プロフィール
現存伊予松山城の築城者。のちに会津若松城主。
初名は茂勝、通称は孫六、左馬助(さまのすけ)。
馬喰(ばくろう:馬の売買を行う人)だったが、信長家臣・加藤景泰の目に留まり、推挙されて秀吉に仕えたとされる。賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人。
文禄・慶長の役では、水軍将として救国の英雄・李舜臣率いる朝鮮水軍に挑む。しかし嘉明を置いて脇坂安治は手勢のみで巨済島に出撃。
同じく水軍将の藤堂高虎とは功を争うようになり、絶交に至ってしまう――!
詳細
1.加藤景泰にスカウトされる
嘉明は、松平氏に仕えていた父・岸三丞教明と母・川村氏の子として永禄六年(1563)三河国(愛知県)に生まれました。
幼名を孫六と称し、一二歳ごろまで近江(滋賀県)長浜で馬喰(ばくろう:馬の売買を行う人)に養われていたとされます。
ある日、馬を売りに岐阜に行くと、岐阜城主・織田信長に仕える加藤景泰(光泰の父)に出逢いました。景泰は馬の優劣を見定めるききめで、孫六が売り込む馬は「駿馬だが癖がありそうだ」と買うのを躊躇。孫六はこの馬に乗り、馬は鞭に従って駆け回り、やがておとなしく頭をたれました。
感嘆した景泰は孫六を屋敷に招きれ、馬喰にしておくのは勿体ないとして、羽柴秀吉に推挙したと言われています。
2.賤ヶ岳の七本槍
秀吉に仕えた嘉明は、天正一一年(1583)二一歳の時の賤ヶ岳の戦い(VS柴田勝家)で、加藤清正・福島正則・脇坂安治らと共に七本槍の一人として功を立てました。
翌年の小牧・長久手の戦い(VS織田信雄・徳川家康)では佐々成政の成敗に功があり、伊予(愛媛県)松崎(松前)城六万石に封じられました。
3.文禄の役緒戦
日本軍は僅か半月で首都ソウル(漢城)を制圧。日本軍に次々と敗れる中で、李舜臣が水軍を率いて巨済島玉浦(オクポ)で藤堂高虎の水軍を撃破。その後も日本水軍の苦戦が続いたため、秀吉は第五軍に配属した村上水軍の雄・来島通総を水軍に投入するもこれまた李舜臣に撃破されてしまいました(栗浦海戦)。
4.閑山島・安骨浦海戦
これを受けて秀吉は、織田信長の水軍将として無敵の毛利水軍を破った実績ある九鬼嘉隆と、水軍の国の脇坂安治(淡路洲本)と嘉明(伊予松崎)を水軍に投入することにしました。
朝鮮水軍が手ごわいことを認識した秀吉は、安治・嘉隆・嘉明の三水軍将に防戦を命令。然しながら功名を焦った安治は抜け駆けして手勢のみで同年七月八日、巨済島に出撃してしまいました。
これを待ち構えていた李舜臣率いる朝鮮水軍が閑山島(ハンザンド)沖で亀甲船一一隻を加えた六〇余隻で猛攻。
日本軍七〇余隻は五十九隻の兵船を失い、安治は九死に一生を得ました。損害が僅か四隻の朝鮮水軍の完勝でした。
安治の救援に九鬼嘉隆と嘉明が駆けつけましたが、劣勢を知ると安骨浦(アンゴルポ)に引き揚げてしましました。しかし同年七月一〇日に李舜臣率いる朝鮮水軍は安骨浦の九鬼・加藤らを襲撃、これも撃破しました。
翌年、嘉隆・嘉明・安治の三人組は秀吉の命令で安骨浦に倭城を築城し、一年交代で在番を勤めました。
5.鳴梁海戦
一時停戦を経て、慶長の役が起こると嘉明三五歳は再び朝鮮へ渡海。この頃、李舜臣は同僚の元均の陰謀よって更迭され、元均が朝鮮水軍を率いていました。
慶長二年(1597)七月一六日、藤堂高虎・脇坂安治・嘉明が率いる日本水軍は漆川梁(チルチョンリャン)にて元均率いる朝鮮水軍を撃破。
李舜臣が作り上げた朝鮮水軍はこの一戦でほぼ壊滅しましたが、これにより李舜臣が朝鮮水軍最高司令官(統制使)として復帰しました。
同八月一八日、高虎・安治・嘉明は左軍の宇喜多秀家・島津義弘と共に明・朝鮮連合軍が死守する南原城を包囲。ここを落として、大量殺戮と鼻切りが行われました。
九月一六日、高虎・安治・来島通総・嘉明ら率いる日本水軍一三三隻は、鳴梁(ミョンリャン)海峡にて李舜臣率いる朝鮮水軍一三隻を襲撃。然しながら朝鮮水軍に撃破され、来島通総に至っては戦死しました。
6.蔚山の戦い
一方、明の経略・楊鎬と総兵官・麻貴は、稷山(チクサン)において、右軍の黒田長政・毛利秀元ら日本軍のソウル再侵入を阻止。
次の攻撃目標を加藤清正籠る蔚山倭城定めると、同年一二月二三日に都元帥・権慄と共に明・朝鮮連合軍六万の大軍で蔚山倭城を包囲。
かくして蔚山城内に籠る清正・浅野幸長以下二千余の苦しい戦いが始まり、城中は水も米もなく困窮し、日数が増えるごとに投降する日本兵が続出。
年明け正月二日に毛利秀元・黒田長政・嘉明ら一万三千の救援軍が駆け付け、明・朝鮮軍の背後をつき囲みを解かせました。
慶長三年八月に秀吉が死去。同年一一月、李舜臣・陳璘率いる朝鮮・明連合水軍が、露梁(ノリャン)海峡にて島津義弘らの船団を撃破して、七年にも及ぶこの戦争は幕を閉じました。
7.関ヶ原の戦い
文禄・慶長の役で嘉明は、水軍の藤堂高虎(伊予板島)と功を争うようになり遂に絶交に至りました。
秀吉死後の慶長五年閏三月には、豊臣の大黒柱・前田利家が大坂城で病死。これを機会に加藤清正・黒田長政・福島正則・細川忠興・浅野幸長らと共に嘉明三八歳は、反派閥の石田三成を大坂で襲い、三成を佐和山に引き籠らせました。
一方、会津の上杉景勝は三成と通じ、東西で徳川家康を挟み撃ちすることにしました。これにより家康が会津征伐のため挙兵すると、正則・長政らと共にこれに従軍。
関ヶ原の戦いでは、東軍に属して岐阜城を攻撃、進んで関ヶ原に西軍と戦って功あり、加増を受けて二〇万石を領しました。
8.会津藩主として
翌慶長六年、嘉明三九歳は幕府の許可を得て勝山城を営み、松山と改めました。
家康は、江戸城修築(同一一年)や名古屋城築城(同一四-一五年)のため外様大名にその普請の手伝いをするよう命じました。
これにより加藤清正・黒田長政・福島正則・浅野幸長らと共に嘉明は、人夫を提供また自ら石材や木材の運搬を指揮。
こうして家康は、依然力を持つ目障りな豊臣恩顧の体力と財力を消耗させていきました。徳川から警戒されていた嘉明は、大坂冬の陣で福島正則・黒田長政らと共に江戸城の留守居役を命じられました。
元和五年(1619)に旧友・福島正則が改易されましたが、寛永四年(1628)嘉明六六歳は会津若松に転じて四〇万石を賜りました。
初め徳川秀忠は、東北の押さえとして会津の地は藤堂高虎を封ぜんとしました。しかし高虎は老年なので重任を全うできないと固辞して嘉明を薦めました。嘉明はこれを聴いて昔の恨みは捨てて交情を温めたそうです。
かくして会津に入った嘉明は、道路・交通の整備、蠟(ロウ)・漆・漆器の産業育成、鉱山の開発などに尽力しました。享年六九。嘉明の跡を継いだ子の明成(あきなり)は、家老の堀主水(もんど)と対立、家臣の統制のわるさ民政の悪さを上げられて、四〇万石を没収されました。
伊予松山城
加藤嘉明が築城した伊予松山城。2006年、改修工事のためネットが映らない角度でインスタントカメラ(!)で撮影。嘉明は目立たない槍働きという、ある意味異質な存在。熊本城に清正らしさを感じるように、伊予松山城の控えめで静かな佇まいが築城者の姿を投影しているようにも思えます。
加藤嘉明 相関図
加藤氏
- 父:岸三丞教明、母:川村氏
- 長男:明成。陸奥会津を返上。享年七〇
- 次男:明利。享年四三
近江(滋賀県)水口(みなくち)藩
- 孫:明友。明成長男。父のとき禄を失うも近江水口二万石となる。
- 曾孫:明英。明友長男。下野(栃木県)壬生に移される。
- 嘉矩:明英長男。水口に再び戻り二万五〇〇〇石で幕末に至る。
豊臣政権
文禄・慶長の役
晩年の主君
参考文献
- 平凡社編『日本人名大事典2』(平凡社、1979年)「加藤嘉明」119-120頁
- 岩沢愿彦「加藤嘉明」『国史大辞典 第3巻 か』(吉川弘文館、1983年)429-430頁
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 井口朝生「加藤嘉明」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)232頁
- 小和田哲男「加藤氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)221-222頁