文禄の役 日本軍 中国・四国勢
武将名(居城)動員数(人)
第五軍・四国衆 18,700
第七軍 30,000
- 毛利輝元(安芸広島)30,000
第八軍・総大将 10,000
- 宇喜多秀家(備前岡山)10,000
水軍 9,200
解説
文禄・慶長の役では主に九州の大名を中心とした西国の大名が動員されました。
領主が変わりまくる伊予国
文禄の役日本軍・第五軍は四国の諸大名で編成。伊予国(愛媛県)は、往古から海賊たちの王・河野氏が支配していました。
しかし天正一三年(1585)秀吉の四国征伐により、河野氏は滅びて伊予国領主は小早川隆景→福島正則・戸田勝隆・加藤嘉明と目まぐるしく(このあとも)変わります。
これほど領主が変わる国も珍しく、このたび当サイトが地図を製作したキッカケというのも、実のところ伊予と日本水軍整理のためです。
日本水軍
さて、元織田信長の水軍将九鬼嘉隆が日本水軍に配属されるのは理解できると思います。
では、藤堂高虎(紀伊紛河)・脇坂安治(淡路洲本)・加藤嘉明(伊予松崎)は何なのかというと、秀吉から宛がわれた新領地が水軍の国のゆえの参加となります。
村上水軍の雄・来島通総(伊予風早)は当初第五軍に属していますが、苦戦続きの日本水軍を救うべく水軍に配置替えになりました。
第七と八軍
第七軍は安芸広島の毛利輝元。毛利氏は第六軍の小早川隆景はじめ日本軍の主力であり、第八軍の宇喜多秀家は文禄の役・総大将です。
参考文献
- 児玉幸多 編集『日本史年表・地図』(吉川弘文館、2016年)
- 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役と関ケ原合戦』(文英堂、2000年)