目次
プロフィール/詳細:1.毛利両川withテル 2.織田水軍との死闘
3.本能寺の変 4.文禄の役 5.慶長の役 6.西軍を裏切る一門たち
プロフィール
中国地方一帯を治める戦国大名。毛利元就の孫。幼名 幸鶴丸(こうづるまる)。
自分は控えに回って一門の武将を輝かせる、名プロデューサー。
叔父の吉川元春・小早川隆景(毛利両川)withテルで中国筋に威勢を及ぼし、織田信長水軍に挑む。
本能寺の変後、羽柴秀吉の天下取りに貢献。両叔父死後、毛利秀元withテルが誕生。慶長の役で輝元は壱岐まで出陣、いとこ秀元は日本右軍総帥として活躍。
関ヶ原の戦いで敗れて、安芸広島から長門(山口県)萩に移る。反抗的な者もいる中で藩政を仕切る、輝元最後の戦いが始まる――
詳細
1.毛利両川withテル
輝元は天文二二年(1553)正月、毛利元就の長男隆元の長男として生まれ、三歳の時に元就VS陶晴賢の厳島の戦いがありました。
永禄六年に父隆元が急死して、一一歳で家督を相続。元就の後見を受け、元服し第一三代将軍足利義輝の一字を拝領して輝元と名乗りました。
一九歳の時に元就も他界。輝元は毛利両川と呼ばれる叔父の吉川元春・小早川隆景の助けられて、中国筋に威勢を及ぼしました。
2.織田水軍との死闘
中央では、永禄一一年(1568)織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たしました。
しかし二人の関係が次第に悪化。天正四年(1576)二月、信長に追われた義昭を迎えた輝元は、石山本願寺と結んで信長との対決を決意。
村上水軍(能島・因島)を味方につけた毛利水軍は同年七月、織田水軍を破って石山城に兵糧を運び入れることに成功しました(第一次木津川口海戦)。
しかし二年後、信長方の九鬼嘉隆率いる甲鉄軍艦六隻を中心にした水軍が、本願寺を守る毛利水軍を攻めると無敵の毛利水軍は敗れました(第二次木津川口海戦)。
3.本能寺の変
天正一〇年(1582)輝元三〇歳の時、信長の一介の武将である羽柴秀吉が備中高松城を囲むと、輝元は両叔父と共にこれを救って、秀吉と決戦しようとしたところ、本能寺の変がありました。
両軍は和議を講じ、これより毛利一族は秀吉に従うことになり、豊臣政権下において輝元は徳川家康や前田利家などと共に重きをなし、また秀吉より羽柴氏を許されました。
これに先立って叔父の元春が、秀吉の九州征伐の陣中で五七歳の生涯を閉じました。
天正一七年(1589)輝元三七歳の時、居城を安芸吉田郡山から広島に移転。広島という地名は輝元が命名しました。
4.文禄の役
豊臣秀吉の命により文禄元年(1592)四月一三日、日本軍は朝鮮へ侵攻。毛利一族の動員数は大名家の中で最も多く主力をなしました。
輝元四〇歳は隆景と共に渡海。第七軍の輝元の担当区域は、朝鮮南東の慶尚道(キョンサンド)。
第七軍の任務はもっぱら、日本全軍の出発点である釜山(プサン)日本本営に留まり、ここを守備することです。実際輝元は、朝鮮での主たる戦闘に一切加わっていません。
一方、第六軍の隆景は、立花宗茂と共にソウルの北方の碧蹄館で提督・李如松率いる明軍を撃破。輝元は隆景より先に文禄二年の秋に帰国。
文禄四年(1595)に輝元と隆景は五大老に就任しましたが、隆景は二年後に病死しました(享年六五)。
5.慶長の役
輝元は両叔父を失いましたが、一門には期待の新人がいました。その名は毛利秀元。秀元の父は元就の四男で輝元のいとこにあたります。
輝元に子がなかったため、秀元は輝元の養子となりましたが、文禄四年(1595)に秀就(ひでなり)が生まれると別家して独立しました。
一時停戦時を経て慶長二年(1597)二月、秀吉が朝鮮再出兵の陣立てを定め、再び日本軍が朝鮮へ侵攻。輝元四五歳は壱岐まで出陣。
一九歳の秀元は、宇喜多秀家と共に全軍の総帥となって、明・朝鮮軍の攻撃から加藤清正・黒田長政らを救うという大活躍をしました。
6.西軍を裏切る一門たち
秀吉が死去すると、家康が天下を取ろうと動き出します。家康と親しかった輝元は、家康に加担するつもりでした。
しかし家康の天下取りを許さない石田三成に説得され、輝元は西軍の総大将として大坂城西の丸に籠りました。
これにより一族でいとこの秀元・吉川広家および隆景養子の小早川秀秋も西軍に組し関ヶ原へ出陣。三成は輝元に出馬を促しましたが、その密書は途中敵の手中に落ちて大坂に達しませんでした。
現地本戦。秀元と共に南宮山にあった広家は家康に内応していたため、南宮山の毛利本隊を動かさず、秀秋においては戦闘中に家康に寝返って東軍・家康方の勝利に大きく貢献しました。
これにより改易は免れたものの、毛利の七か国一二〇万石は周防・長門(いずれも山口県)三七万石へと減封されました。
7.最後の試練
慶長五年(1600)一一月、輝元は剃髪して宗瑞また幻庵と称し、隠居して家督を子の秀就(ひでなり)に譲り、秀就が初代長州藩主となりました。
しかし秀就はまだ六歳だったため、輝元が藩政を執行、長門萩に新城を築いて移りました。秀元は三万六千石を分与され初代長府(ちょうふ)藩となり、長門城にいて宗家秀就を後見。
輝元は知行が小さくなり反抗態度をとる者もいる中、一族家臣を慎重にまとめあげ、幕府との関係にも心を砕き、大坂冬の陣に病をおして出陣。萩城内で七三歳の生涯を閉じました。
8.人物像
慶長の役で日本に抑留された姜沆の『看羊録』には、輝元の人物像についてこう記しています。
「倭のうちでは、いくらか慎み深い。性質はとてもゆったりと大らかで、わが国人の気性によく似ている、という」
「輝元が宇喜多秀家と共に秀吉の命令におさえられて、やむえずわが国の人の鼻を削いだときも、いくらかのあわれみの気持ちがあった、という」
輝元は存外、名将なのではないでしょうか。而して与(あず)からず(政治に自分では手を下さなかった:論語泰伯)。元春・隆景や秀元における一門の功績も、当主輝元が活躍の場を与えたともいえます。
毛利輝元 相関図
毛利氏
宗家
- 祖父:元就
- 父:隆元
- 子:長男 秀就(ひでなり)・次男 就隆(なりたか)