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戦国人物解説

鍋島直茂(なべしま-なおしげ)朝鮮出兵から有田焼、葉隠誕生まで

目次

序文プロフィール詳細:1.当主の戦死 2.藩政掌握

3.朝鮮出兵 前夜 4.清正軍に属す 5.咸鏡道支配

6.義兵との戦い 7.沙也可との戦い 8.蔚山の戦い

9.関ヶ原の戦い 10.龍造寺氏断絶 11.猫化け騒動

12.特異な文化発展多久聖廟相関図参考文献関連記事

序文

古来より米どころとして栄え、汐がひいて「ガタ」と化した有明海の泥土には、「ムツゴロウ」が泥んことなって飛びまわる。…「田舎作法の古き家」であることを誇りとする泥くさい個性的な藩政を展開する。藤野保『佐賀藩

プロフィール

鍋島直茂
Naoshige Nabeshima

佐賀藩祖。幼名は彦法師丸。

マッチョを支えるのが得意な、元祖葉隠

肥前の大名・龍造寺隆信家臣だったが、隆信が戦死。龍造寺一門・重臣から領国政治の委任を受ける。

かくして一風変わった組織体制で、秀吉朝鮮出兵に突入。且また佐賀に日本本営の名護屋城が出現。直茂は第二軍として清正と共に渡海し、朝鮮最北・咸鏡道を制圧したが義兵抗争が激化、苦しい戦いを強いられた。

慶長の役は子の勝茂と共に渡海、蔚山の戦いでも清正に助力。帰国後は隆信の孫・高房の存在が重くのしかかる――!

享年81(1538-1618)。同い年は前田利家本多正信北条氏政金誠一

詳細

1.当主の戦死

 

鍋島直茂直茂は、肥前(佐賀県、一部長崎県)の大名・龍造寺隆信龍造寺隆信(1529-84)より九歳下の家臣。

直茂は清房の次男。直茂の母・華渓(かけい)は、隆信祖父(家純)の娘。弘治二年(1556)夫を亡くした隆信の母が、妻・華渓を失った清房に再嫁したため、隆信と直茂は義兄弟となりました。然しながら鍋島氏の出自は不明な点多く、家老でもありませんでした。

今山合戦

肥前は、少弐(しょうに)-大友、大内毛利-龍造寺の両極対立が基軸にありました。元亀元年(1570)、大友・龍造寺との全面対決となり、肥前の諸将はほとんど大友方、戦況は龍造寺方に不利な展開に。しかし八月一九日、直茂三三歳が大友軍の今山(佐賀県大和町)の陣を急襲・奇襲したことで大勝しました。

肥前制覇を挫かれた大友氏は、天正六年(1578)一一月、日向(宮崎県)耳川の合戦で島津義久に大敗し、勢力が大きく後退。隆信は大友領に進出し、五州(肥前・筑後・肥後・筑前・豊前)の太守と呼ばれました。

沖田畷の戦い

同一二年(1584)島津義久は、龍造寺氏に圧迫された肥前高来郡の有馬氏救援のため軍を派遣。このため龍造寺・島津両軍の戦闘が肥前島原に起こりました。龍造寺方二万五〇〇〇に対し敵方六〇〇〇。

隆信五六歳は、直茂四七歳の献策・戦術を無視。自らの中央突破を試みたところを、有馬・島津連合軍に一斉攻撃をうけて沖田畷(おきたなわて:長崎県島原市)において隆信が戦死。有馬氏は高米・藤津に進出し、龍造寺勢力は後退しました。

2.藩政掌握

文禄年間 九州諸大名配置図
図1:文禄年間 九州諸大名配置図

九州制覇を目指す島津氏は同一四年、大友方の筑前(福岡県北西部)立花山城を攻撃するも、立花宗茂立花宗茂は最後まで抵抗。大友氏本拠・豊後(大分県)進撃のため、島津義弘島津義弘は肥後境から、義久は日向境に突入。既に大友氏が豊臣秀吉秀吉に救援を求めていたためです。

天正一五年(1587)龍造寺隆信の子・政家二二歳は、豊臣秀吉の島津討伐の先陣として参加し肥前七郡、直茂は基肄(きい)・養父(やぶ)二郡が与えられました。しかし政家は病身で、且つ嫡子高房は幼少であるため、成人までのあいだ国政を直茂にあずけることにしました。

こうして家督と支配が分離したまま朝鮮出兵を迎えますが、秀吉から軍役賦課が直茂に直接命じられたことにより、佐賀藩政上における直茂の地位はいっそう強化されました。

3.朝鮮出兵 前夜

同一九年(1591)八月、秀吉は加藤清正加藤清正らに名護屋築城を命令。かくして佐賀に巨大城郭群・大都市が出現しました。

同年秋、諸国の商人が領内端々までかなり入り込み、煙硝(火薬)を買い取りに来ていました。それを聞きつけた領内商人の平吉平兵衛が、密かに彼らに事情を聴きました。すると明年太閤殿下の高麗御陣によって、諸国の大名が煙硝を望まれ探していた、とのとこ。

早速、平兵衛が鍋島平五郎茂里(直茂養子)に報告。茂里は「神妙の至りに思召され」て、平兵衛に力の限り煙硝を調えるよう命じました。しかし平兵衛一人では遅々と進まず…。

平兵衛は茂里に他の町人頭などの協力を申し上げて、煙硝七六〇〇を調達。これを鍋島家が購入し、明年高麗御陣(朝鮮出兵)に出発した直茂を平兵衛は大変慶ばせました。「鍋島直茂譜孝補_文献4」

4.清正軍に属す

朝鮮全土_文禄の役緒戦
図2:文禄の役 日本軍進路
第二軍の直茂は清正と行動を共にした。

文禄元年(1592)四月一三日、秀吉の国制圧の野望により日本軍朝鮮へ出兵

第一軍の小西行長小西行長宗義智宗義智が釜山(プサン)に上陸すると破竹の勢いで北上。

朝鮮軍はこれら日本軍を制止できず、国王・宣祖柳成龍らを従えソウルを脱出して平壌(ピョンヤン)へ避難しました。

加藤清正三一歳の第二軍に配属された直茂五五歳。鍋島軍一万二〇〇〇は、龍造寺一門・鍋島一門のほか譜代・外様衆によって構成。則ち高房に対する軍役奉仕が否定され、龍造寺家臣団とともに鍋島氏の軍役体系のなかに包摂されました。

第二軍は朝鮮第一の大寺・仏国寺の伽藍を焼き払って、五月三日に第一軍の行長・義智と共にソウルへ入りました。

ソウル制圧から二か月後の七月半ば、清正・直茂は咸鏡道を制圧。咸鏡道・会寧(フェリヨン)で朝鮮二王子臨海君(イムヘグンソン)・順和君(スンファグンジク)も捕らえました。従軍僧の佐賀泰長院・是琢(ぜたく)は、二王子の世話をし、また外交文書の作成にあたりました。

5.咸鏡道支配

清正の咸鏡道支配
図3:清正・直茂の咸鏡道支配

同年七月末から八月末にかけて清正は、明への道を探る為にオランカイ(中国東北部)に入りました。

清正はオランカイや咸鏡道北部一体を支配するつもりでしたが、地質が悪く物資も乏しいため、諦めて咸鏡道南部支配に徹することにします。

清正は安辺(アンビョン)に、直茂は咸興(ハムフン)に本陣を置き、それより北は清正軍に寝返った在地の士官に在番させることにしました。

それにしても清正・直茂の咸鏡道支配は年貢の取り立ては厳しく、おまけに咸鏡道の日本軍は城の外で略奪を重ねていました。

6.義兵との戦い

朝鮮全土に目を向けると、慶尚道で郭再祐率いる最初の義兵が立ち上がり、各地で義兵活動が活発化。

咸鏡道北部・鏡城(キョンソン)では、鄭文孚(チョン・ムンブ)が義兵を挙げて鏡城を奪還。会寧でも義兵が立ち上がり、直茂本陣・咸興でも義兵抗争が展開されました。同年一〇月には、鄭文孚の義兵は清正支配の最北・吉州(キルジュ)城を包囲。

直ちに救援に向かいたい清正でしたが、安辺の清正本陣には朝鮮二王子がいて下手に動けず、吉州に多くの兵を割くほどのゆとりもありません。吉州の日本軍は籠城することとなり、清正が救出するまで翌年の一月まで続き、こうして清正と直茂の半年に渡る咸鏡道支配は失敗に終わったのでした。

なお、文禄の役での鍋島軍の行動は、茂里配下にあった田尻鑑種(たねあき)の『高麗日記』に詳しいです。

7.降倭・沙也可との戦い

慶長の役地図
図4:慶長の役 日本軍進路図_右軍

慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、これにより直茂六〇歳は子の勝茂一八歳と共に第四軍として再出兵しました。

同年一一月、直茂ら日本軍約一万が慶尚南道雲峰から咸陽を経て山陰・三嘉に南下。

この報を受けて、前慶尚右兵使・金応瑞(キム・ウンソ)は、朝鮮兵を降倭を分道して進軍。直茂ら日本軍が宜寧から鼎津を渡ろうとした時、明軍も到着し日本軍を襲撃。

日本軍は一時敗退しましたが、逆襲したため多くの降倭含む朝鮮軍と明軍が戦死。しかし朝鮮・明軍は日本軍の首を七〇余級ほど取りました。

この時に降倭の中で最も活躍した者に、元清正軍の先鋒将だった降倭・沙也可(金忠善)がいて、沙也可は他の降倭と共に朝鮮人捕虜一〇〇名ほどを奪回しました。

8.蔚山の戦い

倭城分布図_慶尚道南東海岸
図5:倭城分布図_慶尚道南東海岸

同年一二月二三日、明の経略楊鎬・麻貴率いる明軍と権慄率いる朝鮮軍併せて六万の連合軍が蔚山倭城を包囲

城内の清正・浅野幸長浅野幸長以下日本軍二千余は飢えと寒さに苦しみ、日数が増えるごとに投降する日本兵も続出。

楊鎬は沙也可を使者として送り和議を持ちかけ、清正はその和議に乗ろうとしました。しかし、年明け正月二日に毛利秀元毛利秀元黒田長政黒田長政・直茂ら一万三千の救援軍が駆け付け、明・朝鮮軍の背後をつき囲みを解かせました。

しかし蔚山の戦いは朝鮮在陣の日本軍に衝撃を与え、これを境に一気に戦線縮小・撤退案に傾き、同年(慶長三年)八月には秀吉が死去しました。

9.関ヶ原の戦い

帰国後の慶長五年(1600)九月、関ヶ原の戦いで鍋島氏は西軍に味方したため未曾有の危機に遭遇。

当時、大坂にあった勝茂二一歳は石田三成石田三成に組し、伏見城および安濃津(あのつ)城(伊勢)攻撃に参加しました。伊勢在陣中、西軍敗報を聞いた勝茂は、井伊直政井伊直政・黒田長政らを頼って徳川家康徳川家康に謝罪。結局、西軍に応じた筑後柳川の立花宗茂を攻撃することで許され帰国。

勝茂は直茂六三歳とともに柳川城を攻撃。黒田官兵衛黒田官兵衛・清正の協力をえて、一〇月二二日、宗茂に開城せしめ、本領を維持することに成功しました。鍋島氏の徳川政権の負い目はここに由来します。

10.龍造寺氏断絶

家康は、高房を従五位下・駿河守に任じ、江戸において徳川秀忠秀忠に仕えさせました。一方、国元にある鍋島氏にとって龍造寺家の家督を維持する高房の存在は、かなりの財政支出を余儀なくされました。徳川政権下の高房は、佐賀藩の支配の実態から遊離した、秀忠に仕える近習の一人に過ぎませんでした。

慶長一二年(1607)三月三日、自身の行く末を案じてのことか、高房は江戸屋敷において夫人を刺殺したうえ自殺を図りました。疵(きず)は一時癒えましたが再発して、高房の死を知った政家も、一ヵ月もたたない十月二日に死去。ここに龍造寺氏は断絶しました。

11.猫化け騒動

公儀権力(幕府)は、既に定着した家督(龍造寺)と支配権(鍋島氏)の分離を追認。同年、徳川政権のもとで、直茂の嫡子勝茂二八歳が龍造寺の家督を相続することで決着。高齢の直茂は佐賀藩政を後見しました。享年八一。

この政権交代劇は、龍造寺氏の立場から「猫化け騒動」として嘉永六年(1853)九月、江戸で歌舞伎狂言を上演しようとしましたが、佐賀藩から厳重な抗議をうけ、即座に中止となりました。

12.特異な文化発展

秀吉の朝鮮出兵は「やきもの戦争」といわれ、九州の諸大名たちは多くの朝鮮の陶工を日本に連行してきました。佐賀藩へ連行された李参平(イサムピョン)は、有田泉山(いずみやま)で磁器を発見し、わが国で初めての磁器制作に成功。元和二年(1616)のころと伝えられます。

勝茂は明暦三年七八歳で没し、二代目光茂は元禄四年(1691)、佐賀城二の丸に孔子を祀る「聖堂」を建てました。龍造寺系の多久領主・茂文も聖廟を建てました。然しながら光茂の身辺は古今伝授をうけたり、華美に流れた生活や子どもが四一人を数える状態。この光茂に対する批判が『葉隠』となってあらわれます。

儒教と異なり「死ぬ事」を武士の生き方の基本とした『葉隠』は、享保元(1716)に完成した歴史物語。物語ったのは光茂側近・山本常朝(じょうちょう)。「その理想的な姿を戦国大名であった直茂・勝茂父子に求めたことは筋違い[文献2]」なのでした。

多久聖廟

多久聖廟(たく-せい‐びょう)では創建以来、毎年春秋二回(毎年四月一〇日、一〇月一八日)、釈菜(せきさい)を執行。日本で今に遺る聖堂において唯一の実績と伝統を誇る。

釈菜(せきさい)は、孔子とその弟子を祀る行事。多久聖廟では棗(なつめ)・栗・鮒(雉肉)・筍・芹・飯・餅・甘酒をそなえる。

市職員扮する伶人(れいじん:音楽を奏する人)の雅楽演奏のなかで、市長(献官)をはじめ市議会議長・教育長・小中学校長などの祭管が孔子・顔子・曾子・子思子(ししし:孔子の孫)・孟子の順に供え物をささげる。

式の最後には各地から寄せられた漢詩を献じ、儀式はすべて中国語に漢語で進められ、中国から孔子の子孫も参加する。

鍋島直茂 相関図

鍋島氏

  • 祖父:清久
  • 父:清房、母:華渓(龍造寺家純の娘)
  • 長男:勝茂(享年七八)、次男:忠茂(享年四一)

佐賀藩

  1. 勝茂:直茂長男。佐賀藩初代、三五万七〇〇〇
  2. 光茂:祖父勝茂の跡を継ぐ。以降同藩、幕末に至る。

主家・龍造寺氏

  • 宗家:家和-胤久=隆信-政家-高房-伯庵
  • 庶流:家純-周家(ちかいえ)-隆信(宗家を相続)
  • 多久氏:周家-長信(隆信弟)-安順(やすしげ:多久に改姓)

九州のライバル

豊臣政権

文禄・慶長の役

参考文献

  1. 藤野保『佐賀藩(日本歴史叢書)』(吉川弘文館、2010年)「序章 佐賀の風土と歴史」1-6頁、「第一章 二節1 龍造寺領国の形成過程」20-29頁「同節2 鍋島佐賀藩の成立」44-49頁
  2. 杉谷昭・宮島敬一・神山恒雄・佐田茂『佐賀県の歴史(県史14)』(山川出版社、2013年)「5章1節 戦国期のはじまりと龍造寺の時代」132-153頁、「6章3節 法制の整備と『葉隠』」174-176頁、「7章3節 唐津焼と有田焼」198-200頁、「コラム 多久聖廟と釈菜」197頁
  3. 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
  4. 「鍋島直茂譜孝補」(太閤殿下朝鮮攻之起)_北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)144頁
  5. 笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役と関ケ原合戦』(文英堂、2000年)
  6. 上垣外憲一『文禄・慶長の役-空虚なる御陣』(講談社、2002年)
  7. 岩井護「鍋島直茂」『天下取り採点 戦国武将205人』(新人物往来社、1998年)244-245頁
  8. 小和田哲男「鍋島氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)475頁

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