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文禄・慶長の役

文禄の役(第一次朝鮮出兵)年表

文禄の役 年表

日明和議交渉
朝鮮・明連合軍VS日本軍 朝鮮水軍 李舜臣VS日本水軍 小西行長×沈惟敬
天正二〇=文禄元年(1592)壬申 一月 豊臣秀吉秀吉朝鮮を経て明国へ出兵指令を諸大名に下す。 
四月中旬 日本軍、釜山上陸。 おびただしい日本の兵船が釜山に至る。
四月末 朝鮮国王宣祖の援軍を仰ぐことにして首都ソウル(漢城)脱出。
五月初旬 第一軍の小西行長小西行長、第二軍の加藤清正加藤清正と共に漢城に入る。 玉浦海戦李舜臣李舜臣VS藤堂高虎藤堂高虎水軍
五月下旬 泗川海戦:李舜臣、秘蔵の亀甲船で日本水軍を撃破。
六月初旬 第一軍の行長・宗義智宗義智と第三軍の黒田長政黒田長政、平壌に侵入。 栗浦海戦:李舜臣、来島兄弟水軍を撃破。
六月中旬 第二軍の清正・鍋島直茂鍋島直茂咸鏡道に侵入。
七月初旬 錦山の戦い:権慄郭再祐金誠一ら朝鮮連合軍、第六軍の小早川隆景小早川隆景の全羅道侵入を阻止。 閑山島海戦:李舜臣VS脇坂安治脇坂安治水軍
❸ 安骨浦海戦:李舜臣、九鬼嘉隆九鬼嘉隆加藤嘉明加藤嘉明水軍を撃破。
同月中旬 明の祖承訓、行長籠る平壌城を攻めるが敗退。
同月下旬 大政所(秀吉の母)死去。享年八〇
九月 釜山浦海戦:李舜臣、日本軍本陣を襲撃。 1.初交渉:明軍到来に危機を感じた小西行長、明の沈惟敬と交渉し50日間の停戦協定締結。
十月 第一次晋州城の戦い金時敏朝鮮軍VS細川忠興細川忠興ら日本軍。
一二月 天正二〇年一二月八日 文禄に改元
文禄二年(1593)癸巳 一月初旬 平壌の戦い:明の李如松VS行長軍 平壌の戦いにより交渉決裂。
同月下旬 碧蹄館の戦い:明の李如松VS小早川隆景・立花宗茂立花宗茂ら日本軍
二月 幸州山城の戦い:朝鮮軍の権慄VS宇喜多秀家宇喜多秀家ら日本軍 熊川の戦い:李舜臣、5回に渡り、脇坂・九鬼・加藤嘉明水軍ら襲撃。
三月 日本軍、窮地に陥り撤退を決定。小西行長と沈惟敬の交渉再開。
五月 2.明使節初来日:秀吉、明の皇女を日本の天皇の妃にするなどの「和議七ヶ条」を示す。
六月 第二次晋州城の戦い:日本軍、城内の軍民六万を虐殺。
七月 一時休戦に入る 同左
八月 日本軍の帰国が相次ぐ。/豊臣秀頼生まれる。 李舜臣、慶尚・全羅・忠清三道水軍統制使となる。
十月 3.行長と沈惟敬、秀吉の「和議七か条」が理不尽な内容だったので秀吉の降伏文書を勝手に作成。
文禄三年(1594)甲午三月 秀吉、大坂城を秀頼に与えるため、伏見(桃山)に城を築く。
十二月 4.行長の家臣・内藤如安、「秀吉の降伏文書」(汗)を携えて、北京で明皇帝に拝謁。
文禄四年乙未(1595) 四月に甥の豊臣秀保死去、七月に豊臣秀次秀次が高野山で自害。
慶長元年(1596)丙申 七月 畿内大地震:東山大仏大破
九月 5.明使節再来日冊封使沈惟敬らが来日し、大坂城で秀吉を冊封。ここで一連の虚偽が暴露し、和議交渉決裂。日本再出兵・慶長の役
一一月 秀吉、キリスト教二六人を長崎で処刑。

年表の見方

  1. 文禄の役は、陸・海・日明和議交渉の三つのカテゴリーに分けて考えると理解しやすいです。
  2. まずは年表を縦に見ていきましょう。その際、文禄・慶長の役 関係地図も併せてご参照ください。
  3. 重要な出来事は、陸は緑海は青日明和議交渉は橙の背景色付きで目立たせました。
  4. 年表を横に見て、陸と海、日明和議交渉の流れ全体をつかめるようになりましょう。

陸は四つ 平壌碧蹄館幸州山城第二次晋州城の戦い、海は三つ 玉浦閑山島・安骨浦海戦をまず押さえましょう。陸と海の戦いが大まかに理解できたら、一番右の日明和議交渉にも目を向けてみましょう。詳細については沈惟敬の解説をご参照ください。

参考文献

北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)

文禄・慶長の役

年表:文禄・慶長

慶長の役 主な戦い

漆川梁南原稷山鳴梁海戦

蔚山泗川順天露梁海戦