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戦国武将解説

宗義智(そう-よしとし)

プロフィール

宗義智
Yoshitoshi so

対馬藩主。

日朝国交回復に尽力した戦国ノーベル平和賞というべき武将。

対馬は朝鮮との貿易が生活の糧になっていたが、明国制圧を目論む豊臣秀吉が、朝鮮国王・宣祖の参内を対馬を通して要求。

義智は金誠一ら通信使を日本に連れて来たが、その後もどこかのんびり構えている朝鮮に事の重大さを伝えに自ら釜山まで行って説いた。

ついに日本軍朝鮮へ侵攻。義智は義父の小西行長ら第一軍に配属されソウルを制圧。しかし平壌の戦いで明将・李如松に敗退する。

その後、明との和議交渉に奔走するが決裂。日本軍再出兵となり再び行長と共に朝鮮へ渡海。南原城を落とすが、露梁海戦李舜臣に敗退した。

戦後は直ちに行長らと共に日朝国交回復に奔走。宗義智@対馬藩の平和への思いは半端じゃなかった――?!

享年48(生1568-没1615)。伊達政宗真田幸村立花宗茂姜沆より一つ年下。

詳細

1.対馬の事情

文禄年間 九州諸大名配置図
図1:文禄年間 九州諸大名配置図

宗義智義智は、宋将盛(まさもり)の五男として永禄一一年(1568)に生まれ、天正七年(1579)一二歳にして対馬守護の宋義調(よししげ)の跡取りとなりました。

島津氏を服属させ九州を平定した豊臣秀吉豊臣秀吉の次の狙いはアジア、明国制圧でした。秀吉は、明国の通り道となる朝鮮に国王・宣祖の参内を、対馬の宋義調・義智父子を通して要求。

対馬宋氏は中世以来、朝鮮国と日本の仲介貿易で大きな利益をあげ、良田がない対馬の島人はそれで生計を立てていました。秀吉の要求を適当にうっちゃらかしている間に義調が死去。

天正十六(1588)秀吉は、朝鮮国王に参内を求める国書の伝達を二一歳の義智に命じました。

2.通信使を連れて来る

朝鮮国王の参内は無理だと判断した義智は、国王の参内から使節の派遣とすり替えて家臣の柚谷康広を都のソウル・漢城まで行かせました。

しかしソウルでの柚谷康広は、左議政・柳成龍著『懲毖録(ちょうひろく)』によれば「言動は傲慢無礼」だったので、朝鮮は使節派遣の要求をを却下。天正十七(1589)秀吉は、義智に対して直接訪朝を命じました。

これにより、義智は対馬外交僧・景轍玄蘇景轍玄蘇を正使に、自ら副使となってソウル・漢城まで行きました。

玄蘇・義智が粘り強く交渉をした結果、朝鮮はついに秀吉の天下統一の祝賀の為ということで通信使の日本派遣を決定。通信使の正使に黄允吉(ホワン・ユンギル)、副使に金誠一を選任。

楽隊まで加えて二百人の大一行は、都ソウル・漢城(ハンソン)を出発し来日。一行は義智とともに京都にのぼり、天正十八年(1590)十一月七日、聚楽第において秀吉との会見を果たしました。

朝鮮の城

3.最後のお願い

帰国後、通信使の正使・黄允吉は、国王・宣祖に「兵乱が必ず起きる。」と報告。副使・金誠一は「秀吉の出兵はない。允吉の発言は大袈裟であり人心を揺動させる。」と正反対のことを報告。

更に金誠一と同じ派閥の柳成龍が金誠一の報告を支持しました。

一方、何としてでも戦争を回避したい義智は天正一九(1591)年の夏に釜山(プサン)に至りました。そして「日本は明と国交を結びたい。朝鮮がこれを明に奉聞してほしい。そうでなければ和平が失われるでしょう。」と釜山の諸将に申し入れました(懲毖録)。

釜山の諸将は事の次第を報告しましたが、朝廷は完全スルーで、義智は船に留まること十日、何の成果も得られずに去りました。

4.平壌の戦い

朝鮮全土_文禄の役緒戦
図2:文禄の役 日本軍進路
義智は小西行長と行動を共にする。

文禄元年(1592)四月十三日、日本の諸将朝鮮へ侵攻

義智の妻・マリアの父は、キリシタン大名の小西行長小西行長で、義智は朝鮮出兵の直前に受洗。

二五歳の義智は、小西行長ら第一軍に配属され、対馬の十六歳から五三歳までの男子総勢五千人全て動員して朝鮮へ渡海しました。

第一軍は釜山に上陸すると破竹の勢いで北上し、二十日余りで都・漢城(ソウル)を制圧。更に北上して、第一軍は黒田長政黒田長政軍と共に同年六月十五日、平壌(ピョンヤン)城に入城しました。

しかし、翌年一月六日李如松率いる明の大援軍四万が平壌城を囲むと、激戦となり行長・義智は敗走。黄海道白川に拠る黒田長政らと共にソウルへ逃れました。

5.日明和平交渉

海上では李舜臣李舜臣が日本水軍に連勝しており、窮地に陥った日本は明と和議の方向に傾き、小西行長と沈惟敬の和議の会談が本格的に始まりました。

沈惟敬は加藤清正加藤清正が捕らえた二王子返還と釜山までの撤退を要求。行長は明国からの和議使節の派遣と、明国軍の遼東への撤収を要求しました。

これにより義智は、明の使節・謝用梓・徐一貫を伴って文禄二年(1593)四月十八日にソウルを撤退し肥前名護屋に帰りました。

謝用梓らは秀吉から名護屋で、明の皇女を日本の天皇の后にすることなどの和議七か条を受け取りました。

和議七か条は明側が到底飲み込めない内容だったので、小西行長と沈惟敬は策謀して、和議七か条とは別に秀吉の降伏文書を勝手に作成。

小西行長の家臣・内藤如安(じょあん)にこれを持たせて、内藤如安は北京の明皇帝に拝謁、恭順を誓いました。

これにより今度は明冊封使節の正使に楊方亨、副使に沈惟敬が来日こととなり、義智は彼らを大坂城に導き、慶長元年九月一日、秀吉に拝謁させました。しかし小西行長と沈惟敬の策謀がここで露見。

6.慶長の役・李舜臣との戦い

露梁の海戦
図3:露梁海戦

明との和議は破談となって、朝鮮再出兵となり、三〇歳の義智は再び小西行長と共に朝鮮へ渡海となりました。

行長・義智ら日本軍は明・朝鮮連合軍が死守していた南原城を制圧。秀吉の命令によって日本軍による大量殺戮と鼻切りも行われました。

秀吉が死去すると、日本軍の帰国が始まり、明・朝鮮連合軍は順天倭城の小西行長軍の帰国の退路を抑えました。

慶長三年(1598)一一月一五日、身動きの取れない順天の小西行長の救援に、島津義弘島津義弘を筆頭に立花宗茂立花宗茂・義智ら約五百隻の大船団が南海から露梁(ノリャン)に迫りました。

これに対して、朝鮮水軍李舜臣李舜臣と明水軍都督の陳璘は約五百隻の兵船を左右に分けて砲撃を加えました。

この戦闘中、小西行長は順天から脱出。島津勢は多数の死傷者を出し、朝鮮役最後の戦いとなった露梁海戦は明・朝鮮連合軍の大勝利に終わりました。

7.固く心を閉ざしてしまった朝鮮

関ヶ原合戦直前の諸大名配置図
図4:関ヶ原合戦直前の諸大名配置図

七年にも及ぶ戦争が終わると、義智は直ちに小西行長らともに和議の書を送り、捕虜百数十人送還しました。対馬は朝鮮との貿易が生活の糧になっていたからです。

しかし朝鮮から何の応答もありません。朝鮮は物心ともに深く傷ついていました。慶長五年(1600)六月、日本に抑留されていた姜沆(カンハン)が帰国し朝鮮朝廷に日本情勢を報告。

九月、関ケ原の戦いにおいて義智は西軍につくが所領安堵されました。翌年、徳川家康徳川家康の指示により義智は二五〇人の捕虜送還。しかし朝鮮はいまだ心を固く閉ざしたままでした。

8.奇跡の日朝国交回復

慶長八年(1603)二月、家康が征夷大将軍に就任すると、三六歳の義智は将軍家康から正式に通信使派遣の要請を請けます。

朝鮮は捕虜を送還させ日本情勢を探る必要性から、僧・惟政(ユジョン)らの派遣決定しました。

慶長一〇年(1605)三月、僧・惟政らが来日し、家康・徳川秀忠秀忠と伏見城で謁見。通信使の派遣、捕虜の送還など合意が成立しました。

徳川幕府はこれを受けて一三九〇名の朝鮮捕虜を送還した上で、対馬藩を通じて朝鮮通信使派遣を要請。幕府の要請により宗義智の重臣・柳川調信(しげのぶ)・智永(としなが)父子、更に景轍玄蘇らが訪朝することになりました。

柳川氏・玄蘇は、朝鮮より日本との最終講和条件として日本側から先に国書を送ること等を突き付けられました。家康がそれに応じるはずがないと、柳川氏・玄蘇は日本と朝鮮の国書を双方を偽造。

危ない橋を渡り歩いて、慶長十二年(1607)通信使・呂祐吉(リョウギル)ら五〇四名が来日、江戸城で家康・秀忠と会見。ついに国交回復し、江戸時代二百余の間に一二回に渡り通信使一行が来日しました。

更に慶長一四年(1609)六月に宋氏と朝鮮とが締結した己酉(きゆう)約条が成立。貿易船は二〇隻に限らるなど以前より貿易を制限される内容でしたが、対馬・朝鮮間の貿易が正式に再開されました。

日朝国交回復の詳細についてはこちらをご参照ください。

元和元年(1615)正月、大坂夏の陣の半年ほど前に義智死去。享年四八。朝鮮国王は万松図書を贈って弔意を表しました。義智は家康と共に最も見直されるべき武将だと思います。

宗義智 相関図

運命共同体

妻マリアの父:小西行長小西行長/家臣:景轍玄蘇景轍玄蘇

平壌の戦い

ライバル:李如松

慶長の役・露梁海戦

味方:島津義弘島津義弘立花宗茂立花宗茂・小西行長/ライバル:李舜臣李舜臣陳璘

義智が案内した来日外国人

朝鮮通信副使・金誠一/明使節・沈惟敬

日朝国交回復

将軍徳川家康徳川家康

  

関連トピック

宗義智

肖像素材イラスト

文禄・慶長の役

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 略年表慶長の役 略年表

朝鮮国

朝鮮の官制その1 京官その2 外官-陸軍・水軍、地方行政朝鮮王朝の党争

明国

明の官位相当表

日本国

文禄年間 全国の諸大名配置図九州中国・四国近畿東海・北陸東日本

慶長前期 全国の諸大名配置図村上水軍とは 前編後編

戦後

日朝国交回復年表

参考文献

国史大辞典編集委員会『国史大辞典〈第8巻〉 』(吉川弘文館、1987年)

瀬野精一郎・佐伯弘次・五野井隆史・新川登亀男・小宮木代良『長崎県の歴史 (県史) 』(山川出版社、第2版2012年)

朴春日『朝鮮通信使史話 (雄山閣BOOKS) 』(雄山閣出版、1992年)

北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

上垣外 憲一『空虚なる出兵―秀吉の文禄・慶長の役 (Fukutake Books) 』(福武書店、1989年)

柳 成竜 (著), 朴 鐘鳴 (翻訳)『懲毖録 (東洋文庫 357)』(平凡社 、1979年)