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戦国武将解説

姜沆(カン・ハン/きょう-こう)

プロフィール

姜沆
강항
Gang Hang

慶長の役(丁酉再乱)の際に囚われて日本に抑留された朝鮮王朝の儒学者。

字(あざな)は太初。号は睡隠(すいいん)。『看羊録(かんようろく)』の作者。

豊臣秀吉の命令で日本軍が朝鮮に再出兵した際、文官として南原で軍糧を運搬する監督をしていたが、明・朝鮮連合軍が日本軍に敗北。

姜沆三一歳はただちに義兵を挙げるが藤堂高虎の軍に囚われ、高虎の本城・伊予大洲に抑留された。

その後、伏見に移送され、和僧の藤原惺窩(せいか)と出逢う。惺窩は日本近世儒学の開祖と言われており、二人の交流の中で日本近世儒学の基礎が作られた。

日本に連れて来られて二年半年ほど経って、ようやく釈放されて慶長五年五月に帰国。国王・宣祖に日本の情勢を報告、召仕を受けるが――

享年51(生1567-没1618)。

藤原惺窩より6つ年下、藤堂高虎より1つ年下。伊達政宗真田幸村と同い年。

詳細

1.学者の血統

姜沆は、姜克倹(カン・グツコム)の四男として全羅道霊光で生まれました。姜家は代々高名な学者を輩出し、姜沆自身は七歳で『孟子』を一晩で諳(そら)んじ、八歳で『通鑑網目』に精通した早熟ぶりでした。

豊臣秀吉豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役・壬辰倭乱)が始まった翌年の文禄二年(1592)に二六歳で科挙に合格。文官として成均館転籍、工曹佐郎、刑曹佐郎となりました。

2.藤堂高虎の軍に囚われる

慶長の役地日本軍進路
図1:慶長の役 日本軍進路図

日本軍再出兵(慶長の役・丁酉再乱)の際、宇喜多秀家宇喜多秀家を大将とする小西行長小西行長島津義弘島津義弘長宗我部元親長宗我部元親らの部隊が南原(ナモン)に迫りました。

この時、姜沆は分戸曹判事の従事官として、南原を死守する明・副総兵揚元の軍糧を湖南(ホナム)に運搬する監督をしていました。

慶長二年(1597)八月一六日、日本軍が南原城の四方を取り囲み、激戦の末、揚元は敗走。南原城を落とした日本軍は秀吉の指示通り大量殺戮と鼻切りを行いました。

南原の戦いの敗北後、姜沆はただちに故郷の全羅道霊光で義兵を挙げ、李舜臣李舜臣の水軍に合流しようとしましたが、同年九月二三日に藤堂高虎藤堂高虎の軍に囚われました。

この時、姜沆の幼い息子と娘は波打ち際に打ち捨てられました。姜沆自身と家族は日本に連行され、身分が高い人であるらしいということで、高虎の本城である伊予大洲に抑留されました。

3.看羊録(かんようろく)

囚われた姜沆については、彼の著書『看羊録(かんようろく)』に詳しく記されています。

さて姜沆は何故この書を記したのでしょうか?

看羊録によれば日本に囚われて「このままここで死ぬのは、全く無意味に自殺するのと同じ」であり、「醜奴(日本)の情況は、既に私の眼中に捉え」たので「倭の情勢を記録」することにしました。

それが『看羊録』であり、「緊急非常の場合、ままこの書をもって事態に対処して下さるよう」国王・宣祖に宛てて書かれました。

以下、看羊録で姜沆が述べた記述を元に彼の数奇な運命を見ていきたいと思います。なお、以下においても「」でくくられた言葉は全て看羊録からの出典になります。

4.藤原惺窩との出逢い

慶長前期地図_中国・四国
図5:慶長前期地図_中国・四国
姜沆は高虎の伊予大洲城に抑留された。

日本に連れて来られて約八か月後の慶長三年(1598)五月二五日、姜沆三二歳は捕虜某と脱走を企て、板島(宇和島)まで逃れますが、結局捕らわれて大洲に連れ戻されてしまいます。六月には京都伏見に移送され、ここに抑留されました。

そして姜沆は「倭京に連れて来られてからというもの、倭国の内情を知ろうと思って」、和僧の藤原惺窩藤原惺窩(せいか)や惺窩を師とする大名の赤松広通らと接しました。

特に惺窩は日本近世儒学の開祖と言われていて、二人の交流の中で日本近世儒学の基礎が作られました。

姜沆は惺窩のことを「大変聡明で、古文をよく解し、書についても通じていないものがない」と評しています。また惺窩は姜沆に次のようなことを言いました。

「日本の民衆の憔悴(しょうすい)が今ほどひどい時代はありませんでした。

朝鮮がもし明と共に日本の罪を正す兵を出し、日本に侵入しても、仮名書きの布告文を掲げさせ、民衆を水火の苦しみから救おうとしているのだと知らしめ、軍隊が通過する地域にいささかの被害も与えなければ、白河の関(現・福島県)まででも充分行くことができましょう。」

慶長四年(1599)年、姜沆は秀吉の廟(びょう)の門に落書きをし惺窩の忠告を受け、また惺窩の斡旋で儒学の経典を筆写し、入手した金銀で船を購入し、脱出をはかりましたが結局はまた発覚して連れ戻されました。

5.気づけば、とんだ日本通

そんな姜沆でしたが、国王・宣祖に報告する為の「倭の情勢の記録」には並々ならぬものがありました。

秀吉のことは勿論、徳川家康徳川家康伊達政宗伊達政宗等諸大名の経歴や性格、日本の地理も詳細に看羊録に記しました。

これらに留まらず、律儀に日本の歴史まで丁寧に調べ上げてしまったのは流石です。

「私がその国史の編年と、いわゆる『吾妻鏡』を入手して見たところ、四百年前にはいわゆる倭の天皇はまだその威福を失っていませんでした。東将軍源頼朝以後、政治は関白に委ね、天皇は祭祀を行うことになりました。」

「弘法大師という者がいます。彼は倭人が文字(漢文)を理解できないので方言(日本語)を拠り所にして、それを四八字に分けて仮名文字を作りました。そのかなを文字(漢字)に雑えて用いるのは、酷く我が国の吏読(りとう)に似ており、文字を雑えないのは、酷く我が国のハングルに似ております。」

6.帰国

日本に連れて来られて二年半年ほど経った慶長五年(1600)二月九日、徳川家康の命で藤堂高虎が姜沆を釈放しました。

そして姜沆の出国に「赤松広通は寺沢志摩守(正成)に手書(証明書)を求め関市の検察に備えてくれ、惺窩は船頭一人を加え水路の案内をさせて、対馬についたら帰すようにと手配してくれた。」

五月十九日、釜山(プサン)に着き、無事に家族と共に帰国した姜沆は都・漢城(ソウル)で国王・宣祖に日本の情勢を報告。召仕を受けましたが、自らを「罪人」として辞退。

その後も仕官することなく、故郷で後進の指導にあたり、多くの儒者を輩出させましたが、1618年(光海君10)五月、五二歳でその生涯を閉じました。

姜沆 相関図

学友

藤原惺窩藤原惺窩

宿敵

豊臣秀吉豊臣秀吉

南原の戦いのライバル

宇喜多秀家宇喜多秀家小西行長小西行長島津義弘島津義弘長宗我部元親長宗我部元親

姜沆を日本に連行した軍

藤堂高虎藤堂高虎

朝鮮国

王室:宣祖光海君/朝廷:柳成龍金誠一/陸軍:権慄金時敏沙也可

水軍:李舜臣李舜臣元均/義兵将:郭再祐/学者:姜沆

明国

万暦帝李如松沈惟敬楊鎬陳璘劉綖

  

関連トピック

姜沆

『看羊録』イラスト

文禄・慶長の役

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 略年表慶長の役 略年表

朝鮮国

朝鮮の官制その1 京官その2 外官-陸軍・水軍、地方行政朝鮮王朝の党争

明国

明の官位相当表

日本国

文禄年間 全国の諸大名配置図九州中国・四国近畿東海・北陸東日本

慶長前期 全国の諸大名配置図村上水軍とは 前編後編

戦後

日朝国交回復年表

参考文献

姜沆(著), 朴 鐘鳴 (翻訳) 『看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記 (東洋文庫 440) 』(平凡社、1984年)

木村 誠, 吉田 光男,馬淵貞利,趙景達-編集 『朝鮮人物事典 』(大和書房、1995年)

北島 万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

上垣外 憲一『空虚なる出兵―秀吉の文禄・慶長の役 (Fukutake Books) 』(福武書店、1989年)