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戦国武将解説

李如松(り-じょしょう)

プロフィール

李如松
Li Ju-sung

明の武官。提督

朝鮮と隣接する、明・遼東の出身。豊臣秀吉の命により日本軍朝鮮に侵攻すると、明皇帝は朝鮮を救うべく援軍派遣を決定。

文禄元年(1592)末、提督・李如松は四万の明兵を率いて朝鮮に渡り、領議政・柳成龍にと共に小西行長が籠る平壌城奪回を目指す。

年明け、明・朝鮮連合軍平壌城を包囲し、明の性能優れた大砲が功を奏して、城を奪取することに成功。小西行長は敗走した。

この勢いに乗ったは李如松は、首都ソウル奪回を目指して南下するが、碧蹄館(ピョクジェグアン)小早川隆景立花宗茂ら日本軍に敗退。

柳成龍は再度進撃するよう要請するが、提督は戦意喪失。朝鮮は明に送る軍糧に事欠き、提督と柳成龍コンビに亀裂が入ってしまう――!(生?~没1598年)

詳細

1.明・遼東の武官

図1:遼東
図1:明・遼東

李如松は朝鮮と隣接する、明・遼東の生まれ。祖先は朝鮮人とも女真族とも言われています。

家は代々遼東鉄嶺衛の武官を世襲し、父の李成梁(せいりょう)は遼東の武官トップ・遼東総兵官でした。

李氏の強みは、「家丁(かてい)」と呼ばれる将軍直属の兵を多く擁している家族のような臣下の結び付きと土着性です。

また、モンゴルや女真の防衛として中央官からは「李氏に遼東を預ければ遼東は安泰」と言われていました。

如松は若い時から父・成梁に従って歴戦し、万暦二十(1592)年、ボバイの反乱が起こった時には提督になって平定。またこの年は、秀吉の朝鮮出兵が始まった年でもありました。

2.秀吉の朝鮮出兵、始まる

朝鮮全土_文禄の役緒戦
図2:文禄の役 朝鮮全土関係図
日本軍進路と国王避難路

豊臣秀吉豊臣秀吉が、日本の諸将朝鮮・明への出陣を命じ、文禄元年(1592)四月十三日、先鋒隊の小西行長小西行長宗義智宗義智らが釜山に上陸。破竹の勢いで北上して僅か二十日で都・漢城(ソウル)を制圧しました。

小西・宋は第三軍の黒田長政黒田長政と共にソウルから更に北上して平壌(ピョンヤン)を目指して進軍。

これに先立ち、朝鮮国王・宣祖は、ソウルから平壌、更に北上して明との国境である義州(イジュ)に避難しました。

これにより小西・宋・長政は同年六月十五日、無人の平壌城に入城しました。

3.明・祖承訓の敗退

しかし朝鮮朝廷も逃げているばかりではありません。同六月十三日に明に援軍を要請、明は援軍を差し向けました。

かくして同七月一七日、明将の祖承訓・史儒らが小西・宋らが籠るの立てこもる平壌城を攻撃。しかし日本軍の銃撃を浴びて敗北。朝鮮は期待を裏切らましたが、明にも想定外の結末でした。

しかし明は、武将だけでなく「能(よ)く倭に説く者」として外交家の沈惟敬も朝鮮に送り込み、祖承訓敗退後の二か月半後、沈惟敬は平壌の小西行長と初会談に挑みました。

これにより日本軍との五〇日の停戦協定が締結されましたが、これは沈惟敬の罠でした。

4.平壌の戦い

平壌の戦い
図3:平壌の戦い

明皇帝は同年十月には提督・李如松を朝鮮に派遣することを決定。

李如松は一二月下旬に平安道義州を出発し、翌年一月三日に平安道安州(アンジュ)に到着し、平壌城の南に陣営を構えました。

この時の様子は、明の来援に尽力した領議政(宰相)柳成龍が記した『懲毖録(ちょうひろく)』に詳しく書かれています。

「(陣営は)旗指物や兵器など整然と厳粛で、神兵のたたずまいのようであった。

私(柳成龍)が提督(李如松)と会見して事態について述べたいと要請したところ、東軒(守令の執務室)にいた提督は入室を許可した。(彼は)体格の優れた偉丈夫(りっぱな男)であった。」

そして「私が退出してから提督は扇面に詩を書いて私に届けて」くれるという風流な一面もありました。

日本軍との再決戦の準備を着々と進め、同一月六日、ついに李如松は四万の兵を率いて平壌城を囲み、朝鮮軍八千もこれに従いました。

これに対し平壌城内の日本軍一万五千は、城の高みから鉄砲を乱射。明軍は城の四方八方から大砲を砲撃。明軍は北方の遊牧民族と戦ってきた戦闘経験も豊富で、大砲類の性能が優れていました。

激戦の末、同月八日、李如松は平壌城を奪取に成功。圧倒的な明軍の兵の数と大砲の威力に敗北した小西・宋らは平壌からソウルへ遁走しました。

5.碧蹄館の戦い

碧蹄館の戦い
図4:碧蹄館の戦い

さて、この勢いに乗ったは李如松は、都・漢城(ソウル)の襲撃を目指して南下。同月二十七日、ソウルの北方の碧蹄館(ピョクジェグアン)小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂ら日本軍と戦闘になりました。

碧蹄館は明の使節がソウルに訪れる前日に必ず宿泊して長夜の宴を行う所。この戦いで、李如松は平壌の戦いで大活躍した大砲を使わず、騎馬で戦いました。

というのも大砲は南方の軍が持って来たもので、李如松は自分の配下の北方の騎馬隊に手柄を立てさせようとしたからです。これにより明軍は、日本軍の鋭利な日本刀にかなわず敗退しました。

6.戦意喪失でも帰国はしない

柳成龍は再度進撃するよう、李如松に申し願いましたが提督は戦意喪失。再起不能に陥ってしまいました。

柳成龍の『懲毖録』によるとその後「(明の)諸将が提督に軍糧を尽きたことを理由にして軍を還すことを要請」。事実、朝鮮側は明軍に提供する軍糧に事欠いていました。

李如松は怒って柳成龍らを呼び寄せ、「庭に跪(ひざまず)かせ、大声で叱責し軍法を加えようとした。私(柳成龍)はひたすら謝罪したが、国事がこのようになったことを念(おも)うと不覚にも涙が流れた。」

李如松はあわれみを感じたか(部下の)諸将に叱りつけました。

「おまえたちは昔、私に従って西夏を征伐した時、軍隊が食事できない日が続いても、なお帰国しようなどと口にせず、ついに大功を成し遂げたではないか。」

そして「おまえたち、去りたければ去れ。私は賊を滅ぼさない限り還りはしない。」と告げると、諸将は深くあたまをたれて謝罪しました。

この日の夕方、李如松が使いをやって「私(柳成龍)を招いて慰労し、かつ軍事について話し合った(懲毖録)」のでした。

7.日明講和交渉

文禄の役地図・黒田長政
図5:文禄の役 終盤戦

一方、李如松南下に呼応して全羅巡察使・権慄が南から北上。都・漢城から僅かに離れた幸州(ヘンジュ)山城に入り、同二月一二日、都ソウル・漢城から出陣してきた三万の日本軍を権慄率いる一万の兵が撃退、朝鮮軍の大勝利となりました。

一方、李如松は沈惟敬をソウルに遣わし、決裂していた沈惟敬と小西行長の日明講和交渉を再開させました。柳成龍は、日明講和交渉には反対で攻撃したことにはこしたことはないと李如松に文書で極力説きました。

すると「提督は、これは私が心に思っていたことと同じです、と書き加えて戻して来たものの聞き入れる意思はなかった(懲毖録)」のでした。

日明講和交渉によりソウルが回復され、この戦争は一時休戦に入ったので、李如松は同年(文禄二年)末に帰国。約三年後、遼東総兵官に任ぜられました。

翌年四月、遼東に土蛮(どばん/未開の先住民)の侵入があり、李如松は鎮圧に向かいましたが攻撃中に戦死。朝鮮では日本の再出兵である丁酉倭乱(慶長の役)の終わりの年でした。

柳成龍の『懲毖録』によると碧蹄館の戦い後、戦う意思のない提督に柳成龍は何度も逢いに行っては攻撃するよう訴え、断れてはまた逢いに行きの繰り返しで、提督に対してふざけんなコノヤロウって感じなのですが(笑)、反面それだけ提督のことを頼りにしていたこと伺い知ることができます。

李如松 相関図

宿敵

豊臣秀吉豊臣秀吉

文禄の役のライバル

平壌の戦い小西行長小西行長宗義智宗義智

碧蹄館の戦い小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂宇喜多秀家宇喜多秀家

明国

万暦帝沈惟敬楊鎬劉綖陳璘

朝鮮国

王室:宣祖光海君/朝廷:柳成龍金誠一/陸軍:権慄金時敏沙也可

水軍:李舜臣李舜臣元均/義兵将:郭再祐/学者:姜沆

  

関連トピック

李如松イラスト

文禄・慶長の役

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 略年表慶長の役 略年表

朝鮮国

朝鮮の官制その1 京官その2 外官-陸軍・水軍、地方行政朝鮮王朝の党争

明国

明の官位相当表

詳細事項

村上水軍とは 前編後編日朝国交回復年表

参考文献

北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

岸本 美緒 、宮嶋 博史『世界の歴史 (12) 明清と李朝の時代 』(中央公論社、1998年)

上垣外 憲一『空虚なる出兵―秀吉の文禄・慶長の役 (Fukutake Books) 』(福武書店、1989年)

柳 成竜 (著), 朴 鐘鳴 (翻訳)『懲毖録 (東洋文庫 357)』(平凡社 、1979年)