プロフィール

薩摩(鹿児島県)の武将。惟新と号し、兵庫頭、武庫[註]とも呼ばれる。
六〇過ぎても国内外問わず常に戦場の最前線に立つ。
島津家当主で兄の義久と共に九州統一を進めたが、豊臣秀吉の九州征伐に敗北。
薩摩・大隅両国を安堵され、文禄の役に従軍。第四軍として江原道へ進軍。また朝鮮の要衝・晋州城を攻略した。
慶長の役では朝鮮水軍将元均を襲撃し、泗川倭城で明軍を迎撃。この戦争の最後に露梁海峡において、李舜臣率いる朝鮮水軍に挑む――!
詳細
1.兄との関係

薩摩の島津一七代当主貴久(たかひさ)の四兄弟の次男として生まれた義弘。
しかし長男義久が島津当主となっても、義弘には力があって島津家は義久と義弘が双璧となって支えていました。
豊臣秀吉も島津家に交渉する際は、義久にすべきか義弘にすべきか、迷うこともあったようです。
義久と共に九州統一を進めましたが、秀吉の九州征伐に敗北。島津家は薩摩、大隅両国の支配を安堵されますが、朝鮮出兵に加わらなければなりませんでした。
2.朝鮮出兵

義久は薩摩に残り、義弘五八歳は第四軍として渡海して江原道へ進軍。また加藤清正・
黒田長政らと共に朝鮮の要衝・晋州城を攻略しました。
慶長二年(1597)朝鮮再出兵において義弘六三歳は再び渡海。藤堂高虎・
脇坂安治ら率いる日本水軍が元均率いる朝鮮水軍を漆川梁にて撃破しました。
陸地に逃れた元均を陸地で待機していた島津軍が襲撃、元均は敗死しました。
日本軍は全羅道に侵入し各地で虐殺や略奪を行いましたが、秀吉が死去し日本軍帰国となった時、明・朝鮮連合軍の大逆襲が始まります。
3.泗川の戦い
明・朝鮮連合軍は四路に分けて、中路軍提督 薫一元(とういつげん)は、義弘籠る泗川(サチョン)倭城に向けて進軍しました。
これに対し島津軍は南江(ナムガン)の対岸にある出城の望晋(マンジン)倭城に寺山久兼、永春(ヨンチュン)倭城に川上久智を、また船津浦の対岸の昆陽(コンヤン)倭城に北郷三久・伊集院忠真を配置。

薫一元は連日攻撃して、これら倭城を落とし、南江を越えた明軍でしたがこれは義弘の罠でした。
慶長三年一〇月一日、薫一元率いる連合軍が泗川倭城に押し寄せ、矢や銃弾を浴びせました。これに対し、島津軍は一斉に鉄砲で迎撃。
明軍は退却し、島津家記録『征韓録』によれば、このとき打ち取った首は三万八千七百十七であり、これらの鼻を削いで大樽に詰めて日本に送りました。詳しくは泗川の戦いをご参照ください。
4.露梁海戦
一方、順天倭城の小西行長は、明・朝鮮軍に城を囲まれ帰国の帰路を断たれていました。小西救援のため義弘は、
立花宗茂・
宗義智らとともに約五百隻の大船団を率いて、南海から露梁(ノリャン)に迫りました。
義弘を最後に待ち構えていたのは、救国の英雄・李舜臣。

義弘の率いる兵船が露梁津の海峡に至ると、李舜臣率いる朝鮮水軍と陳璘率いる明水軍は左右から砲撃を加えました。
戦いは翌日まで続き、混戦となり、島津勢が発した銃弾が李舜臣の胸中に命中。島津勢は多数の死傷者を出しました。
一方の小西は義弘が死闘を繰り広げている中、お陰様で無事脱出しました。
5.関ヶ原の戦い
帰国後、休む暇もなく関ヶ原の戦いが待っていました。
西軍・石田三成側についた島津家。慶長五年(1600)九月、関ヶ原に赴いたのはやはり義弘六六歳で、兄・義久は薩摩にいました。兄は、朝鮮の戦も関ヶ原の戦いも非協力的で、充分な物資や人員を義弘に送ってはくれません。
少ない兵で関ヶ原に布陣した島津軍。しかしもともと関ヶ原の戦いには加わりたくなかったので、戦いが始まっても動きませんでした。

2003年撮影
一応見方についてみた西軍が敗北すると、島津軍のとった行動は徳川家康本陣のど真ん中を通る敵中突破。ただ逃げるのも島津の意地が許さないということらしいです。
的中突破する島津軍を猛将・本多忠勝が後ろから猛攻。島津軍の犠牲は大きく、多くの兵を失い、義久の息子すなわち義弘の甥もここで失ってしまいました。義弘は命からがら、薩摩へなんとか逃げ帰ってきました。
6.琉球侵攻
慶長一四年(1609)三月、三〇〇〇の薩摩軍勢が琉球に侵攻し、首里城において琉球国王・尚寧(しょうねい)は降伏させられました。
家康は、琉球陥落の報に接すると即座に義弘の子で島津一八代当主家久に琉球の仕置(しおき)権=支配権を与えました。薩摩は奄美諸島を割(さ)き取り、琉球支配の基本方針である掟(おきて)一五カ条を制定。
その契約書の署名を拒んだ、琉球の三司官(大臣)謝名利山(じゃな-りさん)は、義弘の命で殺害されました。
一体何がこれほど好戦的にさせているのだろうか。個人的に今、一番引っかかっている武将です。
島津義弘 相関図
九州のライバル
大友家
龍造寺家
漆川梁海戦
露梁海戦
関ヶ原の戦い
敵中突破する島津隊を本多忠勝隊が猛攻。
参考文献
- 紙屋敦之『琉球と日本・中国(日本史リブレット)』(山川出版社、2003年)
- 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)
補註
文献2「全浙兵制孝」(候継高編)140頁に「武庫」の名で義弘の記述あり。 明人・朱均旺は、広南(ベトナム中部)で商売しようと海に出たが、倭に遭って囚われの身となる。島津氏医師の許儀後と知り合う一方、島津氏は薩摩国内の唐人全ての出奔を許さなかった。秀吉の明侵攻計画を本国に知らせるべく、薩摩に妻子のいる許儀後に替わって朱均旺が国外脱出を試みる。堅く出船を拒んでいた武庫に、出船しなければ交易の路が経たれると説き、(武庫は)渋々承知した。那覇の福建人・久米村三六姓も併せて参考のこと。