プロフィール
宇土城主(熊本県)。教名アゴスチーニョ。幼名 弥九郎。摂津守。
文禄・慶長の役の日本側の主役的存在。
いい加減な秀吉から先鋒隊と外交、両方を任される。僅か半月余りで首都ソウルを制圧。娘婿の宗義智らと更に北上して半年後には平壌も制圧。
しかし明の提督・李如松が四万の兵を率いて平壌城を包囲し、絶体絶命の危機に陥る。これが契機となって、明の外交家・沈惟敬との和議交渉が本格化。
主戦派加藤清正を牽制しつつ、秀吉を裏切ってまで和議実現を目指す――!
詳細
1.朝鮮役先鋒隊
行長は、堺の商人で豊臣秀吉の代官だった小西隆佐(りゅうさ)の子。
備前国岡山で宇喜多直家に取り立てられ、直家の子・秀家に仕え、本能寺の変後に秀吉に仕官。父・隆佐と共に「海の司令官」として瀬戸内海の軍需物質運搬などにあたり、佐々成政失脚後に肥後半国一二万石を領しました。
しかし行長を待っていたのは、文禄・慶長の役。朝鮮の政治は外交と軍事は別々ですが、秀吉は先鋒隊兼外交の二役を行長に申し付けました。
2.ソウル制圧
先鋒隊の行長(三七歳カ)は、娘のマリアの婿・宗義智と共に釜山(プサン)に上陸。
軍神の血祭りだと言って朝鮮の女男、犬猫まで無差別虐殺して、釜山鎮を陥落させました。
更に北上して、東莱(トンネ)・尚州(サンジュ)・忠州(チュンジュ)も制圧。
首都ソウル(漢城)の朝廷はなすすべがなく、国王宣祖は避難することとなり、 都を捨てて大雨の中を平壌(ピョンヤン)に向かいました。
これにより行長と第二軍の加藤清正は、ほとんど無血のまま漢城に入城。日本軍が朝鮮に上陸して、たった半月余りの出来事でした。
3.平壌の戦い
国王・宣祖は、更に日本軍が北上するという報を聴き、平壌(ピョンヤン)、更に北上して明との国境・義州(イジュ)に避難。
これにより同年六月一五日、第一軍の行長・義智らと三軍の黒田長政は無人の平壌城に入城しました。しかし朝鮮朝廷も逃げているばかりではなく、明に援軍を要請。
かくして同七月一七日、明将の祖承訓・史儒らの援軍が平壌城を攻撃。行長はこれを撃退しましたが、明の来援にはソウルの日本軍にも衝撃を与えました。
行長は明の再援を回避すべく、明の外交家・沈惟敬と初会談に挑み、五〇日の停戦協定が締結。しかしこれは沈惟敬の罠で、明皇帝は同年一〇月に提督・李如松を朝鮮に派遣することを決定しました。
翌年一月六日、李如松が四万の兵を率いて平壌城を包囲。城内の日本軍一万五〇〇〇は、圧倒的な明軍の兵の数と大砲の威力に破れ、行長・義智らは平壌城を脱出。黒田長政籠る黄海道白川へと逃れました。
この時の様子は、明の来援に尽力した朝鮮宰相・柳成龍が記した『懲毖録』に詳しく書かれています。
「賊将平(小西)行長、宗義智、(僧)玄蘇、平(柳川)調信らは、残りの軍を率いて(連日)連夜遁走したが、気力は萎え、足はまめだらけで、びっこをひきながら行き、あるものは田の中を這いまわったり、口を指して食物を求めたりした。わが国では、誰一人出て(この人々を)撃つ者はなく、明国兵もまたこれを追わなかった。」
こうして行長・義智らは、黒田長政と共に同年一月一七日にソウルへ帰陣しました。
4.碧蹄館・幸州山城の戦い
この勢いに乗ったは李如松は、都ソウル・漢城の襲撃を目指して南下。
これを小早川隆景・立花宗茂らソウルの日本軍が、同月二七日、ソウルの北方の碧蹄館で撃退しました。
一方、李如松南下に呼応して朝鮮軍の権慄が南から北上。
ソウルの日本軍は今度は、幸州山城で権慄率いる朝鮮軍と戦闘になりましたが、行長ら日本軍は敗退。日本軍はソウルからの撤退を決定しました。
5.第二次晋州城の戦い
しかし秀吉は撤退の許可を与える代わりに、義兵や一揆の象徴的存在となっていた前年に敗れた晋州城を再び攻撃再び攻撃することを厳命しました。
これにより文禄二年(1593)六月、加藤清正・黒田長政、行長ら日本軍九万二〇〇〇に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。
一一日間の激戦の末、晋州城陥落、金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。
6.危険な和議計画
主戦派・清正と違って朝鮮侵攻に意義を見出せない行長。
一時停戦時に行長は明の沈惟敬と図って、秀吉の窺い知らぬ所で秀吉の降伏文書を作成。
行長の家臣・内藤如安は、この降伏文書を携えて北京に向かい、明皇帝に恭順を誓いました。
これが後日、沈惟敬ら冊封使来日の宴の席で、秀吉に露見して大きな怒りを買いました。首をはねられずに済んだものの、再出兵の際、行長は再び先鋒隊を仰せ付けられました。
行長の命が助かったのは、朝鮮奉行である石田三成・大谷吉継・増田長盛も同意の上だという証拠の文書を差し出した為と言われています。または、秀吉の外交軽視・文書軽視の現れも言えるでしょう。
慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、これにより行長は清正と一番隊と二番隊と二日交代で務めることになりました。
7.南原と順天の戦い
同年八月はじめ行長は、宇喜多秀家・島津義弘らと共に慶尚道から全羅道・南原へ進軍。
同月一六日、明・朝鮮連合軍が死守していた南原城を落とし、秀吉の命令によって日本軍による大量殺戮と鼻切りを行われました。
日本軍の帰国が始まると、明・朝鮮軍の戦略は日本軍追撃に転換。
慶長三年(1598)九月二〇日、明軍の劉綖と陳璘、朝鮮軍の権慄と李舜臣の連合軍は、行長らの順天倭城を囲み、順天倭城を水陸から挟撃しました。
行長ら日本軍は激しく応戦し、多くの明兵を撃破。これにより劉綖は戦意を喪失し作戦を遂行しなかったので、朝鮮・明連合軍は順天倭城を撃破することには失敗しました。
8.露梁海戦
順天を死守した行長。しかし秀吉が八月に伏見城で死去を知った李舜臣と陳璘によって帰国の退路を断たれていまいました。
そこで行長は、順天倭城にほど近い泗川倭城の島津義弘に一艘の小舟を出して急を知らせます。
慶長三年(1598)一一月一五日、行長を救援すべく義弘を筆頭に立花宗茂・宗義智ら約五〇〇隻の大船団が南海から露梁に迫りました。
これに対して朝鮮水軍の李舜臣と明水軍の陳璘は約五〇〇隻の兵船を左右に分けて砲撃。
この戦闘中、行長は順天から脱出し、七年にも及ぶ戦争の幕が閉じました。
9.信仰を継ぐ朝鮮少女
露梁海戦の二年後の慶長五年(1600)九月、迎える運命の関ヶ原の戦い。行長は西軍・石田三成方に属して関ヶ原で戦いましたが、武運なく三成と共に処刑されました。
キリシタンであった行長(教名アゴスチーニョ)の死は、海を渡り遠くローマ教皇の元まで届き、その死をローマ教皇は嘆き、全ローマ市民が祈祷したと伝わっています。
行長がキリシタンということは、国内のどの古文書にも記載がなく、ローマの文献にかすかに残っているだけ。キリシタンを強く取り締まる江戸時代に入って、小西行長=キリシタンという古文書は、焼かれてしまったのかもしれません。
ジュリアおたあは、行長の捕虜として平壌付近から連れてこられた朝鮮少女。小西の妻の教化によって受洗。天性の美貌と薬草の教養により行長死後、家康に召し出され侍女となりました。しかしキリスト教棄教と側室になることを拒否、駿府より追放。
伊豆大島に流され、流刑地を転々とし神津島(こうづしま)で信仰生活を守りました。
小西行長 相関図
小西氏
- 父:隆佐、母:マグダレーナ
- 兄弟:如清(じょせい)
- 妻:ジュスタ
- 娘:宋マリア(宗義智室)
- 養女:ジュリアおたあ
豊臣政権
文禄・慶長の役
ライバル
命の恩人
参考文献
- 上垣外憲一『文禄・慶長の役-空虚なる御陣』(講談社、2002年)
- 柳成竜(著)・朴鐘鳴(翻訳)『懲毖録』(平凡社 、1979年)
- 小和田哲男 監修『ビジュアル 戦国1000人』(世界文化社、2009年)「小西行長」266頁「ジュリアおたあ」213頁
- 永原慶二 編『日本歴史大事典』(小学館、2000年)