プロフィール
長門国(山口県)長府(ちょうふ)藩初代。幼名・宮松丸。
父は毛利元就の四男。慶長の役は当時十代だった秀元青年なしで語れない。
豊臣秀吉の命により朝鮮再出兵となり、宇喜多秀家と共に日本全軍の総帥となって渡海。
忠清道を目指して北上していた黒田長政の軍が稷山(チクサン)で明軍の迎撃を受けると、救援に駆け付ける。
詳細
1.父は元就四男
秀元の父は、毛利元就の四男・穂田(ほいだ)元清、母は村上水軍の来島通康の娘で、天正七年(1579)一一月に備中(現・岡山県)猿掛城に生まれました。
毛利宗家の輝元に子がなかったため、七歳の時にその養子となりました。
しかし文禄四年(1595)一七歳の時に輝元の実子・秀就(ひでなり)が生まれたので、別家して独立しました。
2.文禄の役、始まる
これに先立つこと三年前。豊臣秀吉の明国制圧の野望により、文禄元年(1592)四月に日本軍が朝鮮に侵攻。
半月で首都ソウル(漢城)を落とした日本軍でしたが、同年一〇月の第一次晋州城の戦いで金時敏率いる朝鮮軍に大敗。翌年二月には幸州で権慄率いる朝鮮軍にも大敗しました。
日本軍はソウルからの撤退を決定しましたが、秀吉は撤退の許可を与える代わりに、義兵や一揆の象徴的存在となっていた前年に敗れた晋州城を再び攻撃することを厳命。
その為に増派されたのが一五歳の秀元と伊達政宗・浅野長政らの部隊でした。
3.第二次晋州城の戦い
これにより文禄二年(1593)六月、加藤清正・黒田長政らと共に、秀元・政宗・浅野長政ら日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。
一一日間の激戦の末、晋州城陥落、金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。
帰国後、文禄四年(1596)四月に秀元一八歳は、豊臣秀長の娘(大善院)と結婚しました。
4.慶長の役・右軍総帥
慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、これにより秀元一九歳は、八番隊として宇喜多秀家と共に出兵。
これに対して明は、朝鮮に援軍を再派遣。指揮官には経略・邢玠と楊鎬、提督・麻貴らがいました。
八月はじめ日本軍は、総大将の小早川秀秋を釜山に留め、軍全体を左右に分けて宇喜多秀家を総帥とする左軍(小西行長・島津義弘ら)は慶尚道から全羅道・南原へ。秀元を総帥とする右軍(加藤清正・黒田長政ら)は慶尚道から北上して忠清道を目指しました。
同月一八日、宇喜多秀家率いる左軍は、明・朝鮮連合軍が死守していた南原城を落とし、秀吉の命令によって日本軍による大量殺戮と鼻切りを行われました。
5.稷山(チクサン)の戦い
明の経略・楊鎬はこの頃、平壌にいましたが、事態の深刻化を受けソウルに南下。提督・麻貴と作戦を定め、忠清道・稷山(チクサン)で日本軍を迎撃することにしました。
慶長二年(1597)九月七日、忠清道を目指して北上していた黒田長政の先鋒隊と明軍が稷山で衝突。後続の黒田長政と秀元が救援にかけつけ、激戦となって両軍多数の死者を出し、両軍とも引き上げました。
この戦いによって日本軍はこれ以上北上できず、首都ソウル(漢城)侵入は果たせませんでした。
稷山の戦いの一〇日後、李舜臣が朝鮮水軍を率いて鳴梁海峡で、藤堂高虎・脇坂安治ら水軍を撃破。 明・朝鮮軍が本領を発揮し始めました。
6.蔚山の戦い
稷山の戦いから二か月後の一一月、加藤清正・浅野幸長らは、蔚山(ウルサン)の島山に倭城普請に取りかかりました。邢玠・楊鎬・麻貴の次の狙いは日本軍のシンボリックな存在・加藤清正。
一二月二三日、楊鎬・麻貴率いる明軍と権慄率いる朝鮮軍併せて六万の連合軍が、日本軍二千余が籠る蔚山倭城を包囲しました。
城内は食糧もなく、敵に水道も断たれたため、日数が増えるごとに投降する日本兵が続出。城内の疲労は限界に達し、清正は楊鎬が持ちかけた和議に乗ろうとしました。
7.救援軍として駆け付ける
しかし年明け正月二日に、秀元・黒田長政・鍋島直茂・加藤嘉明ら一万三千の救援軍が駆け付け、明・朝鮮軍の背後をつき囲みを解かせました。
五日、楊鎬が全軍に撤退命令を出して十日余続いた蔚山の戦いはついに終了。
しかし秀元ら救援軍は敗走する敵軍を追撃しませんでした。理由は救援を急いで兵糧も兵士の数も満足でなかったことや、自分の居城(倭城)が心もとないのが原因でした。
同年(慶長三年)八月に秀吉が死去。日本軍の帰国が始まると、日本軍追撃戦として同年一一月に朝鮮水軍の李舜臣と明水軍都督の陳璘が、露梁で島津義弘らの水軍を撃破して、七年にも及ぶ朝鮮の役はようやっと幕を閉じました。
8.長府藩初代となる
帰国後、翌年九月の関ヶ原の戦いでは、秀元二二歳は東軍に意を通じていましたが、毛利輝元が大坂城に入ったため、やむをえず西軍として毛利本隊を率いてて南宮山に布陣。
しかし、秀元従兄の吉川広家らが徳川方に内通していたため、戦わずして敗れました。戦後の毛利氏は長門・周防(いずれも現・山口県)二国に削封され、輝元は隠居。秀元は宗家から三万六千石を分与され長府(ちょうふ)藩初代となり、長門城にいて宗家秀就(ひでなり)を後見しました。
妻は慶長一四(1609)に死去し、同一八年(1613)秀元三五歳は継室として松平康元の娘(徳川家康の養女)と結婚。また大坂の陣では秀就とともに従軍し、功を立てました。
茶道や和歌に堪能で、茶人・古田織部の高弟。寛永二年(1625)・四七歳の時には将軍徳川家光の御伽衆に加えられ、茶を献じ、和歌を詠んで賞賛され、六〇を過ぎても家光との交流は続きました。慶安三年(1650)死没。七二歳。
毛利秀元 相関図
毛利氏
親族と妻
親戚筋
慶長の役
文化の才を買ってくれた人
参考文献
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 河合正治「毛利秀元」『国史大辞典13』(吉川弘文館 1992年 )803-804頁
- 北島万次『加藤清正 朝鮮侵略の実像』(吉川弘文館 、2007年)
- 後藤陽一「毛利秀元」『日本歴史大辞典9』(河出書房新社、1985年 )251頁