基本データ
概要
- 年月日:文禄2年(1593)2月12日 午前6時~午後6時頃
- 場所:京畿道 幸州山城(ヘンジュサンソン,행주산성)。現・京畿道高陽(コヤン,고양)市 徳陽(トギャン,덕양구)区。首都ソウル・漢城(ハンソン,한성)から北西15km。
- 概要:提督・李如松率いる明軍が碧蹄館で敗退、朝鮮軍単独でソウルの日本軍に挑む。
陣容
日本軍30,000人
朝鮮軍10,000人
結果
日本軍:漢城に退却。宇喜多秀家、吉川広家重傷。/朝鮮軍:幸州山城死守。
解説
1.経緯
豊臣秀吉の明国制圧の野望により、文禄元年(1592)四月一三日、日本の諸将が朝鮮へ侵攻。
首都ソウル(漢城)は陥落し、緒戦は厳しい戦いを強いられた朝鮮は明に援軍を要請。
これにより提督・李如松は、四万の明兵を率いて翌同二年一月八日、小西行長・宗義智らが籠る平壌城を襲撃して落としました。
行長・義智らはソウルに向かって敗走。この勢いに乗って李如松は、ソウル奪回を目指して南下。
これに呼応して全羅巡察使・権慄ら南部朝鮮の諸将は北上して挟撃を試みました。
しかし、小早川隆景・立花宗茂らソウルの日本軍が碧蹄館で李如松の軍を迎撃し、李如松の軍は敗れて退却しました。
2.戦闘
これにより挟撃作戦は水に流れ、権慄率いる朝鮮軍は単独で日本軍と戦うこととなり、権慄は精兵二三〇〇を率いて幸州(ヘンジュ)山城(現・京畿道高陽市徳陽区)に入りました。
幸州山城は、ソウルから僅か北西15kmほど離れた丘陵にあり、南は漢江に面した天然の要塞。
権慄は城塁を修理し、重柵を造って防備を固めました。
孤軍に何ができるのかと、ソウルの日本軍はこれを攻撃にかかりました。
日本軍の布陣は、宇喜多秀家を総大将として、碧蹄館で功を立てた者を後備えとしたため碧蹄館と逆の布陣で、一番隊は小西行長、二番隊は石田三成・大谷吉継・増田長盛の三奉行、これに黒田長政・吉川広家・小早川隆景等が続きました。
これら日本軍三万は幸州へ進軍、同年二月一二日の早朝六時から戦闘が始まりました。
城を包囲した日本軍は、山の下から鉄砲を放つこととなり、高所の城内権慄以下一万は、震天雷(しんてんらい)・紙神砲(ししんほう)・火車(かしゃ)など火器や弓矢や投石をもって迎撃。
苦戦した日本軍は火攻めで対抗、枯草を集めて城内に火玉を放ちました。朝鮮軍は直ちに水をかけて消火活動にあたりましたが、城内はパニック状態に。
権慄は逃走しようとする数人を斬り捨て、先頭に立って督戦し、城内の混乱を沈めました。日本軍は三度攻めて三度退き、朝鮮軍は矢が尽きようとした時、忠清水使・丁傑(チョンゴル)が船運を利用して矢を城内に運び入れました。
宇喜多秀家・吉川広家は重傷を負い、そのうえ京畿水使・李蘋(りひん)が江華島から漢江をさかのぼって来援。日本軍は背後を断たれることを恐れ、午後六時には囲みを解き、朝鮮軍が大勝利を収めました。
この戦いは明軍なしで朝鮮軍が主体的に動き勝利した意味でも大きな意味がありました。一方、日本軍はこの敗北によりソウルからの撤退を決定しました。