プロフィール
若狭(福井県)小浜城主。のちに歌人として活躍。
秀吉の近臣として厚遇され、小田原征伐や文禄の役などに従う。関ヶ原の戦いでは伏見城を預かるが、石田三成の挙兵に戦わず城を開ける。
詳細
1.小早川秀秋の兄
勝俊は、永禄一二年(1569)に生まれました。豊臣秀吉の正室・北政所の兄で備中(岡山県)足守(あしもり)城主・木下家定の長男。一三歳年下の弟に小早川秀秋がいます。
秀吉の近臣として厚遇され、一九歳で播磨(兵庫県)竜野城主となり、小田原征伐(VS北条氏政)、文禄の役などに従いました。
文禄ニ年(1593)二五歳で若狭(福井県)小浜(おばま)城主となりました。
2.武将失格
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いにおいて勝俊三二歳は伏見城を預かりますが、石田三成の挙兵に戦わず城を開けました。戦後、任務を放棄した責任を問われて剃髪(ていはつ)して京の東山に隠棲、長嘯子(ちょうしょうし)と号しました。
隠棲後は和歌を細川忠興に学び、儒者の藤原惺窩や林羅山ら多くの文人と広く交わり、またその接点に立って活躍しました。
慶長の役で日本軍に捕らわれた姜沆著の『看羊録』には惺窩は「ただ若州少将(木下)勝俊と(赤松)左兵(衛)広通と交遊した」とあります。
3.和歌と評価
武将としては失格者でしたが、そんな彼だからこそ詠める歌があり、長嘯子の和歌は後世に大きな影響を与えました。
以下、長嘯子家集『挙白集(きょはくしゅう)』を取り上げた久保田啓一(校注・訳)文献2より三首ご紹介します。
- むつまじく うき身尋ねて やどるより 涙うれしき袖の月かげ(つらい身の上である私のもとを月の影が親密に尋ねて来て私の袖に宿ってくれてから、それまではつらく流した涙がうれしく感じられる。)
- 玉くしげ あけぬくれぬと いたづらに 二度(ふたたび)もこぬ 世をすぐすかな(世が明けた、日が暮れたといって、何もなすことなく、二度と来ないこの世を過ごすことだ。)
- 中々に とはれし程ぞ 山ざとは 人もまたれて さびしかりつる(かえって訪問された時の方が、もしかして人が来るかもしれないと自然と待たれて、山里は寂しいものだな。/なまじ期待しがいのある方が寂しいとの感慨。)
長嘯子の歌は異端とされているのですが、久保田啓一氏(文献2)によれば『挙白集』所収のニ千首の和歌の特徴を一つ一つ取り立てていくのは困難な作業といわざるを得ず、伝統歌学に無学だったのか、知識として有しながらあえて類型から逸脱しているのかを見極めるのは難しいとのこと。
然しながら、詩歌に優れた後水尾天皇が自らの御歌について、長嘯子の意見を気にしてました。長嘯子もまた率直な批判も辞さず、後水尾天皇は長嘯子に全面的に心服しているわけではありませんでしたが、批判を甘受する気持ちがありました。
近世和歌は長嘯子や後水尾天皇らから始まり、宮廷中心から、お金や時間にゆとりがあれば身分問わず参加者が広がっていくのでした。
木下勝俊 相関図
木下氏
- 父:木下家定。秀吉の正室・北政所の兄。備中(岡山県)足守(あしもり)藩主。
- 勝俊(長嘯子):家定長男。和歌の道に生きる。
- 利房(としふさ):家定次男。父の遺領を継ぎ足守藩初代、二万五〇〇〇石。以後幕末に至る。
- 延利(のぶとし):家定三男。豊後(大分県)日出(ひじ)藩初代、三万石。以後幕末に至る。
- 俊貞(としさだ)
- 秀秋:家定五男。小早川隆景の養子となる。
交友関係
参考文献
- 松田修「木下長嘯子」『国史大辞典4』(吉川弘文館、1984年)185頁
- 久保田啓一(校注・訳)『近世和歌集(新編 日本古典文学全集)』(小学館、2002年)
- 小和田哲男「木下氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)247-248頁