目次
プロフィール
朝鮮王朝・義兵将。
名家の子息で、官職には就かずに慶尚道・宜寧(ウィリョン)で田園生活を送っていた。
しかし秀吉の朝鮮侵略により日本軍が宜寧に迫って来た。この村の役人は逃亡したので、家財を投げ打って朝鮮初の義兵を起こす。
当初、官から反乱軍と誤解されてしまうが、招諭使・金誠一に助けられて共に義兵を募る。かくして官軍の権慄らと結集し、小早川隆景らの部隊を撃退。
紅衣を着て日本軍を打ち破ったため「天降紅衣将軍」と呼ばれ、その後も果敢に日本軍に挑む――!
詳細
1.田園生活の危機
郭再祐は、朝鮮国慶尚道(キョンサンド)宜寧(ウィリョン)の名家の生まれで、父は高官の郭越。
三四歳の時、科挙に合格するも答案に国王の意に添わない文章があって合格が無効に。郭再祐は出世を諦めて、田園生活に入りました。
文禄元年(1592)四月、豊臣秀吉の明国制圧の野望により日本軍が朝鮮へ渡海し、宜寧に迫ってきました。
しかしここの県監・呉応昌は逃亡、日本軍を前に無防備のまま放置されました。
2.朝鮮初の義兵を起こす
郭再祐四一歳は、ただちに家財を投げ打ち、私有の奴婢を率いて決起し、郷民に訴えました。
「日本軍は既に迫っていて、我が父母妻子は今まさに賊の手に渡ろうとしている。
我が里には年少にして戦える者数百人、心をそろえて鼎津(チョンジン:宜寧の一村)を守れば、この里を保つことができる。どうして傍観して死を待つことができようか。(寄斉下草[註])」
これは日本軍釜山上陸後、早くも九日目の出来事で、朝鮮の最初の義兵となりました。
こうして郭再祐は民兵を募集し軍備を整え、同年六月、全羅道(チョルラド)侵犯をはかる安国寺恵瓊らの日本軍を遮(さえ)ぎって全羅地域の守りに貢献しました。
また郭再祐は、紅衣を着て日本軍を打ち破ったため「天降紅衣将軍」と呼ばれ、朝廷は義兵将(의병장,ウィピョンジャン)の称号を与えました。
3.金誠一の存在
しかし抗日闘争の長期化は、郭再祐の義兵に武器・兵糧不足をもたらし、空城になっていた官有の武器・兵糧を入手してその場をしのぎました。
その結果、慶尚道巡察使の金睟(キムス)から反乱軍だと誤解を受けることに。これを助けたのが、慶尚右道招諭使の金誠一でした。
彼は二年前、通信福使として日本へ派遣され、翌年帰国した際に「豊臣秀吉の出兵はない」と報告してしまいました。この責任を取り罷免されましたが、柳成龍の弁護により招諭使(戦乱の際に民衆を諭し、乱を安定させる臨時の官職)となりました。
金誠一は郭再祐を高く評価し、郭再祐と共に義兵を募り、官義の諸軍をまとめました。各地では、郭再祐の活躍に刺激を受けた朝鮮民衆が義兵を挙げました。
4.正規軍との最初の一勝
しかし義兵によるゲリラ戦で日本軍を悩ますも、肝心な朝鮮正規軍は開戦から三カ月経っても連戦連敗。
けれども海上では、全羅左水使・李舜臣が、巨済島の玉浦で藤堂高虎軍を撃破したのを皮切りに連勝し、閑山島で脇坂安治の軍も大いに破りました。こうなっては陸上も負けてはいられません。
閑山島海戦の翌日、郭再祐と金誠一、各地の義兵、官軍の権慄らが結集して、全羅道侵犯をはかる小早川隆景の日本軍を撃退しました(錦山の戦い)。
5.第一次晋州城の戦い
その約三か月後(文禄元年一〇月四日)、細川忠興ら日本軍二万の大軍が朝鮮の要衝・晋州城を囲みました。城内には市長の牧使・金時敏以下三八〇〇の城兵しかいません。
しかし金時敏の卓越した指揮力と戦術、郭再祐の義兵も奮闘したことにより日本軍を撃退。金時敏はこの戦いで戦死しました。
これ以降、義兵の活動は更に活発に行われ、日本軍は釜山からソウル・漢城に至る兵糧の輸送が困難になります。
更に権慄が幸州で日本軍三万に大勝。日本軍はソウルからの撤退を決定しました。
6.第二次晋州城の戦い
秀吉はソウルの日本軍に撤退の許可を与える代わりに、義兵や一揆の象徴的存在となっていた晋州城を再び攻撃することを厳命。
これにより、加藤清正・黒田長政ら日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。
幸州で日本軍に大勝した権慄は息を巻いて晋州城に兵を進めようとしましたが、郭再祐は「日本軍の勢いが盛んであり、軽進すべからず(懲毖録)」と権慄の態度を諫めました。
事実、晋州城一帯は日本軍が完全掌握。晋州城を外援したくてもできないと判断した郭再祐と権慄は退きます。しかしこれに対し、元義兵将で晋州倡義使(義兵を任命する一職)の金千鎰(チョンイル)は、晋州城に日本軍を引き寄せて叩こうとしました。
朝鮮側の意見はまとまらないまま、金千鎰らは独力で日本軍と戦うこととなりました。一一日間の激戦の末、晋州城没落、金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。
7.慶長の役の活躍
日本軍との一時休戦を経て、日本軍再出兵の際には慶尚左道防禦使として郭再祐は、大邱に隣接した慶尚道昌寧県の火旺(ホワアン)山城を守備しました。
「加藤清正は、西生浦から西のかた全羅道に向かい、小西行長の水路からの兵と合流して南原を攻めようとした。
都元帥権慄以下、みな噂を聴いたただけで退却し、各地の山城に籠っている人々にも命令を下して、それぞれ分散してから賊兵から避難せよと伝えた。
ただ義兵将郭再祐だけが昌寧の火旺山城に入り、死を期して守った。賊は山のふもとに到着し(山城の)形勢が峻険で、しかも城内の人々が深閑として動かないのを仰ぎ見、攻撃せずに立ち去った。(懲毖録)」
8.田園生活に戻る
慶長二年(1597)八月、李舜臣が鳴梁海峡で藤堂高虎・脇坂安治ら日本軍を撃破する前の月、郭再祐は継母の許氏が死去すると喪に服し、官職を辞して慶尚北道・蔚珍へ行きました。
儒教の国である朝鮮や明には、父母が死去すると官職を辞して故郷に帰って喪に服するという規定がありました。ともあれその約一年後、李舜臣が明の陳璘と共に露梁海峡で島津義弘ら日本軍を追撃、七年にも渡る日本との戦争が終結しました。
戦争の一年後の慶長四年(1599)九月、郭再祐は慶尚道兵馬節度使に任命されましたが、半年ほどで官職を退き帰郷。この為、司憲府(官僚監察)から弾劾を受け、全羅南道・霊岩に流されて二年後に釈放されました。
郭再祐は山に入って、穀食を自ら禁じ、松葉で食いつなぎ、忘憂亭という住居を建て余生を送るつもりでしたが国王は郭再祐を呼び出して、高い位の官職をいろいろと与えました。しかし郭再祐はこれを全て拒絶して、六五歳の生涯を閉じました。著書に『忘憂堂集』。
郭再祐 相関図
朝鮮国
ライバル
補註
文献4巻から寄斎史草(万暦一九年五月五日)。朴東亮著の壬申倭乱の記録。倭乱勃発時、兵曹佐郎であった朴東亮は国王の西遷に扈従(こしょう/(「扈」は、つきそう意)貴人につき従うこと。)して義州に至り、その功により吏曹正郎となり錦溪君に封ぜられる。のちに都承旨。仁祖朝の時に左参賛。「寄斎史草 下」に「壬申日録」が含まれる。
参考文献
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 朴永圭(著, 原著)・尹淑姫(原著, 翻訳)・神田聡(翻訳)『朝鮮王朝実録』(新潮社、1997年)
- 柳成竜(著)・朴鐘鳴(翻訳)『懲毖録』(平凡社、1979年)
- 北島万次『加藤清正 朝鮮侵略の実像』(吉川弘文館 、2007年)
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郭再祐 イラスト:子男・with李舜臣・柳成龍