基本データ
概要
陣容
日本軍15,000人
明・朝鮮連合軍53,000人
- 大将:提督 李如松(明軍43,000人)
- 副総兵 三協(三部隊)左協:楊元(ようげん)11,700人、中協:李如柏(りじょはく)11,500人、右協:張世爵(ちょうせいしゃく)11,500人
- 副総兵 先鋒:査大承(さだいじゅ)、副総兵 その他:祖承訓(そしょうくん)、孫守廉ら
- 参謀:李応試(りおうし)、劉黄裳(りゅうおうしょう)
- 遊撃軍:沈惟敬、呉惟忠、李寧ら
- 経略(総監):宋応昌(そうおうしょう)
- 朝鮮軍10,000人:都元帥 金命元8,000人、僧軍 釈休静・釈惟政2,000人
結果
日本軍は行長・義智ら敗走。明・朝鮮連合軍は平壌城奪回。
解説
1.柳成龍の暗躍
豊臣秀吉の明国制圧の野望により、文禄元年(1592)四月一三日、日本の諸将が朝鮮へ侵攻すると、釜山から破竹の勢いで北上し、僅か半月で首都ソウル・漢城(ハンソン)を制圧しました。
これに先立ち国王宣祖は平壌(ピョンヤン)へ避難、これに領議政(宰相)柳成龍も随行。更に日本軍が北上するという報を聴き、国王一行は平壌から更に北上して明との国境・義州(イジュ)に避難しました。
これにより同年六月一五日、第一軍の小西行長・宗義智らは無人の平壌城に入城しました。
しかし朝鮮朝廷も逃げているばかりではなく、明に援軍を要請。柳成龍は明軍の兵糧調達や、義兵との連合工作などに奔走しました。
かくして同七月一七日、明将の祖承訓・史儒らが兵五千を率いて平壌城を攻めますが、日本軍の銃撃を浴びて敗北。朝鮮は期待を裏切らましたが、明としても想定外の結末でした。
行長は明の再援を回避すべく、明の外交家・沈惟敬と初会談に挑み、五〇日の停戦協定が締結。しかしこれは沈惟敬の罠で、明皇帝は同年一〇月に提督・李如松を朝鮮に派遣することを決定しました。
2.李如松の活躍
李如松は一二月下旬に平安道義州を出発。翌年一月三日に平安道安州(アンジュ)に到着し、平壌城の南に陣営を構えました。
柳成龍著『懲毖録』によると「旗指物や兵器など整然と厳粛で、神兵のたたずまいのよう」であり、「提督は扇面に詩を書いて私(柳成龍)に届けて」くれるという風流な一面もありました。
李如松は日本軍との再決戦の準備を着々と進め、同一月六日、ついに四万の兵を率いて平壌城を包囲。
軍は三協(三部隊)で編成され、左協は副総兵・楊元(ようげん)一万千七百人、中協は副総兵・李如柏(りじょはく)一万千五百人、右協は副総兵・張世爵(ちょうせいしゃく)一万千五百人。
さらに先鋒は副総兵・査大承(さだいじゅ)、その他副総兵として祖承訓(そしょうくん)孫守廉ら。参謀は李応試(りおうし)、劉黄裳(りゅうおうしょう)。遊撃軍は、沈惟敬、呉惟忠、李寧ら。経略(総監)は宋応昌(そうおうしょう)。これに朝鮮軍都元帥・金命元八千人、僧軍・釈休静及び釈惟政二千人も加わりました。
これに対し平壌城内の日本軍一万五千は、城の高みから鉄砲を乱射。明軍は城の四方八方から大砲を砲撃。明軍は北方の遊牧民族と戦ってきた戦闘経験も豊富で、大砲類の性能が優れていました。
李如松と張世爵の兵が七星門を砲撃、撃破して城内に突入。外城の守りは破られ、日本軍は中城に籠りました。三日間の激戦の末、李如松は平壌城奪回に成功し、行長・義智らは大同江を渡って黒田長政籠る黄海道白川に向かって落ち延びました。この時の様子も『懲毖録』に詳しく書かれています。
「賊将平(小西)行長、宗義智、(僧)玄蘇、平(柳川)調信らは、残りの軍を率いて(連日)連夜遁走したが、気力は萎え、足はまめだらけで、びっこをひきながら行き、あるものは田の中を這いまわったり、口を指して食物を求めたりした。わが国では、誰一人出て(この人々を)撃つ者はなく、明国兵もまたこれを追わなかった。」
こうして行長・義智らは、黒田長政と共に同月一七日にソウルへ帰陣しました。