基本データ
概要
陣容
日本軍 約20,000人
- 大将:細川忠興(5,000)、長谷川秀一(5,000)・木村重茲(しげとも,3,500)
- 加藤光泰(1,000)、加須屋真雄(さねお)、太田一吉、片桐且元、同貞隆、牧村政玄(750)、新庄直頼、小野木重次(1000)、古田重勝、青山宗勝、藤掛永勝ら(カッコは兵数(人))
朝鮮軍 3,800余人
- 大将:晋州牧使・金時敏
- 判官・成守慶(ソンスギョン)、義兵将・郭再祐、郭再祐の部下・沈大承(シムデスン)、招諭使・金誠一、固城仮県令・趙凝道(チョウンド)、晋州伏兵将・鄭惟敬(チョンユギョン)、前万戸・崔徳良(チェドクリャン)・昆陽郡守・李光岳(イグアンアク)ら
結果
日本軍撤退、朝鮮軍は城を死守。
解説
経緯
文禄元年(1592)四月、豊臣秀吉の明国制圧の野望により日本の諸将が朝鮮へ侵攻。
半月で首都ソウル(漢城)を制圧し、緒戦は日本軍優勢でした。しかし各地で義兵が起こり、義兵将郭再祐と招諭使金誠一および官軍権慄らの朝鮮連合軍が、錦山(クムサン)で全羅道に侵入した小早川隆景ら日本軍を撃退。また李舜臣率いる朝鮮水軍が日本軍に連戦撃破して制海権を掌握しました。
次第に追い詰められてゆく日本軍に対して秀吉は、晋州城(チンジュソン)を攻撃するように指示。晋州は慶尚南道から全羅道へ通じる要塞の地でした。
同年一〇月四日、釜山浦近くの金海駐屯の細川忠興・長谷川秀一・木村重茲(しげとも)は、加藤光泰・太田一吉・片桐且元・牧村政玄らと共に二万の大軍で朝鮮の要衝・晋州城を包囲。
これに対して城内には牧使・金時敏以下三千八千余の兵力しかありませんでしたが、郭再祐が義兵を率いて応援に駆け付け、招諭使・金誠一は防備の中心を担いました。
また、朝鮮の城は日本の城と違って一般の百姓も居住していましたが、金時敏は城中の老若男女に皆に男服を着せて大勢に見せました。
死闘の六日間
一〇月五日、戦闘の火蓋が切って落とされると、日本軍は兵を四方に散らして民家に放火し、また数千に及ぶ竹梯(たけはしご)や三層の楼台(ろうだい)を作って城壁を超えようとしました。
これに対し金時敏は城内三千八千人を指揮して、城の上から震天雷(しんてんらい)・蒺藜砲(しつれいほう)など火砲を放ち、大石や焼いた鉄を投げ、熱湯をかけたりしました。
また夜になると、城外の山から現れた朝鮮義兵の存在が戦いの流れを朝鮮側に有利にしました。
戦闘開始から六日目、左頬に弾丸が当たった金時敏が意識不明となりましたが代わりに昆陽(コンヤン)郡守・李光岳(イグアンアク)が勇猛に力戦し、午前九時頃になると日本軍は撤退しました。この戦いで朝鮮軍は勝利を収めましたが金時敏戦死。享年三九
この戦いは、韓国の壬辰倭乱三大捷(しょう)の一つに数えられています。また日本では後世、木曽(もくそ)判官として金時敏は近松門左衛門の浄瑠璃などで取り上げられ、最もよく知られた朝鮮人物となりました。
それまでの朝鮮・明連合軍は日本軍に対して迎撃を主としていましたが、第一次晋州城の戦いによって勢いがつき、年明けに本格的に日本軍へ攻撃を開始するのでした。
参考文献
- 笠谷和比古、黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役と関ケ原合戦』(文英堂、2000年)
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 崔官『文禄・慶長の役〔壬辰・丁酉倭乱〕文学に刻まれた戦争』(講談社、1994年)