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戦国武将解説

赤松広通(あかまつ-ひろみち)名門家の歴史と共に散った天空の竹田城主

目次

プロフィール

詳細:1.赤松氏の歴史 2.藤原惺窩を招く

3.人物像 4.姜沆出国へ尽力 5.最期

相関図関連記事参考文献

プロフィール

赤松広通
Akamatsu Hiromichi

播磨赤松氏の子孫。斎村広秀、広英とも称す。左兵衛尉。

但馬(兵庫県北部)竹田城主。文禄元年、秀吉による朝鮮出兵には八〇〇の兵を率いて渡海。翌年、儒者の藤原惺窩を招き寄せる。

好学の広通は、朝鮮再出兵の際に捕虜となった儒者の姜沆との交流を深める一方、惺窩と共に姜沆の帰国を助けた。

姜沆帰国後、間もなく関ヶ原の戦いが起こると西軍に属し、名門赤松氏の歴史に終止符を打つこととなる――

享年33または38(1563?-1600)。

惺窩・姜沆とは年が近く、同年代に万暦帝細川忠興加藤嘉明など。

詳細

1.赤松氏の歴史

鎌倉時代 室町初期 応仁の乱 戦国時代
宇野則景-1.赤松家範-2.久範-3.茂規- 4.則村-5.則祐-6.義則- 7.義雅-8.性存- 9.政則-10.義村- 11.晴政-12.義祐-13.則房
満祐-教康 村秀-政秀-広通
※嫡流に対しは庶流、太字は下記解説の人物

赤松氏は中世播磨(兵庫県南西部)の豪族。村上源氏の流れで鎌倉時代初期建久二年(1191)則景に始まりました。この頃は宇野もしくは山田を称し、赤松を名乗るようになったのは則景の子・家範からのようです。

鎌倉幕府討滅後、家範の曾孫にあたる則村は、足利尊氏に属し播磨守護に任じられ、のちに備前・美作(岡山県)の守護を兼ね、足利方の有力な守護大名となり四職(ししき)家の一つとして勢力を拡大しました。

しかし嘉吉元年(1441)義則の子・満祐が将軍足利義教を殺し、山名・細川氏らの軍勢に追討され没落。一族の政則が再興し、再び播磨・備前・美作三国の守護になりました。しかし大永元年(1521)に政則の養子・義村が老臣浦上村宗に殺害され以後衰退して、姫路の北方・置塩城に在りました。

義村の曾孫則房が、豊臣秀吉豊臣秀吉に仕え阿波国(徳島県)板野郡内で一万石与えられましたが、則房に後嗣がなく嫡流は絶えました。

2.藤原惺窩を招く

文禄年間 近畿諸大名配置図
図1:文禄年間 諸大名配置図_近畿地方周辺
赤松広通は但馬竹田城主

広通は、赤松氏庶流・政秀の子。父の後を継ぎ播磨竜野城主となりました。天正三年(1557)織田信長織田信長の命で、但馬(兵庫県北部)竹田城主となりました。

文禄元年(1592)秀吉による朝鮮出兵が始まると、広通三〇歳は八〇〇の兵を率いて渡海しました。

一方、藤原定家の子孫で、のちに近世日本儒学の祖と呼ばれた藤原惺窩藤原惺窩は播磨の人。七、八歳の頃に仏門に入り、京の相国寺で禅学と漢学と学んでいました。

文禄同ニ年、惺窩三四歳は、広通の招きに応じて故郷の播磨に帰りました。広通は惺窩の学問に敬服して援助。惺窩は、儒学を直接学ぶため明に渡航しようとしたが天候に恵まれず失敗しました。

3.人物像

慶長の役地日本軍進路
図2:慶長の役 日本軍進路図
姜沆は南原の戦い後に捕虜となる。

慶長二年(1597)朝鮮再出兵となり、姜沆(カンハン)三一歳は、全羅道南原で文官として日本軍迎撃に備えていました。しかし南原城が落されると、藤堂高虎藤堂高虎の軍に日本に連行されて、伏見に抑留されました。

姜沆は「倭京に連れて来られてからというもの、倭国の内情を知ろうと思って」惺窩と広通らと接しました。

以下、姜沆が記した『看羊録(かんようろく)』から広通の人物像をご紹介したいと思います。

広通は「六経に非常に打ち込み、雨風(の日も)馬上でも本を手から放したことがなかったが、その性質が鈍魯(どんろ)で仮名訳がなければ一行も読めなかった、ということである。」

また惺窩は広通のことを姜沆に次のように話しました。「日本の将官は、全てこれ盗賊であるが、ただ広通だけは、人間らしい心を持っています。日本にはもともと喪礼がありませんが、広通のみは三年の喪を行い、唐の制度や朝鮮の礼を篤く好み、衣服や飲食などの些細なところまで必ず唐と朝鮮を見習おうとしています。日本にいるのではありますが日本人ではない(と思える程))なのです。」

「(そして)とうとう(惺窩は)私のことを広通に話した。広通は、時々私のもとへやって来て話を交わしたが、自分は(加藤)加藤清正清正や(藤堂)佐渡(守高虎)と仲違いをしているので、(互いに知り合っていることを)決して佐渡の家に知られてはいけないのだ、ということであった」

4.姜沆出国へ尽力

また広通は「わが国の士分の俘虜や私の兄弟に六経の大分を書いてほしいと頼み、(その代価として)密かに銀銭で私たちの羇旅(きりょ)の費用を補い、帰国の準備にあててくれた。」

姜沆は高虎から釈放されることになりましたが出国の際、「不測の事態に出会うかと気がかりで、舜首座(惺窩)と広通に会いに行き、出国に力を貸してくれるよう頼んだ。広通は、寺沢志摩守(正成)に手書(証明書)を求め、関市の検察に備えてくれ、舜首座はそれに船頭一人を加え、水路を案内させて対馬についたら帰すように、と手配をしてくれた。」

かくして姜沆は、慶長五年五月十九日、釜山(プサン)に着き無事に家族と共に帰国、二年半年に及ぶ抑留生活に幕を閉じました。

5.最期

それから数ヶ月後の同年九月に関ヶ原の戦いが起こりました。広通は初め西軍に応じ丹後田辺城の細川藤孝(幽斎)細川幽斎を攻め、のちに亀井茲矩(これのり)に誘われ東軍に与し、共に因幡鳥取の宮部長房を攻めました。しかし戦後許しを得ずに同年一〇月に鳥取で自害。鎌倉時代からの名門赤松氏はここにたえました。

惺窩の悲しみは深く、家康に召仕を受けましたが、これを固辞し代わりに弟子の林羅山を推薦しました。姜沆もまた帰国後、国王・宣祖より召仕を受けましたが、これを固辞して故郷で後進の指導にあたりました。

赤松広通 相関図

交遊関係

師:藤原惺窩藤原惺窩/朝鮮儒者:姜沆(カンハン)

苦手

加藤清正加藤清正藤堂高虎藤堂高虎

関ヶ原の戦い緒戦 敵方

細川藤孝(幽斎)細川幽斎徳川家康徳川家康

  

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赤松広通イラスト

参考文献

国史大辞典編集委員会 『国史大辞典 第1巻 あーい 』(吉川弘文館、1979年)

姜沆(著), 朴 鐘鳴 (翻訳) 『看羊録―朝鮮儒者の日本抑留記 (東洋文庫 440) 』(平凡社、1984年)

永原慶二編『日本歴史大事典 (1) 』(小学館、2000年)参照