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文禄・慶長の役

幸州(ヘンジュ/こうしゅう)山城の戦い 宇喜多総大将重傷!底力を魅せた朝鮮孤軍

目次

文禄の役の流れ基本データ解説:1.経緯 2.戦闘

参考文献関連記事

文禄の役の流れ

文禄元年(1592) 文禄二年(1593)
日本軍北上→ 形勢逆転 日本軍南下 帰国
5月初旬 同左 7月初旬 10月初旬 1月初旬 同下旬 2月中旬 6月下旬 8月
ソウル陥落 玉浦海戦 閑山島海戦 第一次晋州城の戦い 平壌の戦い 碧蹄館の戦い 幸州山城の戦い 第二次晋州城の戦い 一時停戦へ

基本データ

幸州山城の戦い
年月日 文禄2年(1593)2月12日 午前6時~午後6時頃
場所 京畿道 幸州山城(ヘンジュサンソン,행주산성)。現・京畿道高陽(コヤン,고양)市徳陽(トギャン,덕양구)区。首都ソウル・漢城(ハンソン,한성)から北西15km。
概要 提督李如松率いる明軍が碧蹄館で敗退、朝鮮軍単独でソウルの日本軍に挑む。
対戦軍 兵数 日本軍30,000人 朝鮮軍10,000人
大将 宇喜多秀家宇喜多秀家 全羅巡察使権慄
部隊 一番隊:小西行長小西行長  軍民、僧兵、女性ら
二番隊:石田三成石田三成大谷吉継大谷吉継・増田長盛
後続:黒田官兵衛黒田長政、吉川広家、小早川隆景小早川隆景
結果 漢城に退却。秀家、広家重傷。 幸州山城死守

解説

1.経緯

文禄の役の終盤戦
図1:文禄の役 終盤戦

豊臣秀吉豊臣秀吉明国制圧の野望により、文禄元年(1592)四月一三日、日本の諸将朝鮮へ侵攻

首都ソウル漢城(ハンソン)は陥落し、緒戦は厳しい戦いを強いられた朝鮮は明に援軍を要請。

これにより提督李如松は、四万の明兵を率いて翌同二年一月八日、小西行長小西行長宗義智宗義智らが籠る平壌城を襲撃して落としました。

行長・義智らはソウルに向かって敗走。この勢いに乗って李如松は、ソウル奪回を目指して南下。

これに呼応して全羅巡察使権慄ら南部朝鮮の諸将は北上して挟撃を試みました。

しかし、小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂らソウルの日本軍が碧蹄館で李如松の軍を迎撃し、李如松の軍は敗れて退却しました。

2.戦闘

幸州山城の戦い
図2:幸州山城の戦い

これにより挟撃作戦は水に流れ、権慄率いる朝鮮軍は単独で日本軍と戦うこととなり、権慄は精兵二三〇〇を率いて幸州(ヘンジュ)山城(現・京畿道高陽(コヤン)市徳陽(トギャン)区)に入りました。

幸州山城は、ソウルから僅か北西15kmほど離れた丘陵にあり、南は漢江に面した天然の要塞。

権慄は城塁を修理し、重柵を造って防備を固めました。

孤軍に何ができるのかと、ソウルの日本軍はこれを攻撃にかかりました。

日本軍の布陣は、宇喜多秀家宇喜多秀家を総大将として、碧蹄館で功を立てた者を後備えとしたため碧蹄館と逆の布陣で、一番隊は小西行長小西行長、二番隊は石田三成石田三成大谷吉継大谷吉継・増田長盛の三奉行、これに黒田官兵衛黒田長政・吉川裕家・小早川隆景小早川隆景等が続きました。

これら日本軍三万は幸州へ進軍、同年二月一二日の早朝六時から戦闘が始まりました。

城を包囲した日本軍は、山の下から鉄砲を放つこととなり、高所の城内権慄以下一万は、震天雷(しんてんらい)・紙神砲(ししんほう)・火車(かしゃ)など火器や弓矢や投石をもって迎撃。

苦戦した日本軍は火攻めで対抗、枯草を集めて城内に火玉を放ちました。朝鮮軍は直ちに水をかけて消火活動にあたりましたが、城内はパニック状態に。

権慄は逃走しようとする数人を斬り捨て、先頭に立って督戦し、城内の混乱を沈めました。日本軍は三度攻めて三度退き、朝鮮軍は矢が尽きようとした時、忠清水使・丁傑(チョンゴル)が船運を利用して矢を城内に運び入れました。

宇喜多秀家・吉川広家は重傷を負い、そのうえ京畿水使・李蘋(りひん)が江華島から漢江をさかのぼって来援。日本軍は背後を断たれることを恐れ、午後六時には囲みを解き、朝鮮軍が大勝利を収めました。

この戦いは明軍なしで朝鮮軍が主体的に動き勝利した意味でも大きな意味がありました。一方、日本軍はこの敗北によりソウルからの撤退を決定しました。

  

参考文献

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