戦国サプリメント

戦国未満

  1. HOME
  2. 戦国武将一覧

戦国武将解説

鍋島直茂(なべしま-なおしげ)

プロフィール

鍋島直茂
Naoshige Nabeshima

佐賀藩の祖。文禄の役 第二軍・加藤清正の相方。幼名は彦法師丸。

肥前の大名・龍造寺隆信の家臣だったが、島津氏との戦いで隆信が戦死したこともあって、最終的に龍造寺氏を相続して佐賀藩の礎を築いた。

文禄の役では、第二軍として加藤清正と共に朝鮮最北・咸鏡道を制圧。この地を清正と切磋琢磨で支配していたが、義兵抗争が激化すると統治不能となり撤退。

慶長の役では、慶尚南道で朝鮮・明連合軍の襲撃にあい、その中には清正の元先鋒将である降倭・沙也可がいた――

享年81(生1538-没1618)。主君・龍造寺隆信より9歳下。

加藤清正より24歳年上。豊臣秀吉より1歳年下。同い年は北条氏政

詳細

1.主君のまさかの戦死

 

鍋島直茂直茂は、肥前(佐賀・長崎県)の大名・龍造寺隆信龍造寺隆信の家臣。隆信の母が直茂の父・清房に再嫁した為、隆信と直茂は義兄弟でもあります。

九州の戦国時代は、龍造寺・大友・島津が三家が覇権を争っていました。大友氏との戦いで直茂は、夜襲をしかけて勝利。しかし島津氏との戦いには大敗し、当主・隆信はなんと戦死してしまいました。

その結果、四七歳の直茂は隆信の息子・政家を補佐し、龍造寺氏の一門・重臣から領国政治の委任を受けることになりました。

2.家督でもないのに佐賀藩を支配?

文禄年間 九州諸大名配置図
図1:文禄年間 九州諸大名配置図

豊臣秀吉秀吉が九州平定のため島津を攻めに乗り出すと、直茂は秀吉と手を組み、島津討伐(島津義弘島津義弘 )に踏み切りました。

その先見の明で龍造寺家は秀吉の島津討伐後、なんとか安泰できました。

直茂に於いては、秀吉から肥前神先郡に領地を与えられ、政家の子・高房に代わって佐賀藩政を一手に掌握することになりました。

こうして佐賀藩において家督と支配が分離したまま、秀吉の命で直茂は龍造寺氏と共に朝鮮のいくさにも参戦しました。

3.文禄の役-加藤清正の第二軍に配属

朝鮮全土_文禄の役緒戦
図2:文禄の役 日本軍進路
第二軍の直茂は清正と行動を共にした。

文禄元年(1592)四月十三日、秀吉の命により日本軍が朝鮮へ出兵

第一軍の小西行長小西行長宗義智宗義智が釜山(プサン)に上陸すると破竹の勢いで北上。

朝鮮軍はこれら日本軍を制止できず、国王・宣祖柳成龍らを従えソウルを脱出して平壌(ピョンヤン)へ避難しました。

加藤清正加藤清正(三一歳)の第二軍に配属された直茂(五五歳)。第二軍は朝鮮第一の大寺・仏国寺の伽藍を焼き払って、五月三日に第一軍の小西行長・宗義智と共にソウルへ入りました。

4.朝鮮二王子を捕らえる

日本軍はソウルから北上して臨津江と開城も制圧すると、第一軍の小西行長・宗義智と第三軍の黒田長政黒田長政は平壌を目指して西北に兵を進め、第二軍の清正・直茂は咸鏡道(ハムギョンド)を目指して東北に兵を進めました。

ソウル制圧から二か月後の七月半ば、清正・直茂は咸鏡道を制圧。

咸鏡道・会寧(フェリヨン)で朝鮮二王子臨海君(イムヘグンソン)・順和君(スンファグンジク)も捕らえました。

5.咸鏡道支配

清正の咸鏡道支配
図3:清正・直茂の咸鏡道支配

同年七月末から八月末にかけて清正は、明への道を探る為にオランカイ(中国東北部)に入りました。

清正はオランカイや咸鏡道北部一体を支配するつもりでしたが、地質が悪く物資も乏しいため、諦めて咸鏡道南部支配に徹することにします。

清正は安辺(アンビョン)に、直茂は咸興(ハムフン)に本陣を置き、それより北は清正軍に寝返った在地の士官に在番させることにしました。

それにしても清正・直茂の咸鏡道支配は年貢の取り立ては厳しく、おまけに咸鏡道の日本軍は城の外で略奪を重ねていました。

6.義兵、立ち上がる

朝鮮全土に目を向けると、慶尚道で郭再祐率いる最初の義兵が立ち上がったのを皮切りに、各地で義兵活動が活発化。

清正・直茂の圧政に苦しむ咸鏡道も例外ではなく、鄭文孚(チョン・ムンブ)が咸鏡道北部・鏡城(キョンソン)で義兵を挙げて鏡城を奪還すると、会寧でも義兵が立ち上がり、直茂本陣が置かれた咸鏡道南部・咸興でも義兵抗争が展開されました。

同年十月には、鄭文孚の義兵は清正支配の最北・吉州(キルジュ)城を取り囲みました。

直ちに救援に向かいたい清正でしたが安辺の清正本陣には朝鮮二王子がいて下手に動けず、吉州に多くの兵を割くほどのゆとりもありません。

吉州の日本軍は籠城することとなり、清正が救出するまで翌年の一月まで続き、こうして清正と直茂の半年に渡る咸鏡道支配は失敗に終わったのでした。

7.降倭・沙也可との戦い

慶長の役地図
図4:慶長の役 日本軍進路図_右軍

慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、これにより六〇歳の直茂は息子の勝茂と共に第四軍として再出兵しました。

同年一一月、直茂ら日本軍約一万が慶尚南道雲峰から咸陽を経て山陰・三嘉に南下。

この報を受けて、前慶尚右兵使・金応瑞(キム・ウンソ)は、朝鮮兵を降倭を分道して進軍。直茂ら日本軍が宜寧から鼎津を渡ろうとした時、明軍も到着し日本軍を襲撃。

日本軍は一時敗退しましたが、逆襲したため多くの降倭含む朝鮮軍と明軍が戦死。しかし朝鮮・明軍は日本軍の首を七〇余級ほど取りました。

この時に降倭の中で最も活躍した者に、元清正軍の先鋒将だった降倭・沙也可(金忠善)がいて、沙也可は他の降倭と共に朝鮮人捕虜一〇〇名ほどを奪回しました。

8.蔚山の戦い

倭城分布図_慶尚道南東海岸
図5:倭城分布図_慶尚道南東海岸

明の経略・楊鎬・麻貴は、黒田長政黒田長政軍と毛利秀元毛利秀元軍を稷山(チクサン)で迎撃し、日本軍ソウル再侵入を阻止すると、次の攻撃目標を日本軍のシンボリックな存在・加藤清正加藤清正に定めました。

十二月二三日、楊鎬・麻貴率いる明軍と権慄率いる朝鮮軍併せて六万の連合軍が蔚山倭城を包囲しました。

城内の清正・浅野幸長浅野幸長以下日本軍二千余は飢えと寒さに苦しみ、日数が増えるごとに投降する日本兵も続出。楊鎬は沙也可を使者として送り和議を持ちかけ、清正はその和議に乗ろうとしました。

しかし、年明け正月二日に毛利秀元・黒田長政・直茂・加藤嘉明加藤嘉明ら一万三千の救援軍が駆け付け、明・朝鮮軍の背後をつき囲みを解かせました。

五日、楊鎬が全軍に撤退命令を出して十日余続いた蔚山の戦いはついに終了。しかし蔚山の戦いは朝鮮在陣の日本軍に衝撃を与え、これを境に一気に戦線縮小・撤退案に傾いていきました。

同年(慶長三年)八月に秀吉が死去。日本軍の帰国が始まると、日本軍追撃戦として同年十一月に朝鮮水軍の李舜臣李舜臣と明水軍都督の陳璘が、露梁(ノリャン)で島津義弘島津義弘立花宗茂立花宗茂らの水軍を撃破して、七年にも及ぶ朝鮮の役はようやっと幕を閉じました。

9.佐賀藩の礎を築く

帰国後の関ヶ原の戦いで直茂は徳川家康徳川家康側につき、龍造寺氏は安泰。かと思いきや龍造寺政家・高房が死亡し、龍造寺氏は絶えました。

龍造寺氏の家督は、直茂の息子・勝茂が相続。ここでやっと佐賀藩の家督と支配が鍋島氏に統一され、直茂は佐賀藩政を後見しました。享年81

清正とイケイケドンドンで咸鏡道支配する直茂と、国内で特に気負いもなく自然の流れで佐賀藩の礎を築いた直茂って、同一人物なんだろうかって思いますね。私の中で人物像が判然としない武将の一人です。

鍋島直茂 相関図

主君

龍造寺隆信龍造寺隆信

九州のライバル

大友家:大友宗麟宗麟立花道雪立花道雪立花宗茂宗茂/島津家:島津義弘義弘

自分をかわいがってくれた天下人

豊臣秀吉豊臣秀吉徳川家康徳川家康

文禄・慶長の役

文禄の役 第二軍:加藤清正加藤清正

慶長の役 右軍:毛利秀元毛利秀元黒田長政黒田長政浅野幸長浅野幸長

ライバル:明経略 楊鎬・朝鮮都元帥 権慄・降倭 沙也可

  

関連トピック

鍋島直茂

肖像素材イラスト

文禄・慶長の役

相関図

朝鮮・明連合軍文禄の役 日本軍慶長の役 日本軍

概要

文禄・慶長の役とは

地図

東アジア各国関係図朝鮮八道色分け地図文禄の役 日本軍進路

慶長の役 日本軍進路図倭城とは 分布図と一覧合戦地図

年表

文禄の役 略年表慶長の役 略年表

朝鮮国

朝鮮の官制その1 京官その2 外官-陸軍・水軍、地方行政朝鮮王朝の党争

明国

明の官位相当表

日本国

文禄年間 全国の諸大名配置図九州中国・四国近畿東海・北陸東日本

慶長前期 全国の諸大名配置図村上水軍とは 前編後編

戦後

日朝国交回復年表

参考文献

北島 万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

笠谷 和比古, 黒田 慶一 『秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦 』(文英堂、2000年)

上垣外 憲一『空虚なる出兵―秀吉の文禄・慶長の役 (Fukutake Books) 』(福武書店、1989年)