プロフィール
文禄の役では総大将として朝鮮へ出兵。ヘマをしない、空気のような総大将。しかし権慄以下朝鮮軍一万が籠もる幸州山城を攻撃した際は、重傷を負った。
詳細
1.秀吉の養子
備前(岡山県)岡山に城を築いた、戦国の梟雄・宇喜多直家は、天正九年(1581)次男秀家一〇歳の時に病死しました。
これにより美貌の誉れ高い、秀家の母おふく(備前殿)は、羽柴秀吉の庇護を受けました。恐らく側室同様の存在で、その寵愛が秀家にも及んだのでしょう。信長から家督相続の許可を得るにあたっては、秀吉からの尽力もあり、一一歳で家督相続した秀家。その後しばらくしてから秀吉の養子にもなりました。
また、秀吉が実の娘のように愛していた養女の豪(ごう)姫(前田利家の娘)を妻にもらいました。
それにしても五七万石を領する備前岡山城主・秀家は、贅沢をしすぎたり、豪姫の病気がお坊さんに頼んで祈祷しても直らないのでキリスト教に備前国は改宗する!といい、武断派の家臣に反発を受けたりしました。
2.文禄の役 総大将
秀吉が日本の諸将に朝鮮・明への出陣を命じ、文禄元年(1592)四月、先鋒隊小西行長、第二軍加藤清らが釜山(プサン)に上陸。 第八軍である秀家二一歳は、総大将として朝鮮に出兵しました。
破竹の勢いで北上する日本軍が首都ソウル(漢城)に迫ると、朝鮮国王宣祖は平壌(ピョンヤン)に避難。
これにより日本軍は、上陸してから半月余りで無血のまま漢城に入城しました。
小西行長は、更に北上して平壌(ピョンヤン)も制圧。国王はこれに先立ち義州(イジュ)へ避難、秀家は総大将としてソウルに留まりました。
3.平壌・碧蹄館の戦い
しかし朝鮮朝廷もただ逃げているばかりではありません。
明に援軍を要請すると、提督・李如松が四万の兵を率いて小西行長らが籠る平壌城を囲み、城内の日本軍一万と戦闘となりました。
明軍の圧倒的な兵の数と大砲の威力に、小西行長らは平壌を脱出しソウルへ帰陣。一方、勢いに乗ったは李如松は、首都ソウル・漢城の襲撃を目指して南下。
同月二七日、秀家を総大将として小早川隆景・立花宗茂らソウルの日本軍は、碧蹄館で李如松率いる明軍を迎撃しました。
4.幸州の戦い
しかし今度は、李如松南下に呼応して権慄率いる朝鮮軍が南から北上。李如松が敗れ単独で戦うことになった権慄の朝鮮軍は、ソウルから僅かに離れた幸州山城に入って防備を固めました。
孤軍に何ができるのかと、秀家を総大将として小西行長・石田三成・黒田長政・小早川隆景らソウルの日本軍三万は二月一二日、ソウルから出陣して幸州山城を包囲しました。
しかし日本軍は下から山城へ鉄砲を放つこととなり、朝鮮軍は山城の高みから火器の火車をふんだんに用いて迎撃。秀家と吉川広家は重傷を負い、敗退した日本軍はソウルへ引き上げました。
5.第二次晋州城の戦い
一方、藤堂高虎ら日本水軍は、開戦当初から李舜臣率いる朝鮮水軍に苦戦を強いられていました。
水陸とも窮地に陥った日本軍は、ソウルからの撤退を決定。しかし秀吉は撤退の許可を与える代わりに、前年に敗れた晋州城を再び攻撃することを厳命。
これにより文禄二年(1593)六月、秀家をはじめとする、日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。
一一日間の激戦の末、晋州城は陥落。朝鮮軍の金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。
城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。
6.慶長の役 左軍総帥
一時停戦時に五大老となり、慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、これにより秀家二六歳は再出兵しました。
同年八月はじめ、日本軍は総大将・小早川秀秋を釜山に留め、軍全体を左右に分けて、秀家を総帥とする左軍の小西行長・島津義弘らは慶尚道から全羅道・南原へ。
毛利秀元を総帥とする右軍の加藤清正・黒田長政らは慶尚道から北上して忠清道を目指しました。
7.南原の戦い
同月一六日、秀家率いる左軍は、明・朝鮮連合軍が死守していた南原城を落とし、秀吉の命令によって日本軍による大量殺戮と鼻切りを行われました。
南原を落とし、全州も落とした左軍の秀家・小西行長は南原へ南下。
秀家と藤堂高虎は順天倭城を築き、これを小西行長が受け取り、行長は順天倭城に籠ることになりました。
慶長三年(1598)八月一八日、秀吉が伏見城で死去。日本軍の帰国が始まると、李舜臣と陳璘の朝鮮・明連合水軍が日本軍を追撃、露梁(ノリャン)で撃破して七年にも及ぶ戦争が終わりました。
8.関ヶ原の戦い
帰国後の慶長五年(1600)九月、関ヶ原の戦いで秀家二九歳は、西軍の大黒柱的存在でした。秀家は全力を尽くして戦ったものの西軍は敗れ、同一一年(1606)秀家三五歳は、八丈島に流され一生をそこに捧げる人生でした。
関ヶ原の奮闘や、死を選ばずに八丈島で八〇過ぎまで生きながらえる姿には、侍としての意地や気骨を感じます。
反面、朝鮮役を語る場合、関ヶ原と違って、よくもわるくも彼の意地とか根性などは微塵も感じられません。
文禄の役では総大将として、慶長の役では左軍総帥として重責を担った秀家。右軍総帥の毛利秀元の働きをみれば、決してお飾り的な立場とも言えません。
肖像は若くイケメンで、妻の豪姫を一途に想う王子様のイメージですが、思いのほか彼の心情はよく見通せないものがあります。
宇喜多秀家 相関図
宇喜多氏
- 元家臣:小西行長
豊臣政権
文禄・慶長の役
五大老
参考文献
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 笠谷和比古・ 黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役と関ケ原合戦』(文英堂、2000年)
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- 素材:肖像・軍旗
- イラスト/安土FAMILY桃山バンド