プロフィール
慶長の役(丁酉再乱)の際に囚われて日本に抑留された朝鮮王朝の儒学者。
字(あざな)太初、号は睡隠(すいいん)。著書『看羊録』(かんようろく)。
豊臣秀吉の命で日本軍が朝鮮に再出兵した際、文官として南原で軍糧を運搬する監督をしていたが、明・朝鮮連合軍が日本軍に敗北。
姜沆三一歳はただちに義兵を挙げるが、藤堂高虎の軍に囚われ高虎の本城・伊予大洲に抑留された。その後、伏見に移送され和僧の藤原惺窩と出逢う。
二人の交流の中で日本近世儒学の基礎が作られるも、帰国の思い深く――
詳細
1.学者の血統
姜沆は、姜克倹(カン・グツコム)の四男として全羅道霊光で生まれました。
姜家は代々高名な学者を輩出し、姜沆自身は七歳で『孟子』を一晩で諳(そら)んじ、八歳で『通鑑網目』に精通した早熟ぶりでした。
豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役・壬辰倭乱)が始まった翌年の文禄二年(1592)に二六歳で科挙に合格。文官として成均館転籍(正六品)、工曹佐郎(正六品)、刑曹佐郎(正六品)となりました。
2.藤堂軍に囚われる
日本軍再出兵(慶長の役・丁酉再乱)の際、宇喜多秀家を大将とする小西行長、島津義弘、長宗我部元親らの部隊が南原(ナモン)に迫りました。
この時、姜沆は分戸曹(戸曹付属官庁)判事の従事官として、南原を死守する明・副総兵揚元の軍糧を湖南(ホナム)に運搬する監督をしていました。
慶長二年(1597)八月一六日、日本軍が南原城の四方を取り囲み、激戦の末、揚元は敗走。南原城を落とした日本軍は秀吉の指示通り大量殺戮と鼻切りを行いました。
南原の戦い敗北後、姜沆はただちに故郷の全羅道霊光で義兵を挙げ、李舜臣の水軍に合流しようとしましたが、同年九月二三日に藤堂高虎の軍に囚われました。
この時、姜沆の幼い息子と娘は波打ち際に打ち捨てられました。姜沆自身と家族は日本に連行され、身分が高い人であるらしいということで、高虎の本城である伊予大洲に抑留されました。
3.看羊録
囚われた姜沆については、彼の著書『看羊録』(かんようろく)に詳しく記されています。ところで姜沆は何故この書を記したのでしょうか。
『看羊録』によれば日本に囚われて「このままここで死ぬのは、全く無意味に自殺するのと同じ」であり、「醜奴(日本)の情況は、既に私の眼中に捉え」たので「倭の情勢を記録」することにしたのでした。
「緊急非常の場合、ままこの書をもって事態に対処して下さるよう」国王宣祖に宛てて書かれ、以下看羊録での記述を元に本人の数奇な運命を見ていきたいと思います。以下同様に「」でくくられた箇所は全て『看羊録』からの出典です。
4.惺窩との出逢い
日本に連れて来られて約八か月後の慶長三年(1598)五月二五日、姜沆三二歳は捕虜某と脱走を企て、板島(宇和島)まで逃れました。
しかし結局捕らわれて大洲に連れ戻されてしまいます。六月には京都伏見に移送され、ここに抑留されました。
姜沆は「倭京に連れて来られてからというもの、倭国の内情を知ろうと思って」、和僧の藤原惺窩(せいか)や惺窩を師とする大名の赤松広通らと接しました。
特に惺窩は日本近世儒学の開祖と言われていて、二人の交流の中で日本近世儒学の基礎が作られました。
姜沆は惺窩のことを「大変聡明で、古文をよく解し、書についても通じていないものがない」と評価。また惺窩は姜沆に次のようなことを言いました。
「日本の民衆の憔悴(しょうすい)が今ほどひどい時代はありませんでした。(以下は惺窩の頁参照)」
同四年(1599)年、姜沆は秀吉の廟(びょう)の門に落書きをし惺窩の忠告を受けました。また惺窩の斡旋で儒学の経典を筆写し、入手した金銀で船を購入し、脱出をはかりましたが結局はまた発覚して連れ戻されました。
5.気付けば日本通
そんな姜沆でしたが、国王宣祖に報告する為の「倭の情勢の記録」には並々ならぬものがありました。
秀吉のことは勿論、徳川家康や伊達政宗等諸大名の経歴や性格、日本の地理も詳細に看羊録に記しました。これらに留まらず、律儀に日本の歴史まで丁寧に調べ上げてしまったのは流石です。
「私がその国史の編年と、いわゆる『吾妻鏡』を入手して見たところ、四百年前にはいわゆる倭の天皇はまだその威福を失っていませんでした。東将軍源頼朝以後、政治は関白に委ね、天皇は祭祀を行うことになりました。」
「弘法大師という者がいます。彼は倭人が文字(漢文)を理解できないので方言(日本語)を拠り所にして、それを四八字に分けて仮名文字を作りました。そのかなを文字(漢字)に雑えて用いるのは、酷く我が国の吏読(りとう)に似ており、文字を雑えないのは、酷く我が国のハングルに似ております。」
6.帰国
日本に連れて来られて二年半年ほど経った慶長五年(1600)二月九日、藤堂高虎が姜沆を釈放しました。
そして姜沆の出国に「赤松広通は寺沢志摩守(正成)に手書(証明書)を求め関市の検察に備えてくれ、惺窩は船頭一人を加え水路の案内をさせて、対馬についたら帰すようにと手配してくれた。」
五月一九日、釜山(プサン)に着き、無事に家族と共に帰国した姜沆は首都・漢城(ソウル)で国王宣祖に日本の情勢を報告。召仕を受けましたが、自らを「罪人」として辞退。
その後も仕官することなく故郷で後進の指導にあたり、多くの儒者を輩出させましたが、1618年(光海君10)五月、五二歳でその生涯を閉じました。
姜沆 相関図
朝鮮王朝
丁酉再乱:慶長の役
日本
参考文献
- 姜沆(著)・朴鐘鳴(翻訳)『看羊録』(平凡社、1984年)
- 木村誠・吉田光男・馬淵貞利・趙景達 編集『朝鮮人物事典』(大和書房、1995年)
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 上垣外憲一『文禄・慶長の役―空虚なる御陣』(講談社、2002年)