朝鮮通信使
天正一八年(1590)来日使節
背景
九州を平定した豊臣秀吉の次の狙いはアジア――明国制圧。秀吉は、明国の通り道となる朝鮮に国王宣祖の参内を、対馬の宗義智と景轍玄蘇を通して二度三度と要求。
朝鮮朝廷は議論に議論を重ね、秀吉の天下統一の祝賀のためということで、通信使の日本派遣を決定。上記に示した黄允吉、金誠一らに楽隊まで加えて二百人の大一行が来日しました。この時の様子について、今に遺る記録から以下に見てみましょう。
晴豊記
『晴豊記』は権大納言・勧修寺晴豊(かじゅうじ-はるとよ)の日記。公家。1554-1603(享年五〇)。下記は文献1巻60頁、61頁を口語訳し()で補足した。
天正一八年七月二一日
晴れ。(中略)今日四つ時(午前十時)に高麗の衆が、管弦(音楽隊)にて上洛し、おのおの同行した。中山親綱(権大納言)[註1]は、宿において見物したところ、大酒で、おかしい出で立ち(戒服カ)だ、と言う。(中略)すぐに(京都・臨済宗大本山)大徳寺に通信使が来て見物に参り見た。高麗の関白である。
同年一一月七日
晴れ。今日、狛人(通信使)が関白(五四歳)の所(聚楽第)へ初めて礼に参った。
相伴に(天台宗総本山)聖護院(道澄:のち、東山大仏住持)、右大臣菊亭[註2](五二歳)、私(勧修寺晴豊三七歳)、権大納言中山親綱(四七歳)、権大納言日野輝資(三六歳)[註3]が、配膳に前権大納言飛鳥井雅春、長谷川秀一、宇喜多宰相(秀家一九歳)、通信使四人(黄允吉、金誠一、許筬、車天輅)は足の付いた膳で、五つの膳。
進物は虎の皮百枚、唐鞍二口、蜜桶五つ、人参一箱、白米五十石、楽を吹いて聴かせた。右の拍子は何とも知れず、お頭四人そのほか五〇人ばかり殿下(秀吉五四歳)に拝見した。下々まで饅頭、蜜柑、鯛のもの、酒を飲まされた。音楽にて参り、帰りもそのようにした。
柳成龍『懲毖録』
文献1巻62頁を口語訳し()で補足した。
秀吉の容貌
秀吉の容貌は、小さくいやしげ。顔色は黒っぽくて特徴なし。ただ微かに眼光が閃(ひらめ)いて人を射るように感じる。
宴の様子
三重の席を設けて南向きにして床に坐し、紗帽を載せて黒袍を身に着ける。諸臣数人が列座し、我が使を引いて席に就かせた。宴具を設けず、前に一卓を置く。中に熟餅の一器有り。かわらけ(素焼きの器)をもって酒を行う。酒もまた濁り、その礼は極めて簡なり。数巡して退出する。敬礼および酌み交わす礼なし。
鶴松の登場
しばらくたって秀吉が、たちまち起きて内に入る。席にある者は皆、動かず。急に人有り。普段着にして小児(鶴松)を抱き内より出て、堂中を徘徊する。これを視れば、すなわち秀吉である。坐中は頭を下げて俯伏するのみ。
巳(午前十時)にして柱の外に出て来て、我が国の楽工を招き、盛んに多くの楽を奏してこれを聴く。鶴松が衣の上に遺漏す。秀吉が笑って侍者を呼ぶ。一人の女の倭が声に応じて走り出て、その児を授かって他の衣に変える。皆、気ままでうぬぼれ。傍若無人だ。使臣は辞して出た。そのあと、再び対面することを得ない。
補註
参考文献
- 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)