概要
概要
陣容
日本軍 92,972人
- 第一隊(25,624人):加藤清正・黒田長政・鍋島直茂・島津義弘
- 第二隊(26,182人):小西行長・宗義智・細川忠興・伊達政宗・浅野長政・黒田官兵衛
- 第三隊(18,822人):宇喜多秀家・石田三成・大谷吉継
- 第四隊(13,600人):毛利秀元
- 第五隊(8,744人):小早川隆景・立花宗茂
朝鮮軍 数万人
- 義兵将・金千鎰(キムチョンイル)、慶尚右道兵使・崔慶会(チェギョンフェ)、忠清道兵使・黄進(ホアンジン)ら
結果
日本軍:死者数25,000人/朝鮮軍:全滅。軍民60,000人が虐殺される。
解説
1.経緯
豊臣秀吉の命により、文禄元年(1592)四月一三日、日本の諸将が朝鮮へ侵攻。
緒戦は日本軍優勢でしたが次第に劣勢となり、年明け文禄二年正月には、提督・李如松が四万の明兵を率いて小西行長籠る平壌城を撃破、その翌月には朝鮮軍の権慄がソウルの日本軍を幸州で撃破。
これにより朝鮮全土をほぼ制圧した日本軍はソウルからの撤退を決定しました。
秀吉は撤退の許可を与える代わりに、義兵や一揆の象徴的存在となっていた前年に敗れた晋州城を再び攻撃することを厳命。
一方、晋州牧使(市長)は金時敏死後、徐礼元(ソイエウォン)が務めていましたが戦意なく、彼に代わって死をもって守ろうと義兵将・金千鎰(キムチョンイル)や慶尚右道兵使・崔慶会(チェギョンフェ)ら客将が指揮を執り、日本軍が晋州を攻めると噂を聴いて急いで防備を固めました。
2.一一日間の死闘
同年六月二一日、第一隊の加藤清正・黒田長政・鍋島直茂・島津義弘、第二隊の小西行長・宗義智・細川忠興・伊達政宗・浅野長政・黒田官兵衛、第三隊の宇喜多秀家・石田三成・大谷吉継、第四隊の毛利秀元、第五隊の小早川隆景・立花宗茂ら日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。
一方この動きに対し、義兵将郭再祐や都元帥権慄は、日本軍の包囲網を破って晋州を外援することはできないとしました。金千鎰は、大邱に駐屯する明副総兵・劉綖に援軍を要請しましたが、劉綖は日本軍を恐れて援軍を出しませんでした。
こうして晋州城が孤立無援の状態で、日本軍の本格的な攻撃が二二日から始まりました。日本軍の猛攻に対し、朝鮮軍は火砲(かほう)・火箭(かせん)で応じ、民衆も大土木・巨石・熱湯を日本軍の頭上に落としました。
二七日、清正と長政は、晋州城の石壁を崩すために、大きな箱形の四輪車・亀甲車なるものを考案。清正軍の森本義太夫・飯田覚兵衛、長政軍の後藤又兵衛らは足軽を率いて亀甲車を押して進んで、晋州城北面の石壁を崩しました。
東門の支城も亀甲車によって崩れると秀吉軍が城内になだれ込み、二九日、又兵衛は一番乗りを果たし、日本軍は城内になだれ込みました。
こうして晋州城は陥落し、金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。
3.妓生論介
晋州の戦いあと、日本軍は晋州城矗石桜(チョクソクル)で勝利の宴を開きました。
その時、役人などを歌舞で接待した官妓・妓生(キーセン)論介(ノンゲ,논개)が、念入りに化粧をして装いを飾り、矗石桜の岩上に立っていました。
毛谷村六助という人物と言われている一将が進みでると、論介がこれに抱き着き、南江に飛び込み死にました。
文禄の役の中でも語るのが困難な戦いの一つが第二次晋州城だと思いますが、歴史事象について何事も隠蔽されてはならないでしょう。
参考文献
- 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役と関ケ原合戦』(文英堂、2000年)
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 崔官『文禄・慶長の役〔壬辰・丁酉倭乱〕文学に刻まれた戦争』(講談社、1994年)