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戦国人物解説

藤堂高虎(とうどう-たかとら)次の転職先は水軍、李舜臣敵役

目次

プロフィール詳細:1.転職の度にスキルアップ?

2.秀長と秀保 3.玉浦海戦 4.高野山に上る 5.漆川梁海戦

6.鳴梁海戦 7.五人組の先駆け? 8.総評相関図参考文献関連記事

プロフィール

藤堂高虎
Takatora Todo

近江国(滋賀県)出身。伊勢(三重県)津藩(つはん)藩祖。幼名は与吉。

文禄・慶長の役の海戦において、日本側の主役的存在。

転職を繰り返し、秀吉の弟・秀長の筆頭家老になった後に秀吉の直臣。

関ヶ原の戦いでは徳川家康に属して功を立て、最終的に伊達政宗と並んで家康の側近のような立場となった。

特技はあくまで築城なので?関ヶ原に先立つ文禄・慶長の役では、日本水軍の将として救国の英雄・李舜臣に勝どきをあげたことがない!?

享年75(1556-1630)。小西行長上杉景勝と同世代。

詳細

1.転職の度にスキルアップ?

藤堂高虎高虎は、近江国犬上郡藤堂村(滋賀県犬上郡甲良町)の土豪の七代目・藤堂虎高の次男。

高虎は一〇代から、駄目そうな主君は見限って、他に仕えるということを繰り返していました。先見の明があるのか浅井長政浅井長政はじめ、縁をきった主家は必ず滅びてゆきました。

詳しくは記事下相関図の転職歴をご参照ください。けだし高虎という人物が、どこかとっつきにくく感じる一因に、儒教のよりが妙なかたちで突出した「転職嫌い」日本の風土があると思います。

2.秀長と秀保

豊臣秀長系図
図1:豊臣秀長・秀保系図

主家を何度となく変えてきた高虎ですが、二一歳の時に仕えた豊臣秀吉秀吉の弟・豊臣秀長豊臣秀長は、崇敬してやまない主君でした。しかし天正一九年(1591)一月、高虎三六歳の時に秀長が病死(享年五二)。

秀長には娘のほか、養子の豊臣秀保(ひでやす)がありました。秀保は秀長の甥であり、関白・豊臣秀次秀次の弟にあたります。

秀長の旧領は、秀保が譲り受けました。その中に紀伊国海賊衆があり、文禄の役が始まると、一四歳の秀保の名代として高虎は、紀伊国の海賊衆を率いて朝鮮へ渡海しました。

3.玉浦海戦

玉浦海戦(VS藤堂高虎)
図2:玉浦海戦

秀吉の国制圧の野望により、文禄元年(1592)四月一三日、第一軍の小西行長小西行長らが朝鮮の釜山(プサン)に上陸。怒涛の進撃で日本軍は僅か半月余りで首都ソウル(漢城)まで制圧しました。

その頃、高虎は水軍の将として巨済島(コジェド)の玉浦(オクボ)に停泊。

全羅左水使李舜臣李舜臣が七四隻の船を率いて巨済島の玉浦に現れると、高虎率いる五〇余隻に猛烈に大砲を発砲。

この奇襲に対し、高虎は二六隻もの船を失いましたが、朝鮮水軍は一隻失ったのみ。この瞬間、高虎が日本軍として初の敗戦武将に輝いてしまったのでした。

その後も日本水軍は苦戦が続き、見かねた秀吉が、村上水軍の雄 来島通総来島通総はじめ、 九鬼嘉隆九鬼嘉隆脇坂安治脇坂安治加藤嘉明加藤嘉明らを水軍に投入しましたが結果は同じで、李舜臣に撃破され続けました。

4.高野山に上る

帰国後、文禄四年(1595)四月に秀保が謎の死を遂げました(享年一七)。その年の七月に、秀保の兄である関白・秀次が秀吉によって謀反の疑いをかけられ切腹させられました。

秀保死後、このような事情から思うところあって高虎は高野山に在りました。しかし秀吉が高虎を召し出し大名に取り立てました。

その宛がわれた新所領地は水軍の国・伊予(愛媛県)板島だったため、慶長の役にも水軍として再び渡海することになりました。

5.漆川梁海戦

一方、ライバルの李舜臣は同僚の元均(ウォン・ギュン)の陰謀よって更迭され、元均が朝鮮水軍を率いていました。

秀吉の命により朝鮮へ再渡海した高虎・脇坂安治・加藤嘉明ら率いる日本水軍は、漆川梁(チルチョンリャン)にて元均率いる朝鮮水軍を撃破。

これにより李舜臣は朝鮮水軍最高司令官として復帰するものの、朝鮮水軍は一三隻しか船が残っていませんでした。

6.鳴梁海戦

鳴梁海戦
図3:鳴梁海戦

慶長二年(1597)九月、高虎・加藤嘉明・来島通総・脇坂安治らが朝鮮水軍の一〇倍の兵船一三三隻を率いて鳴梁(ミョンリャン)海峡に迫りました。

しかしこの時、日本水軍は朝鮮水軍の罠にかかっていました。

船数が圧倒的に多い日本軍に正面から戦うのは無理だと考えた李舜臣は、自軍にとっても難所である鳴梁海戦の西側に 東から攻めて来る日本水軍を誘い込む作戦だったのです。

海戦の当初、潮流は東から西に向かい、朝鮮水軍にとっては逆流で苦しい戦闘を強いられました。 しかし潮流が西から東に代わると、潮の流れに乗った朝鮮水軍の大逆襲が始まります。

これにより日本側は多くの兵船三一隻を失い、来島通総は戦死、高虎は重傷。朝鮮水軍は大勝を得ました。

7.五人組の先駆け?

関ヶ原合戦直前地図_中国・四国
図4:関ヶ原合戦直前地図_中国・四国

帰国後、関ヶ原の戦いには徳川家康徳川家康東軍に属して慶長一三年(1608)伊予,伊賀二二万九五〇を与えられて津城に入りました。

遡ること慶長二年三月、秀吉は掟で辻斬り・すり・盗賊など相互監視を目的として、侍は五人組、下人は十人組を組織させました。

同一三年一〇月に高虎は、新封地内に発した政令で、農民を十人組に組織させました。

これは新領民を支配統制するためのもので、人数こそ十人ですが、内容は江戸時代の五人組制度と同じです。幕府の五人組制度は秀吉から始まり、高虎の取り組みなどの流れの中で、整備、施行されていきました。

一方で高虎は、伊達政宗伊達政宗と並んで家康の側近のような存在となり、大坂の陣後は三二万四〇〇〇石に加増されました。享年七五。

8.総評

高虎に水軍の将というイメージはほとんどないと思いますが、文禄・慶長の役において小西行長・加藤清正加藤清正が日本側の陸上戦の主役的存在であれば、高虎は海戦の主役的存在。韓国の大河ドラマ『不滅の李舜臣』はそんな高虎がわりとかっこよく?描かれています。

ドラマとは関係ありませんが、側室を持たず愛妻家であった一面も見逃せない?!

エピソード

高虎は貧しい頃、餅屋さんで餅をさんざん食べた後、お金がないので店の人に出世払いで宜しく!と言ってのけました。しかし出世したあと店の人に大金を渡しました。高虎の旗印はこのお餅をデザインしたものと言われています。

藤堂高虎 相関図

藤堂氏

  • 父:虎高、母:多賀良氏
  • 弟:高清、正高
  • 養子:高吉(丹羽長秀三男)。高虎に高次が生まれたため家老となる。享年九二
  • 長男:高次。母は松寿院殿(しょうじゅいんどの)。津藩主二代。

文禄・慶長の役

転職歴

  • 10代:浅井長政に属する阿閉政家(あつじ-まさいえ)、磯野員昌(いその-かずまさ)に仕える。次いで信長の甥・織田信澄(のぶずみ)に仕える。
  • 21歳~36歳:豊臣秀長は終生崇敬してやまない主君。
  • 37歳~43歳:豊臣秀吉に召し出されて大名になる。
  • 45歳~:徳川家康は最後に仕えた主君で、伊達政宗と並んで側近のようになる。

参考文献

関連記事:藤堂高虎

素材:肖像軍旗イラストクリスマスPOP