プロフィール
明の外交家。読み方は「ちん-いけい」とも。
文禄の役において、朝鮮より援軍を要請された明は「能(よ)く倭に説く者」を公募、採用される。
惟敬は早速、小西行長が拠る平壌城に趣き、50日の停戦協定を結んだ。しかしこれは惟敬の罠で、提督・李如松率いる四万の大軍が平壌城を包囲。
行長はこれを機に和議交渉を本格化させ、明使節が来日する。来日した明使節に秀吉は「和議七ヶ条」を示すが、明皇帝に見せられる内容ではなかった。
かくして惟敬と行長は、勝手に秀吉の「降伏文書」を作成。「降伏文書」を携えて今度は行長家臣・内藤如安が北京に赴く――!
生没年不詳。
詳細
1.明軍敗退の衝撃
豊臣秀吉の明国制圧の野望により、日本の諸将に朝鮮出兵を命じ、文禄元年(1592)四月一三日、先鋒隊小西行長・宗義智が釜山に上陸。破竹の勢いで北上して僅か半月で首都ソウル(漢城)を制圧。
これに先立ち朝鮮国王の宣祖は、漢城より平壌(ピョンヤン)、更に北上して義州(イジュ)に避難しました。
これにより小西行長は黒田長政と共に同年六月一五日、無人の平壌城に入城。
しかし朝鮮朝廷も逃げているばかりではなく、同月一三日に明に援軍を要請、明は援軍を差し向けました。
かくして明将の祖承訓・史儒らが小西行長の立てこもる平壌城を攻めますが、日本軍の銃撃を浴びて敗北しました。
2.無頼者から公人
朝鮮は期待を裏切らましたが、明としても想定外の結末でした。
当時、明は北方の民族の侵攻対策により財政難。これ以上、日本軍と戦争している余裕はないので、日本軍の侵攻は和議を結んで解決しようと「能(よ)く倭に説く者」を募りました。
これに応募し採用されたのが、市井の無頼者であった沈惟敬。明の兵部尚書(大臣に当たる)石星は、沈惟敬を遊撃将軍という名目で朝鮮に送り込みました。
3.初の交渉
祖承訓敗退後の二か月半後の九月一日、沈惟敬は平壌の小西行長と初会談に挑みました。
小西行長は朝鮮出兵の理由として、明皇帝から国王として認めてもらい、朝貢を捧げて誼(よしみ)を通じるためと説。
沈惟敬は、朝鮮は明の境すなわち門庭だから日本軍は退去せよと勧告。小西行長は、平壌から退出する代わりに大同江以南を日本軍の領域とすることを主張。
沈惟敬は、朝貢については皇帝に許可を仰ぐ必要があるとして、これにより日本軍との五〇日の停戦協定が締結されました。
4.平壌の戦い
しかしこの停戦協定は沈惟敬の罠。
明は一〇月には提督・李如松を朝鮮に派遣することを決定しました。
日本軍との再決戦の準備を着々と進め、翌一月六日、ついに李如松は四万の兵を率いてついに平壌城を囲み、朝鮮軍八〇〇〇もこれに従いました。
激戦の末、李如松は平壌城を奪取。大敗した小西行長は平壌からソウルへ逃れました。こうして沈惟敬と小西行長の和議は破れたのでした。
5.幸州の戦い
この勢いに乗ったは李如松は、南下して首都ソウル(漢城)の襲撃を目指しましたが、碧蹄館で日本軍に敗北。
しかし李如松南下に呼応して全羅巡察使・権慄が南から北上、幸州山城でソウルから出陣してきた日本軍を撃退しました。
また海上では、李舜臣率いる朝鮮水軍が日本水軍に連戦連勝。これら実績を背後に朝鮮は明に対し、日本軍にあくまで徹底抗戦を主張しました。
6.秀吉の和議七ヶ条
逆に日本軍は窮地に陥っていったので、朝鮮抜きで明との和議が勝手に進められていきます。
三月一五日、小西行長と沈惟敬の会談が再び行われ、沈惟敬は加藤清正が捕らえた二王子返還と釜山までの撤退を要求。行長は明国からの和議使節の派遣と、明国軍の遼東への撤収を要求しました。
半月後、行長と加藤清正、沈惟敬の会談でこの条件で和議がまとまりました。
これに従って日本軍は明の使節・謝用梓・徐一貫を伴って四月一八日にソウルを撤退。この使節は、明皇帝から任命された正式な使節ではなく、明官人・宗応昌が仕掛けた単なる明のスパイでした。
五月一五日、明使節(汗)の謝用梓・徐一貫が肥前名護屋に到着すると、秀吉は名護屋で彼らに和議七ヶ条を示しました。
その内容は、明の皇女を日本の天皇の后にすること、勘合貿易の復活、朝鮮八道内の北部四道と漢城は返還するが南部四道(慶尚、全羅、忠清、京畿)は日本に割譲せよ、など。
明使節(汗)の謝用梓・徐一貫は、とりあえずこれを受け取り六月二九日に帰国しました。
7.如安の皇帝拝謁
沈惟敬は釜山で謝用梓・徐一貫を迎えましたが、秀吉の「和議七ヶ条」は明が飲み込める内容ではありませんでした。
そこで沈惟敬と行長は、明皇帝に誼(よしみ)を通じる文書・納款表(のうかんひょう)作成。
更に行長家臣・内藤如安(じょあん)を日本の使節に仕立てました。如安は納款表を携え、沈惟敬に率いられて、文禄二年七月八日ソウル、平壌を経由して九月初旬に遼東に到着しました。
ここには宗応昌がいて、和議の実現には秀吉の降伏文書である「関白降表(こうひょう)」が必要であると言いました。これを受けて沈惟敬は行長のいる慶尚道・熊川まで引き返し、今度は行長と降伏文書を作成。
内容は明皇帝の赤子になろうとする思いを朝鮮を通じて伝えようとしたが、朝鮮に邪魔をされたので出兵した、日本は朝鮮の領土を返還する、といったものでした。
秀吉は知るよしもない降伏文書を携え沈惟敬は遼東に戻り、文禄三年(1594)一二月七日、ようやっと如安は北京に到着。その七日後に明皇帝に拝謁、恭順を誓いました。
8.惟敬来日
明朝廷は降伏文書が偽造であるとは露とも思わず、明皇帝によって秀吉を日本国王として冊封するため使節を派遣することを決定。
文禄四年一月末、冊封使正使・李宗城、副使・楊方亨一行は北京を出発しました。
しかしソウルから釜山に至った時、「秀吉に撤退する意思はなく、冊封使節は日本で拘留されるだろう」との噂が飛び交っていた為、恐れをなした正使・李宗城は逃亡。
これにより、明冊封使節の正使に楊方亨、副使に沈惟敬が任命されることとなり、彼らは慶長元年九月一日、大坂城で秀吉に拝謁しました。
9.日本国王・秀吉
翌日、明冊封使節歓迎の宴が開かれ、徳川家康・前田利家も出席。
秀吉は明皇帝が贈った王冠と赤の官服を身に着け、腹心の五山僧・西笑承兌に明皇帝からの国書を読ませました。しかし、
「ここに特に爾(なんじ)を封じて日本国王となす」
という文言に秀吉は激怒。日本国王を大明皇帝を読み替えてほしいと、小西行長は予め承兌に頼みましたが、承兌はそのまんま読み上げました。
おまけに秀吉が提示した和議七ヶ条については何も触れられていません。ここに日本と明との和議交渉は決裂。日本軍再出兵を決定しました。
10.最期
小西行長は首を斬られそうになり、何とか首は繋がったものの、再出兵の際も第一軍として朝鮮に渡海することを命じられました。
沈惟敬は帰国しましたが、全てが公けになって彼もまた苦しい立場にありました。しかし石星の助けで再び朝鮮に赴き、日本との交渉を図りますが失敗。
日本軍へ投じようと慶尚道・宜寧(ウィリョン)に来た時、明将・楊元に捕らえられて処刑されました。
柳成龍は『懲毖録』の中で沈惟敬は「講和を名としていたので、わが国から喜ばれなかった。」としながらも「沈惟敬は遊説の士である。平壌の戦いの後、二度も陣中に入ったが、これは他の人々にはでき難いところであった。」と。
また「行長は最も惟敬を信頼していた。彼はソウルにいた時、惟敬はひそかに語った。「おまえたちがいつまでも滞留して退かなけば、明の朝廷はさらに大兵を発するだろう。」」と。
こうして行長は城(ソウル)から出たのでした。
沈惟敬 相関図
明国
朝鮮国
日本
参考文献
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 北島万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆』(岩波書店、2012年)
- 上垣外憲一『文禄・慶長の役―空虚なる御陣』(講談社、2002年)
- 柳成竜 著・朴鐘鳴 翻訳『懲毖録』(平凡社、1979年)