戦国サプリメント

戦国未満

  1. HOME
  2. 人名一覧

戦国人物解説

蒲生氏郷(がもう-うじさと)歌人の高祖父、会津に絶える子孫

目次

プロフィール詳細:1.歌人の高祖父 2.政宗の見張り役

3.町づくりと最期 4.短命の子孫相関図関連記事

プロフィール

蒲生氏郷
Ujisato Gamo

近江(滋賀県)出身、陸奥(福島県)の戦国大名。

幼名は鶴千代、洗礼名はレオン。伊達政宗のライバル。

信長の小姓で、気に入られ、信長の娘を与えられる。信長死後は秀吉に仕え、東北の伊達政宗の監視役を命じられ、政宗を牽制。

秀吉の朝鮮出兵では、秀吉の渡海を制止しようする浅野長政を、徳川家康前田利家とともに援護するが――

享年40(生1556-没1595)。藤堂高虎と同い年。上杉景勝より一つ下。

詳細

1.歌人の高祖父

文禄年間 東日本諸大名配置図
図:文禄年間 東日本諸大名配置図

蒲生氏の始祖ははっきりしませんが、蒲生氏郷氏郷の高祖父・貞秀(さだひで)は、近江(滋賀県)蒲生郡の豪族。宗祇(そうぎ)、三条西実隆、飛鳥井雅親らとの親交があり、勅撰に準ずる「新撰菟玖波(つくば)集」に五句のっています。

父は賢秀(かたひで)、同国六角氏家臣・日野城主。永禄一一年(1568)九月、信長の近江侵攻に父賢秀が降(くだ)ると氏郷一三歳は、父の人質として美濃国岐阜の織田信長織田信長の所に送られました。

初陣はその翌年。信長に従って、伊勢国司北畠具教(とものり)の大河内城(三重県)攻めに参戦。少年のあどけなさを残しながらも、大いに活躍。これを喜んだ信長は娘の冬姫(ふゆひめ)を与えました。

2.政宗の見張り役

信長死後、豊臣秀吉豊臣秀吉に仕えた氏郷。秀吉も氏郷の器量を高く評価していました。

東北の伊達政宗伊達政宗の見張り役には氏郷が適任ということで、秀吉の命により氏郷は伊勢(三重県)から会津若松(福島県)へ移封。氏郷はそこで四二万、最終的には九二万石を与えられました。

そもそも会津は芦名の領地を政宗が攻めとった地。小田原参陣に遅参したため、秀吉に取り上げられたのでした。かくして政宗は、奥州の一揆を扇動して氏郷を会津から追おうとしましたが失敗。次に政宗は阿武隈川を挟んだ境界線に文句をつけ、氏郷は平兼盛の歌を引き合いに出して、政宗の主張を退けました。

3.町づくりと最期

一方で文禄元年(1592)氏郷の会津若松の町づくりがスタート。城下町の目貫通りを十字路にしたり、メインストリートを幅四間(約7メートル)にしたり、画期的な町づくりを推進。そこには火薬を扱い、火事が出るおそれのある鉄砲町を風下に配置する工夫もみられました。

文禄の役では肥前(佐賀県)名護屋に出陣。秀吉の渡海を制止しようする浅野長政浅野長政を、徳川家康徳川家康前田利家前田利家とともに援護しました。しかし名護屋で病にかかり、伏見の自邸で同四年二月七日に四〇歳の若さで死去。時世の句 ”限りあれば吹かねど 花は散るものを こころみじかき春の山風”

4.短命の子孫

氏郷死去の年、長男・秀行(ひでゆき)一三歳は父の跡を継ぎ、家康と利家の後見を受けました。またこの年、家康三女の振姫(ふりひめ)と結婚。慶長三年(1598)重臣間の争いを理由に会津を没収され、下野(しもつけ:栃木県)宇都宮一八万石に減転封。しかし関ヶ原の戦いで東軍に属し、会津六〇万石に復封しました。

同一七年(1612)五月秀行三〇歳が死去。子・忠郷(たださと)は、一〇歳で会津藩主となるも、若年のため家中を統率できないまま、寛永四年(1627)一月に二五歳で死去。嗣子(しし)なく会津は没収されました。

代わりにその弟の忠知(ただとも)に伊予(愛知県)松山二〇万と近江日野四万石が与えられました。しかし同一一年(1634)八月に忠知も三〇歳で死去、且また嗣子なく蒲生家は断絶しました。

なお会津藩は、同四年に加藤嘉明加藤嘉明と交替ののち、徳川家光家光の異母弟・保科正之が藩主となり、松平の姓との紋を許され明治に至りました。

蒲生氏郷 相関図

蒲生氏

  • 高祖父:貞秀-曾祖父:高郷-祖父:定秀
  • 父:賢秀、母:後藤氏
  • 妹:虎(三条局)。秀吉の側室。
  • 妻:冬姫信長の娘)
  • 子:秀行、氏俊
  • 孫(秀行と家康三女振姫の子):忠郷、忠知

外様大名

  • 陸奥会津藩:秀行-忠郷 → 伊予松山藩:忠知。蒲生家断絶。

織田政権

豊臣政権

参考文献

関連記事:蒲生氏郷