プロフィール

筑後国(現・福岡県)柳川藩の初代大名。
初名は統虎(むねとら)、号は立斎。実父は大友宗麟の重臣・高橋紹運で、紹運の同僚の立花道雪の娘婿となる。
養父・道雪と実父・紹運の軍事活動を支え、秀吉の九州平定後は秀吉から南筑後三郡を与えられた。
文禄の役では第六軍として小早川隆景と共に朝鮮へ出兵。碧蹄館の戦いでは先陣として、提督・李如松率いる明軍を撃破し武名を挙げる。
慶長の役では、露梁海峡で島津義弘を筆頭に李舜臣と陳璘の朝鮮・明連合水軍と戦う。帰国後、関ケ原の戦いでは西軍に属し所領を没収され浪人となるが――
詳細
1.道雪の養子となる

宗茂は豊後(現・大分県)の
大友宗麟の重臣で筑前(現・福岡県北西部)岩屋城主の高橋紹運(しょううん)の子。
父・紹運の同僚で筑前立花城主の立花道雪には男子がおらず、娘・闇千代(ぎんちよ)に男装させていたりしました。しかし宗茂が十五歳の時、道雪は紹運に望んで宗茂を闇千代の婿としました。
以後、宗茂は大友方として養父・道雪と実父・紹運の軍事活動を支えました。
また、秀吉の九州攻めに先立って島津軍に立花城を攻められるとこれを守り抜き、秀吉軍が九州に到着すると、その先陣となって活躍。九州平定後は南筑後三郡を与えられました。
2.明・李如松、現る

日本軍進路と国王の避難路
文禄元年(1592)年、秀吉の明国制圧の野望により、第六軍として二七歳の宗茂は小早川隆景と共に朝鮮へ出兵しました。
日本軍は破竹の勢いで朝鮮を北上し、都ソウル・漢城を半月で制圧。
首都ソウル(漢城)の朝廷はなすすべがなく、国王・宣祖は避難することとなり、 都を捨てて大雨の中を平壌(ピョンヤン)に向かいました。
しかし同年七月九日、錦山(クムサン)で全羅道に侵入した第六軍は、官軍・権慄と義兵将・郭再祐&金誠一の連合軍に敗退しました。
しかし厳しい戦いを強いられたままの朝鮮は、明に援軍を要請し明は提督・李如松を派遣することを決定。
翌同二年一月八日、李如松は四万の明兵を率いて第一軍の小西行長が籠る平壌城を落とし、この勢いに乗ってソウル襲撃を目指して南下しました。
3.碧蹄館の戦い

日本軍はこれを迎撃するため、同月二十七日にソウル北西18km地点の碧蹄館(ピョクジェグアン)で、宇喜多秀家を総帥として戦闘になりました。
碧蹄館は明の使節がソウルに訪れる前日に必ず宿泊して長夜の宴を行う所です。
先鋒隊は立花隊。先陣に家老の小野和泉ら七百人、中陣は十時伝右衛門ら五〇〇人、本隊は宗茂と宗茂の弟の高橋直次ら二千人という布陣。
午前六時から戦闘が始まり、十時隊が小野隊より前線に出て明軍に攻め入り、これを明先鋒本隊・査大受(さたいじゅ)七千が左右から襲撃。
十時は戦死、小野隊も崩れそうになった時、先鋒本隊の宗茂・直次兄弟が駆け付け明軍の側面を突き、宗茂は二〇〇〇余の敵を討ち取りました。
お昼ごろには小早川隆景ら日本軍が碧蹄館に到着し、戦闘に加わりました。
明軍は劣勢となり李如松本隊が後退し始めると、宗茂は追撃すべしと主張。
しかし小早川隆景は深追いは無用として宗茂の追撃を制止。明軍の後方部隊は強力な大砲を持っており、反撃の危険性もあり、小早川隆景の判断は妥当でした。
一方、李如松南下に呼応して朝鮮軍の権慄が南から北上。ソウルの日本軍は幸州(ヘンジュ)山城で権慄率いる朝鮮軍と戦闘になりますが敗北し、日本軍はソウルからの撤退を決定しました。
4.第二次晋州城の戦い

しかし秀吉は撤退の許可を与える代わりに、義兵や一揆の象徴的存在となっていた前年に敗れた晋州城を再び攻撃を再び攻撃することを厳命しました。
これにより文禄二年(1593)六月、第一隊の加藤清正・
黒田長政・
鍋島直茂・
島津義弘、第二隊の
小西行長・
宗義智・
細川忠興・
伊達政宗・
浅野長政・
黒田官兵衛、第三隊の
宇喜多秀家・
石田三成・
大谷吉継、第四隊の
毛利秀元、第五隊の
小早川隆景・宗茂ら日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。
十一日間の激戦の末、晋州城陥落、金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。
5.慶長の役・李舜臣との戦い

慶長の役が始まると再び宗茂は朝鮮へ渡海。再び日本軍と明・朝鮮軍の大戦争となりました。
秀吉が死去すると、日本軍の帰国が始まり、明・朝鮮連合軍は順天倭城の小西行長軍の帰国の退路を抑えました。
慶長三年(1598)一一月一五日、身動きの取れない小西行長の救援に、島津義弘を筆頭に三二歳の宗茂、
宗義智ら約五百隻の大船団が南海から露梁(ノリャン)に迫りました。
これに対して、朝鮮水軍の李舜臣と明水軍都督の陳璘は約五百隻の兵船を左右に分けて夜襲をしかける作戦で日本軍を待機。
島津義弘率いる兵船が露梁津の海峡に至ると、明・朝鮮の水軍は左右から砲撃を加えました。この戦闘中、小西行長は順天から脱出。島津勢は多数の死傷者を出し、明・朝鮮連合軍の大勝利に終わりました。
6.改易、浪人から大名へ

帰国後、関ケ原の戦いでは、直接参戦はしませんでしたが西軍に属しました。
敗戦後、居城の柳川城にこもると、家康方の加藤清正や鍋島直茂らと戦いましたが結局清正の勧告を受け入れて降参し、城を退去。改易されました。
浪人となった宗茂ですが、慶長一一年(1606)37歳の時に徳川家康・秀忠に召し出され、陸奥国棚倉で一万石を与えられて大名になりました。
大坂の陣で徳川方と参戦、元和六年(1620)五四歳の時に一一月に下筑後で十万九六〇〇石余与えられ、再び柳川に戻りました。享年七六。
正当化するつもりはありませんが、文禄・慶長の役の際、毛利秀元と同じく日本軍が危機に直面した時に突如現れる、輝く為には絶体絶命が必要だった侍っていいですね。
立花宗茂 相関図
家族
実父:高橋紹運(しょううん)/養父:立花道雪/嫁:闇千代(ぎんちよ)
ライバル
支えてくれた人
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立花宗茂
参考文献
北島 万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)
国史大辞典編集委員会 『国史大辞典 (9) 』(吉川弘文館、1979年)
笠谷 和比古, 黒田 慶一 『秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦 』(文英堂、2000年)