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プロフィール

近江(滋賀県)出身、陸奥(福島県)の戦国大名。
幼名は鶴千代、洗礼名はレオン。伊達政宗のライバル。
織田信長の小姓で、気に入られ、信長の娘を与えられる。信長死後は豊臣秀吉に仕え、東北の伊達政宗の監視役を命じられ、政宗を牽制。
詳細

近江国六角氏家臣・日野城主の蒲生賢秀の第一子。永禄一一年(1568)九月、信長の近江侵攻に賢秀が降(くだ)ると氏郷一三歳は、父の人質として美濃国岐阜の
織田信長の所に送られました。
初陣はその翌年。信長に従って、伊勢国司北畠具教(とものり)の大河内城(三重県)攻めに参戦。少年のあどけなさを残しながらも、大いに活躍。これを喜んだ信長は末娘の冬姫(ふゆひめ)を与えました。
信長死後、豊臣秀吉に仕えた氏郷。秀吉も氏郷の器量を高く評価していました。
東北の伊達政宗の見張り役には氏郷が適任ということで、秀吉の命により氏郷は伊勢(三重県)から会津若松(福島県)へ移封。氏郷はそこで四二万石、最終的には九二万石を与えられました。
そもそも会津は芦名の領地を政宗が攻めとった地。小田原参陣に遅参したため、秀吉に取り上げられたのでした。かくして政宗は奥州の一揆を扇動して氏郷を会津から追おうとしましたが失敗。次に阿武隈川を挟んだ境界線に文句をつけ、平兼盛の歌を引き合いに出して、政宗の主張を退けました。
文禄の役では肥前・名護屋に出陣。秀吉の渡海を制止しようする浅野長政を
徳川家康と
前田利家とともに援護しました。しかし名護屋で病にかかり、伏見の自邸で四〇歳の若さで死去。
茶の湯と和歌も愛した武将であり文化人であった氏郷の人生は、時世の句に集約されているようにも思えます。
限りあれば吹かねど 花は散るものを こころみじかき春の山風
氏郷は個人的に秀吉の弟・秀長を彷彿させます。朝鮮出兵の歯止め役で、もう少し長く生きていたら状況が変わっていたのではなかろうかと思わせてくれる、キリシタン・レオンにして仁や礼を感じさせる人柄です。
蒲生氏郷 相関図
主君
信長小姓
ライバル
文禄の役 名護屋後詰め
茶の湯
参考文献
- 奈良本辰也 (監修)『戦国武将ものしり事典
』(主婦と生活社、2000年)
- 小和田 哲男監修『ビジュアル 戦国1000人 ―応仁の乱から大坂城炎上まで乱世のドラマを読む
』(世界文化社、2009年)
- 新人物往来社 (編集) 『天下取り採点 戦国武将205人
』(新人物往来社、1998年)