解説
豊臣秀吉の明国制圧の野望により、文禄の役で日本軍は朝鮮全土に進軍。緒戦は優勢でしたが、次第に劣勢となり日明和議交渉において日本軍は首都ソウル(漢城)から撤退することとなりました。
一時停戦時を経て再出兵となり、総大将の小早川秀秋を釜山に留め、軍全体を左右に分けて日本右軍の毛利秀元・黒田長政・加藤清正らはソウル再侵入を目指して北上。
左軍の宇喜多秀家・島津義弘らは穀倉地帯・全羅道を目指して進軍。水軍の藤堂高虎らは再び李舜臣と全羅道・鳴梁海峡で対決することになります。
さて上記と進路図は、慶長の役前半戦(1597年7月~9月末)の話。この頃は、日本軍が襲撃して朝鮮・明連合軍が迎撃していました。
しかし慶長の役後半戦は、日本軍が劣勢となり立場が逆転。日本軍は進軍せずに各将が倭城に籠り、これを朝鮮・明連合軍が襲撃、日本軍が迎撃することになりました。
参考文献
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慶長の役 日本軍進路図/倭城とは 分布図と一覧/合戦地図