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戦国武将解説

小早川秀秋(こばやかわ-ひであき)宿命の豊臣一門、慶長の役総大将と関ヶ原

目次

プロフィール

詳細:1.秀吉の養子 2.小早川家の養子

3.慶長の役 総大将 4.関ヶ原の戦い

相関図関連記事参考文献

プロフィール

小早川秀秋
Hideaki Kobayakawa

筑前・筑後(福岡県西部)の戦国大名。慶長の役の総大将。

北政所(ねね)の兄の子。金吾(きんご)中納言。幼名は辰之助(たつのすけ)。

秀吉の養子だったが、秀吉の側室・淀殿に捨丸(のちの秀頼)ができたのをきっかけに、小早川隆景の養子となった。

慶長の役日本全軍の総大将として出兵。蔚山の戦いで奮戦し武名を挙げたが、反ってその軽挙が咎められて帰国を命じられる。

関ヶ原の戦いでは西軍に属す。しかし戦闘中に東軍に寝返り、徳川家康を天下人へ導く。しかしこれは、19歳の金吾には余りにも重過ぎる功績だった――

享年21(生1582-没1602)。同世代は徳川秀忠毛利秀元

詳細

1.秀吉の養子

木下家家系図
図1:木下家系図

小早川秀秋秀秋は、豊臣秀吉豊臣秀吉の正室・北政所北政所(ねね)の兄・木下家定の子。歌人・木下勝俊(長嘯子)の弟。

幼少から秀吉の養子として育てられ、羽柴秀俊(ひでとし)と名乗り頭のよい子と評判でした。一〇歳の時に参議に任じ、金吾と呼ばれました。

文禄の役が起こると文禄二年(1593)三月、一二歳の時に肥前(佐賀県)名護屋に出陣しました。

2.小早川家の養子

慶長前期地図_九州地方
図2:慶長前期地図_九州地方
秀秋の居城は筑前名島

同年八月に秀吉の側室・淀殿(茶々)素材淀殿にお拾(ひろい・のちの豊臣秀頼秀頼)が生まれると、今度は毛利家に養子に行くことになりました。しかし毛利元就毛利元就の三男である小早川隆景小早川隆景は、実家の毛利家によその血が入るのを拒み、秀俊を自分の養子にすることにしました。

あんまりな話ですが、お拾誕生後、秀吉の弟・豊臣秀長豊臣秀長の養子・秀保(ひでやす)が僅か一七で謎の死を遂げ、二八歳の関白・豊臣秀次豊臣秀次は高野山で自害させられました。それに比べれば、小早川家の養子で済んでよかっとも言えます。

慶長二年(1597)六月に隆景が病死すると、一六歳で筑前・筑後(福岡県西部)の小早川家の当主となり、秀秋と名乗りました。

2.慶長の役 総大将

慶長の役日本軍進路と主な戦い
図3:慶長の役 日本軍進路図主な戦い

同年七月に秀秋は、慶長の役日本全軍の総大将として出兵。黒田官兵衛黒田官兵衛がこれを補佐し、諸将四二人、兵一六万三千を率いて朝鮮へ渡海しました。

同年一二月、加藤清正加藤清正以下二千の日本軍が籠る蔚山(ウルサン)倭城が、明の楊鎬と麻貴及び朝鮮の権慄率いる連合軍六万に包囲されました。

翌年正月、秀秋は自ら兵を率いて蔚山に向かい、敵軍に突撃。一三人を斬り、毛利秀元毛利秀元らと共に囲みを解いたのですが石田三成石田三成は一軍の総帥として深く敵陣に突入する軽挙を責めて秀吉に讒言しました。

これにより帰国を命じられ、同年四月、伏見で秀吉は秀秋の軽挙を責め、領地五二万石から越前一五万石に移すことに決定。しかし秀吉が同年八月に死去した為、筑前に留まることができました。

3.関ヶ原の戦い

慶長五年(1600)九月、迎える関ヶ原の戦い。秀秋は東軍につくか西軍につくか、なかなか決断できませんでした。一応は西軍についていたけれど、心は揺れに揺れていました。

多くの兵を抱える秀秋の采配次第でこの戦はどちらが勝つか決まる。一九歳の秀秋は西軍についたものの、戦闘半ばで東軍に寝返り、徳川家康徳川家康を天下人へと導きました。

関ヶ原の戦いの後、二年後に死去。享年二一。心の病に近かったとも言われています。大人に利用され振り回された、儚い生涯でした。

小早川秀秋 相関図

家族

兄:木下勝俊(長嘯子)

叔母さん(実父の妹):北政所北政所/養父:豊臣秀吉豊臣秀吉・→小早川隆景小早川隆景

(血の繋がりはない)いとこ:毛利秀元毛利秀元/家臣:塙団右衛門

秀吉の養子

宇喜多秀家宇喜多秀家豊臣秀次豊臣秀次

  

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小早川秀秋

素材:肖像軍旗違い鎌紋イラスト

参考文献

平凡社編『日本人名大事典〈第2巻〉カ~コ (1979年) 』(平凡社 、1979年)