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戦国人物解説

後藤又兵衛(ごとう-またべえ)亀甲車で一番乗りも今は昔

目次

プロフィール詳細:1.長政との青春 2.文禄の役緒戦

3.平壌・碧蹄館・幸州の戦い 4.第二次晋州城の戦い

5.慶長の役と関ヶ原の戦い 6.大坂の陣相関図参考文献関連記事

プロフィール

後藤又兵衛
Matabe Goto

黒田長政の家臣。又兵衛は通称で、正式名は基次。

大坂の陣・豊臣方で、それ以前の戦場実績ピカイチの無頼漢。

幼少のころに小寺政職の下にあった父が病死したため、政職の家臣・黒田官兵衛によって養育され、官兵衛とその子・長政に仕える。

文禄の役では長政と共に渡海。第二次晋州城の戦いで、加藤清正と長政が亀甲車なるものを考案。又兵衛はこれで一番乗りで城内に侵入した。

慶長の役も長政と共に渡海。帰国後、関ヶ原戦いの功により、嘉麻郡大隅城を預かる。しかし、そののち長政と対立してしまう――

享年56(1560-1615)。同い年は石田三成直江兼続大久保彦左衛門

詳細

1.長政との青春

文禄年間 九州諸大名配置図
図1:文禄年間 九州諸大名配置図

又兵衛は、播磨別所氏の家臣である新左衛門の子として播磨国(兵庫県)に生まれました。

新左衛門はのちに客分として御着(ごちゃく)城主・小寺政職(こでら-まさもと)のもとにいましたが、ほどなく病死。

これにより幼少の又兵衛は、政職の家臣・黒田官兵衛黒田官兵衛によって養育されることとなりました。成人後、叔父・藤岡久兵衛の逆心により共に追放され仙石越前守のもとに行きました。

のちに又兵衛より八つ下の官兵衛の子・黒田長政長政に呼び戻されて、又兵衛は官兵衛・長政に仕えました。

しかし官兵衛は、又兵衛は謀反人の一族なればそば近く召仕うこと無用なりと言ったので、家臣の栗山利安のもとに預けの身となり知行百を与えられましたが、そのあと長政によって次第に重用されるようになりました。

天正一五年(1587)の九州征伐で長政二〇歳と又兵衛二八歳は各所に転戦して功を立て、長政は二二歳で官兵衛から家督を継ぎ、豊前(福岡県東部と大分県北部)中津城主として一二万石を領しました。

2.文禄の役緒戦

文禄の役・第三軍の黒田長政進路
図2:第三軍・黒田長政の進路
平壌は没落させたが廷安の戦いに敗退。

豊臣秀吉豊臣秀吉明国制圧の野望により日本の諸将朝鮮へ侵攻文禄元年(1592)四月一三日、第一軍の小西行長小西行長宗義智宗義智らが釜山に上陸。

これに第二軍の加藤清正加藤清正、第三軍の黒田長政らが続きました。

日本軍は破竹の勢いで北上して僅か半月余りで首都ソウル(漢城)を制圧。

又兵衛は、母里友信・黒田一成(官兵衛の養子)と三人で一日交代に長政の先手を務めました。

長政軍は先鋒隊の小西・宗と共に西北に進軍して平壌城も制圧。

このあと長政軍は兵を返して南下、秀吉に指示された黄道道(ファンヘド)を統治しました。

しかし同年八月二二日、黄道道・廷安(ヨンアン)でリ・ジョンアムら朝鮮軍と戦闘となって敗退。長政軍は軍事拠点だった海州(ヘジュ)を放棄しました。

3.平壌・碧蹄館・幸州の戦い

文禄の役地図・黒田長政
図3:文禄の役 後半戦

翌年一月六日、提督李如松が四万の兵を率いて平壌城を囲み、小西・宋らは長政軍のいる黄道道に敗走。長政軍は小西・宋らと共に共にソウルへ帰還しました。

この勢いに乗ったは李如松は、ソウル奪還を目指して南下。これを小早川隆景小早川隆景立花宗茂立花宗茂・長政ら日本軍が、同月二七日にソウルの北方の碧蹄館で迎撃。

一方、李如松南下に呼応して朝鮮軍の権慄が南から北上。ソウルの日本軍は今度は、幸州山城で権慄率いる朝鮮軍と戦闘になりましたが長政ら日本軍は敗退。日本軍はソウルからの撤退を決定しました。

4.第二次晋州城の戦い

しかし秀吉は撤退の許可を与える代わりに、義兵や一揆の象徴的存在となっていた前年に敗れた晋州城再び攻撃することを厳命。

これにより文禄二年(1593)六月、第一隊の加藤清正・長政・鍋島直茂鍋島直茂島津義弘島津義弘、第二隊の小西行長・宗義智・黒田官兵衛ら日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。

清正と長政は、晋州城の石壁を崩すために大きな箱形の四輪車・亀甲車なるものを作り出しました。

かくして清正軍の森本義太夫・飯田覚兵衛、長政軍の又兵衛らは足軽を率いて亀甲車を押して進んで、晋州城北面の石壁を崩しました。東門の支城も亀甲車によって崩れると秀吉軍が城内になだれ込み、又兵衛三四歳は一番乗りを果たしました。

一一日間の激戦の末、晋州城没落、金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。

5.慶長の役と関ヶ原の戦い

慶長の役地図_黒田長政
図4:慶長の役
黒田軍は稷山、蔚山の戦いで活躍。

慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、これにより長政は三番隊として再出兵。又兵衛もこれに従いました。

帰国後、慶長五年(1600)九月関ヶ原戦いでは、又兵衛四一歳は長政の先手を務め、又兵衛は合渡川の先陣をなしました。

この時、後藤基次なりと名乗りを挙げて黒田家臣という事を理(ことわ)らなかったので、後で長政の叱責にあいましたが、あえて気にかけなかったと言います。

同月一五日の関ヶ原本戦では石田三成石田三成軍を撃ち破り、同年長政が筑前国をもらったので、又兵衛は一万六千石を与えられ嘉麻郡大隅城を預かりました。

しかし大隅城にあって他家と書状を取り交わし、他国と交際したことによって長政に嫌われた又兵衛は、同一一年筑前を立ち退きました。池田輝政のもとにありましたが、長政からクレームがついて同一六年池田家を離れました。

6.大坂の陣

又兵衛は大坂に隠棲していたとき、長政は強引に又兵衛を召し返そうしましたが、豊臣秀頼豊臣秀頼が大坂に住む浪人は御家人同然と又兵衛を保護しました。

慶長一一年(1606)大坂冬の陣で秀頼の招きに応じて京都から大坂に参陣しましたが、それはこの恩義によるものでした。

しかし又兵衛は黒田家臣として以前徳川家康徳川家康に目見えた際、家康を天運に叶った名将といい、茶臼山に現れた家康を大坂城中から撃つことをやめたといいます。木村重成と共に今福で佐竹義重勢と戦い負傷、また、秀頼に諫言して講和をすすめました。

翌年の元和元年(1615)夏の陣では、野戦よりも大和口の山から下る敵への先手攻撃を主張、五月六日河内国道明寺河原に出撃して、伊達政宗伊達政宗勢と戦い銃弾にあたって戦死しました。享年五六

後藤又兵衛 相関図

後藤氏

  • 父:新左衛門、母:不明
  • 子:基則、基芳ほか

主君

朝鮮侵攻

文禄の役

慶長の役

大坂の陣西軍

参考文献

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