れたが、秀頼が誕生すると秀吉との間に亀裂が入って――!

享年二八(生1568-没1595)。伊達政宗より一つ年下。同い年は黒田長政

詳細

1.池田恒興の作戦に賛同

豊臣秀次秀次は、豊臣秀吉豊臣秀吉の近臣・三好吉房と秀吉の姉のともの間に生まれた子で、秀吉の甥にあたります。

秀吉は天下統一のため、本能寺で明智光秀明智光秀を、賤ヶ岳で柴田勝家柴田勝家を討ちましたが、織田家の生き残りである織田信長信長の次男・織田信忠信雄(のぶかつ)と争うようになりました。

信雄は徳川家康徳川家康を味方につけて秀吉と断交し、天正一二年(1584)秀次一七歳の時に、小牧・長久手の戦い(秀吉VS家康・信雄連合軍)が勃発しました。

秀吉軍は数の上では圧倒的に優勢でしたが、ゆえに焦りは強くなっていきました。

そこで豊臣軍の池田恒興は、「小牧山に軍勢が結集された為、家康の本国である三河は守りが手薄になっているに違いない。その隙に三河を攻撃してしまえば家康の軍隊は大混乱に陥るはずだ。」と秀吉に提案。

秀吉は迷いましたが、甥の秀次までが三河攻撃の大将を務めると言ってきた為、恒興の作戦を採用しました。

2.長久手隊の顛末(てんまつ)

長久手隊として先手・池田恒興隊、二番・森長可森長可隊、三番・堀秀政隊、四番・秀次隊で合計二万の大部隊のが組織されると、長久手隊は隠密行動で三河に向かいました。

しかし途中でこの情報が漏れて家康に伝わってしまい、家康はただちに一万の対撃隊を組織して進軍。

家康の対撃隊である先鋒の榊原康政榊原康政は、秀吉軍最後尾の秀次軍を攻撃しました。ふいをつかれた秀次軍は、敵の二倍の兵力を持ちながらあっけなく敗走。

後方の銃声で家康軍に気付いた堀秀政隊は、康政隊を撃退しましたが家康本陣が既に近くまで到着していたので退却。危ういところを助かった秀次の急報により、富士ヶ根付近まで戻った恒興隊と長可隊は、ここでついに家康隊と対峙。

狭い地域での大激戦が始まり、あっという間に恒興は子の元助とともに戦死。また、鬼武蔵と名高い森長可も戦死。八千人を率いて出陣した秀次ですが、この顛末(てんまつ)に秀吉から「無分別」と叱責されました。

3.関白となる

文禄年間 東海地方諸大名配置図
図1:文禄年間 東海地方諸大名配置図

翌天正一三年(1585)七月、秀吉が関白・従一位に任ぜられると、同年閏八月に秀次は紀伊,四国平定(VS長宗我部元親長宗我部元親)の功により、秀吉から近江四三万石を与えられて八幡山を居城としました。

また、宿老として山内一豊山内一豊堀尾吉晴 ・中村一氏・田中吉政らを付与しました。

翌年、秀吉は太政大臣に昇進し豊臣姓を授かり、また京都の居城として聚楽第(じゅらくだい)の造営に着手。天正一七年には秀吉と淀殿(茶々)素材淀殿の間に鶴松が誕生しました。

同一八年、秀次は改易された信雄の旧領尾張と北伊勢五郡を与えられ清州城に入り、宿老たちは三河・遠江・駿河で知行を得ました。

同年七月の小田原合戦(VS北条氏政北条氏政)には先陣を承り、山中城・韮山城を攻略。翌年天正一九年(1591)には奥州平定(VS九戸政実)の為、徳川家康と共に派遣され、検地や刀狩りを実施しました。

同年八月、鶴松の夭逝により、同年一二月、秀吉から二四歳の秀次は関白職を譲られ、聚楽第に入りました。

4.秀頼誕生

文禄元年(1592)四月、秀吉の明国制圧の野望により日本軍朝鮮に侵攻すると、秀次は国内にあって、継舟・次飛脚の制度を定め、兵糧米の確保や独自の軍事編成によって京畿の警護にあたりました。

翌年八月、秀吉と淀殿の間に豊臣秀頼秀頼が誕生すると、秀吉との間に亀裂が入りました。

関白としての秀次は、天皇の意思を取り次ぐ立場にあり、公家・寺社・官位・交通など国家的事象に関わる事柄でした。

他方で秀次は、尾張を中心とする独自の家臣団を有していましたが、秀吉は尾張に検地を派遣して、政治的監察を行い尾張の実態を掌握しました。

5.処刑

文禄四年(1595)七月、秀吉は秀次に謀反の疑いをかけて出家させ、無位無官としたうえで高野山に追いやり、秀次は一五日に切腹させられました。二八歳。八月二日、子女・妻妾ら三〇余人も京都三条河原で処刑され、多数の近臣も殺されました。

さて、これに先立つ文禄二年一月、平壌で李如松に敗れた小西行長小西行長は、大友義統在番の黄海道鳳山まで逃れましたが、平壌敗退の報を聴いた義統は逃亡。同年五月、秀吉によって義統は改易にさせられました。

秀次の処刑は「大友事件」に続く戦時下にふさわしい暴力的な出来事で、ある意味驚く方が迂闊(うかつ)かもしれません。

「秀次事件」の一年後に畿内大地震、その翌年に日本軍は朝鮮へ再出兵 となり、藤原惺窩(せいか)曰く「日本の民衆の憔悴(しょうすい)が今ほどひどい時代はありませんでした。(姜沆著・看羊録(かんようろく))」

秀次は軽率だとか残忍だとか性格の問題がよく指摘されるところではありますが、一方で古書収集家の一面がある教養人で、経典の補修などにも意を払ってもいたことは心に留めておきたいです。

豊臣秀次相関図

主君で養父

豊臣秀吉豊臣秀吉

他の秀吉養子

宇喜多秀家宇喜多秀家小早川秀秋小早川秀秋

小牧・長久手の戦い

味方の長久手隊:池田恒興森長可森長可・堀秀政

ライバル:織田信忠織田信雄徳川家康徳川家康榊原康政榊原康政

秀次付 宿老

山内一豊山内一豊堀尾吉晴 ・中村一氏・前野長康・田中吉政

処刑される契機となった人物

豊臣秀頼豊臣秀頼

  

関連トピック

豊臣秀次肖像素材

参考文献

三鬼 清一郎『鉄砲とその時代 (読みなおす日本史) 』(吉川弘文館 、2012年)

国史大辞典編集委員会 編集『国史大辞典〈10〉』(吉川弘文館、1989年)

奈良本 辰也 (監修)、主婦と生活社 (編集)『戦国武将ものしり事典 』(主婦と生活社 、2000年)