目次
プロフィール
近江国(滋賀県)出身、会津若松(福島県)の戦国大名。
幼名・鶴千代、通称・忠三郎、洗礼名・レオン。
信長の小姓で、気に入られ、信長の娘を与えられる。信長死後は秀吉に仕え、秀吉が奥州仕置により没収した会津含む三郡を与えられた。
旧葛西・大崎氏の領地は木村吉清に与えられたが、一揆が勃発。秀吉はこの鎮圧に氏郷と伊達政宗に命じるも、氏郷は政宗を信用できず職務放棄。
詳細
1.歌人の高祖父
蒲生氏の始祖ははっきりしませんが、氏郷の高祖父・貞秀(さだひで)は、近江国(滋賀県)蒲生郡の豪族。宗祇(そうぎ)、三条西実隆、飛鳥井雅親らとの親交があり、勅撰に準ずる「新撰菟玖波(つくば)集」に五句のっています。
父は賢秀(かたひで)、同国六角氏家臣・日野城主。永禄一一年(1568)九月、信長の近江侵攻に父賢秀が降(くだ)ると氏郷一三歳は、父の人質として美濃国岐阜の織田信長の所に送られました。
初陣はその翌年。信長に従って、伊勢国司北畠具教(とものり)の大河内城(三重県)攻めに参戦。少年のあどけなさを残しながらも、大いに活躍。これを喜んだ信長は娘の冬姫(ふゆひめ)を与えました。
2.政宗との軋轢
信長死後、秀吉に仕えた氏郷。秀吉も氏郷の器量を高く評価していました。
米沢城(山形県)の伊達政宗は、北条氏と繋がっていたか散々迷って同一八年(1590)六月、小田原に参向し、秀吉に遅参を謝罪。政宗が拡張した領国のうち、会津・安積・磐瀬三郡は没収されました。
この三郡は氏郷に与えられ、伊勢(三重県)松阪一二万石から会津若松(福島県)へ移封。氏郷は四二万石、最終的には九二万石を与えられました。ところで会津は、政宗が蘆名(あしな)氏から攻めとった地でした。
小田原参陣に至らなかった葛西・大崎氏の諸郡(岩手県南部~宮城県北部)は、秀吉直臣の木村吉清に与えられました。「氏郷記」によれば木村氏は明智氏の旧臣で、氏郷の推挙によって大名となりました。
然しながら木村吉清の治政は非道を極め、これに怒った旧葛西・大崎領の領民は木村勢を攻め、大一揆に立ち上がりました。秀吉はその鎮圧を、氏郷三五歳と政宗二五歳に命令。
しかし氏郷は同年一一月一六日、大崎氏の居城であった玉造郡・名生(みょう:宮城県大崎市)城を攻略してここに籠城。伊達家家臣の須田伯耆という者が、政宗は一揆と同心して、饗応の場で氏郷を討ち果たすつもりであると密告したためでした。これを氏郷は直ちに秀吉のもとに通報。
木村吉清の救出は政宗によって行われるも、氏郷の疑念は晴れず、奥州検地奉行の浅野長吉が二人の関係修復につとめました。翌天正一九年(1591)の正月元旦に、政宗の指示により伊達成実が名生城に行き、氏郷は同月五日に人質成実を帰しました。
しかし氏郷の立場は京都では良好とはいえず、秀吉の腹立ちを受けていました。また政宗は、氏郷が秀吉に通報した件(一揆)と、氏郷との軋轢について上洛して弁明することが必要な状況になりました。
上洛後、米沢に帰った政宗は、同年六月に葛西・大崎一揆の再討伐に出陣。これは九戸政実の乱の討伐を含む、豊臣秀次を主将とする大討伐軍で、氏郷や長吉、佐竹義宣らも従軍しました。
3.町づくりと最期
文禄元年(1592)氏郷の会津若松の町づくりがスタート。
城下町の目貫通りを十字路にしたり、メインストリートを幅四間(約7メートル)にしたり、画期的な町づくりを推進。そこには火薬を扱い、火事が出るおそれのある鉄砲町を風下に配置する工夫もみられました。
文禄の役では肥前(佐賀県)名護屋に出陣。秀吉の渡海を制止しようする浅野長吉を、徳川家康と前田利家とともに援護しました。しかし名護屋で病にかかり、伏見の自邸で同四年二月七日に四〇歳の若さで死去。時世の句 ”限りあれば吹かねど 花は散るものを こころみじかき春の山風”
4.短命の子孫
氏郷死去の年、長男・秀行(ひでゆき)一三歳は父の跡を継ぎ、家康と利家の後見を受けました。
またこの年、家康三女の振姫(ふりひめ)と結婚。慶長三年(1598)重臣間の争いを理由に会津を没収され、下野(しもつけ:栃木県)宇都宮一八万石に減転封。しかし関ヶ原の戦いで東軍に属し、会津六〇万石に復封しました。
同一七年(1612)五月秀行三〇歳が死去。子・忠郷(たださと)は、一〇歳で会津藩主となるも、若年のため家中を統率できないまま、寛永四年(1627)一月に二五歳で死去。嗣子(しし)なく会津は没収されました。
代わりにその弟の忠知(ただとも)に伊予(愛知県)松山二〇万と近江日野四万石が与えられました。しかし同一一年(1634)八月に忠知も三〇歳で死去、且また嗣子なく蒲生家は断絶しました。
なお会津藩は、同四年に加藤嘉明と交替ののち、家光の異母弟・保科正之が藩主となり、松平の姓と葵の紋を許され明治に至りました。
蒲生氏郷 相関図
蒲生氏
外様大名
- 陸奥会津藩:秀行-忠郷 → 伊予松山藩:忠知。蒲生家断絶。
織田政権
豊臣政権
参考文献
- 小和田哲男「蒲生氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)228頁
- 黒田和子『浅野長政とその時代』(校倉書房、2000年)「第八章 奥州仕置 5会津仕置」206頁、「第九章 葛西大崎一揆」220-224、227-229頁
- 大石直正「5章3 葛西・大崎一揆」・渡辺信夫「6章1 仙台開府」『宮城県の歴史(県史4)』147-152頁
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「蒲生氏郷」34頁
- 藪景三「蒲生氏郷」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)172-173頁