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戦国人物解説

宗義智(そう-よしとし)日朝国交回復に尽力した対馬藩主

目次

プロフィール詳細:1.対馬の事情 2.通信使来日 3.戦争前夜

4.平壌の戦い 5.日明和議交渉 6.李舜臣との戦い 7.傷ついた朝鮮

8.日朝国交回復に尽力相関図補註参考文献関連記事

プロフィール

宗義智
Yoshitoshi so

宗氏二〇代対馬島主。対馬藩主。

明国制圧を目論む豊臣秀吉が、朝鮮国王宣祖の参内を対馬を通して要求。

義智は金誠一ら通信使を日本に連れて来たが、その後も朝鮮に事の重大さを伝えに自ら釜山まで行って説いた。

日本軍朝鮮へ侵攻。義智は義父の小西行長ら第一軍に配属され、平壌城にあって明提督李如松の大軍に攻撃を受ける。

日本軍再出兵では再び朝鮮へ渡海。戦後は直ちに行長らと共に日朝国交回復に奔走するが――?!

享年48(1568-1615)。同い年は、豊臣秀次黒田長政伊達成実

詳細

1.対馬の事情

文禄年間 九州諸大名配置図
図1:文禄年間 九州諸大名配置図

宗義智義智は、宋将盛(まさもり)の五男として永禄一一年(1568)に生まれ、天正七年(1579)一二歳にして対馬守護の宋義調(よししげ)の跡取りとなりました。

島津氏を服属させ九州を平定した豊臣秀吉豊臣秀吉の次の狙いはアジア――明国制圧でした。秀吉は、明国の通り道となる朝鮮に国王宣祖の参内を対馬の宋義調・義智父子を通して要求。

対馬宋氏は中世以来、朝鮮国と日本の仲介貿易で大きな利益をあげ、良田がない対馬の島人はそれで生計を立てていました。秀吉の要求を適当に流してしている間に義調が死去。

天正一六(1588)秀吉は、朝鮮国王に参内を求める国書の伝達を義智二一歳に命じました。

2.通信使来日

朝鮮国王の参内は無理だと判断した義智は、国王の参内から使節の派遣とすり替えて家臣の柚谷康広を首都ソウル・漢城まで行かせました。

しかし漢城での柚谷康広は、左議政柳成龍著『懲毖録』によれば「言動は傲慢無礼」だったので、朝鮮は使節派遣の要求を却下。天正一七(1589)に秀吉は義智に対して直接訪朝を命じました。

これにより対馬外交僧・景轍玄蘇景轍玄蘇を正使に、自らは副使となってソウル・漢城まで行きました。

玄蘇・義智が粘り強く交渉をした結果、朝鮮は通信使として金誠一らを日本に派遣することを決定。

通信使一行は漢城を出発して来日し、義智と共に京都にのぼり、天正一八年(1590)一一月七日、聚楽第において秀吉との会見を果たしました。詳しくは秀吉と対面する朝鮮通信使参照のこと。

朝鮮の城

3.戦争前夜

帰国後、通信使の正使・黄允吉は、国王宣祖に「兵乱が必ず起きる。」と報告。副使・金誠一は「秀吉の出兵はない。允吉の発言は大袈裟であり人心を揺動させる。」と正反対のことを報告。

更に金誠一と同じ派閥の柳成龍が金誠一の報告を支持しました。

何としてでも戦争を回避したい義智は、天正一九(1591)年の夏に釜山(プサン)に至りました。そして「日本は明と国交を結びたい。朝鮮がこれを明に奉聞してほしい。そうでなければ和平が失われるでしょう。(懲毖録)」と釜山の諸将に申し入れました[]。

釜山の諸将は事の次第を報告しましたが、朝廷は完全無視。義智は船に留まること一〇日、何の成果も得られずに去りました。

4.平壌の戦い

朝鮮全土_文禄の役緒戦
図2:文禄の役 日本軍進路
義智は小西行長と行動を共にする。

文禄元年(1592)四月一三日、日本の諸将朝鮮へ侵攻

義智の妻マリアの父は、キリシタン大名の小西行長小西行長で、義智は朝鮮出兵の直前に受洗。

義智二五歳は、行長ら第一軍に配属され、対馬の一六歳から五三歳までの男子総勢五〇〇〇人全て動員して朝鮮へ渡海しました。

第一軍は釜山に上陸すると破竹の勢いで北上し、半月余りで首都ソウル・漢城を制圧。更に北上して、第一軍は黒田長政黒田長政軍と共に同年六月一五日、平壌(ピョンヤン)城に入城しました。

しかし、翌年一月六日李如松率いる明の大援軍四万が平壌城を囲むと、激戦となり行長・義智は敗走。黄海道白川に拠る黒田長政らと共にソウルへ逃れました。

5.日明和議交渉

海上では李舜臣李舜臣が日本水軍に連勝しており、窮地に陥った日本は明と和議の方向に傾き、小西行長と沈惟敬の和議の会談が本格的に始まりました。

かくして義智は、明の非公式使節の謝用梓・徐一貫を伴って文禄二年(1593)四月一八日にソウルを撤退し、肥前名護屋に帰りました。謝用梓らは、秀吉から名護屋で和議七か条を受け取りました。

小西行長は明の沈惟敬と図って、これを秀吉の降伏文書として偽造。これを受けて明皇帝は秀吉を日本国王として冊封するため、冊封使の正使・楊方亨、副使・沈惟敬を派遣。義智は彼らを大坂城に導き、慶長元年九月一日、秀吉に拝謁させました。

しかし小西行長と沈惟敬が和議七か条とは別に、秀吉の降伏文書を勝手に作成したことがここで露見。

6.李舜臣との戦い

露梁の海戦
図3:露梁海戦

明との和議は破談となって朝鮮再出兵となり、義智三〇歳は再び小西行長と共に朝鮮へ渡海となりました。

行長・義智ら日本軍は明・朝鮮連合軍が死守していた南原城を制圧。秀吉の命令によって日本軍による大量殺戮と鼻切りも行われました。

秀吉が死去すると、日本軍の帰国が始まり、明・朝鮮連合軍は順天倭城の小西行長軍の帰国の退路を抑えました。

慶長三年(1598)一一月一五日、身動きの取れない順天の小西行長の救援に、島津義弘島津義弘を筆頭に立花宗茂立花宗茂・義智ら約五百隻の大船団が南海から露梁に迫りました。

これに対して、朝鮮水軍李舜臣と明水軍都督陳璘は、約五〇〇隻の兵船を左右に分けて砲撃を加えました。この戦闘中、行長は順天から脱出しましたが島津勢は多数の死傷者を出しました。

7.傷ついた朝鮮

関ヶ原合戦直前の諸大名配置図
図4:関ヶ原合戦直前の諸大名配置図

七年にも及ぶ戦争が終わると、義智は直ちに小西行長らともに和議の書を送り、捕虜百数十人を送還。対馬は朝鮮との貿易が生活の糧になっていたからです。

しかし朝鮮から何の応答もありません。朝鮮は物心ともに深く傷ついていました。慶長五年(1600)六月、日本に抑留されていた姜沆が帰国し朝鮮朝廷に日本情勢を報告。

九月、関ヶ原の戦いにおいて義智は西軍につくも所領安堵されました。翌年、徳川家康徳川家康の指示により義智は二五〇人の捕虜送還。しかし朝鮮はいまだ心を固く閉ざしたままでした。

8.日朝国交回復に尽力

慶長八年(1603)二月、家康が征夷大将軍に就任すると、義智三六歳は将軍家康から正式に通信使派遣の要請を請けました。

幕府の要請により同一一年(1606)、宗義智重臣の柳川調信(しげのぶ)・智永(としなが)父子、更に景轍玄蘇らが訪朝。

彼ら対馬藩の働きにより、翌年に通信使・呂祐吉(リョウギル)ら五〇四名が来日し、江戸城で家康・徳川秀忠秀忠と会見。ついに国交回復し、江戸時代二百余の間に一二回に渡り通信使一行が来日しました。

更に慶長一四年(1609)六月に宋氏と朝鮮とが締結した己酉(きゆう)約条が成立。貿易船は二〇隻に限らるなど以前より貿易を制限される内容でしたが、対馬・朝鮮間の貿易が正式に再開されました。

元和元年(1615)正月、大坂夏の陣の半年ほど前に義智死去。享年四八。朝鮮国王は万松図書を贈って弔意を表しました。

宗義智 相関図

運命共同体

義父(妻マリアの父):小西行長小西行長/家臣:景轍玄蘇景轍玄蘇

平壌の戦い

ライバル:李如松

露梁海戦

味方:島津義弘島津義弘立花宗茂立花宗茂/ライバル:李舜臣李舜臣陳璘

義智が案内した来日外国人

朝鮮通信使金誠一明使節沈惟敬

日朝国交回復

将軍徳川家康徳川家康

  

補註

開戦前に義智が釜山に至り、朝鮮側に急を告げたことについては文献7第1巻127~128頁に『朝鮮王朝実録』(「宣祖修正実録」宣祖二四年五月)をはじめ、閔順之が一六一六(光海君一〇)年に記した『乱中雑録』(庚卯六月)、宗氏関係記録『朝鮮陣記』(天正一九年六月)にも見られ、彼の切実さや誠実さが窺い知れる。

参考文献

  1. 国史大辞典編集委員会『国史大辞典〈第8巻〉 』(吉川弘文館、1987年)
  2. 瀬野精一郎・佐伯弘次・五野井隆史・新川登亀男・小宮木代良『長崎県の歴史 (県史) 』(山川出版社、第2版2012年)
  3. 朴春日『朝鮮通信使史話 (雄山閣BOOKS) 』(雄山閣出版、1992年)
  4. 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
  5. 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)
  6. 上垣外憲一『文禄・慶長の役―空虚なる御陣』(講談社、2002年)
  7. 柳 成竜 (著), 朴 鐘鳴 (翻訳)『懲毖録』(平凡社 、1979年)

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