プロフィール

佐賀藩の祖。幼名は彦法師丸。
肥前の大名・龍造寺隆信家臣。隆信が戦死し、龍造寺一門・重臣から領国政治の委任を受ける。
秀吉の朝鮮出兵の前年、火薬を領国内の商人らに調えさせて購入。これを携え第二軍として加藤清正と共に渡海、朝鮮最北・咸鏡道を制圧した。
この地を清正と支配していたが、義兵抗争が激化、苦しい戦いを強いられた。
詳細
1.主君戦死
直茂は、肥前(佐賀・長崎県)の大名・
龍造寺隆信より九歳下の家臣。隆信の母が直茂の父・清房に再嫁した為、隆信と直茂は義兄弟でもあります。
九州の戦国時代は、龍造寺・大友・島津が三家が覇権を争っていました。大友氏との戦いで直茂は、夜襲をしかけて勝利。しかし島津氏との戦いには大敗し、当主・隆信は戦死。
その結果、直茂四七歳は隆信の息子・政家を補佐し、龍造寺氏の一門・重臣から領国政治の委任を受けることになりました。
2.藩政掌握

秀吉が九州平定のため島津を攻めに乗り出すと、直茂は秀吉と手を組み、島津討伐(
義弘 )に踏み切りました。
その先見の明で龍造寺家は秀吉の島津討伐後、なんとか安泰できました。
直茂に於いては、秀吉から肥前神先郡に領地を与えられ、龍造寺政家の子・高房に代わって佐賀藩政を一手に掌握することに。
こうして佐賀藩において家督と支配が分離したまま、秀吉の命で直茂は龍造寺氏と共に朝鮮へ出兵となりました。
3.文禄の役 入念な準備
天正一九年(1591)の秋、領内端々まで諸国の商人がかなり入り込み、煙硝(火薬)を買い取りに来ていました。それを聞きつけた領内商人の平吉平兵衛が、密かに彼らに事情を聴きました。すると明年太閤殿下の高麗御陣によって、諸国の大名が煙硝を望まれ探していた、とのとこ。
早速、平兵衛が鍋島平五郎(茂里。直茂養子)に報告。平五郎は「神妙の至りに思召され」て、平兵衛に力の限り煙硝を調えるよう命じました。しかし平兵衛一人では遅々と進まず…。
平兵衛は平五郎に他の町人頭などの協力を申し上げて、煙硝七六〇〇斤を調達。これを鍋島家が購入し、明年高麗御陣(朝鮮出兵)に出発した直茂を平兵衛は大変慶ばせました。「鍋島直茂譜孝補」[文献2]
4.清正の軍に属す

第二軍の直茂は清正と行動を共にした。
文禄元年(1592)四月一三日、秀吉の明国制圧の野望により日本軍が朝鮮へ出兵。
第一軍の小西行長・
宗義智が釜山(プサン)に上陸すると破竹の勢いで北上。
朝鮮軍はこれら日本軍を制止できず、国王・宣祖は柳成龍らを従えソウルを脱出して平壌(ピョンヤン)へ避難しました。
加藤清正三一歳の第二軍に配属された直茂五五歳。第二軍は朝鮮第一の大寺・仏国寺の伽藍を焼き払って、五月三日に第一軍の行長・義智と共にソウルへ入りました。
5.朝鮮二王子を捕らえる
日本軍はソウルから北上して臨津江と開城も制圧すると、第一軍の行長・義智と第三軍の黒田長政は平壌を目指して西北に兵を進め、第二軍の清正・直茂は咸鏡道を目指して東北に兵を進めました。
ソウル制圧から二か月後の七月半ば、清正・直茂は咸鏡道を制圧。咸鏡道・会寧(フェリヨン)で朝鮮二王子臨海君(イムヘグンソン)・順和君(スンファグンジク)も捕らえました。
6.咸鏡道支配

同年七月末から八月末にかけて清正は、明への道を探る為にオランカイ(中国東北部)に入りました。
清正はオランカイや咸鏡道北部一体を支配するつもりでしたが、地質が悪く物資も乏しいため、諦めて咸鏡道南部支配に徹することにします。
清正は安辺(アンビョン)に、直茂は咸興(ハムフン)に本陣を置き、それより北は清正軍に寝返った在地の士官に在番させることにしました。
それにしても清正・直茂の咸鏡道支配は年貢の取り立ては厳しく、おまけに咸鏡道の日本軍は城の外で略奪を重ねていました。
7.義兵との戦い
朝鮮全土に目を向けると、慶尚道で郭再祐率いる最初の義兵が立ち上がったのを皮切りに、各地で義兵活動が活発化。清正・直茂の圧政に苦しむ咸鏡道も例外ではありませんでした。
咸鏡道北部・鏡城(キョンソン)で鄭文孚(チョン・ムンブ)が、義兵を挙げて鏡城を奪還。会寧でも義兵が立ち上がり、直茂本陣・咸興でも義兵抗争が展開されました。
同年一〇月には、鄭文孚の義兵は清正支配の最北・吉州(キルジュ)城を取り囲みました。直ちに救援に向かいたい清正でしたが、安辺の清正本陣には朝鮮二王子がいて下手に動けず、吉州に多くの兵を割くほどのゆとりもありません。
吉州の日本軍は籠城することとなり、清正が救出するまで翌年の一月まで続き、こうして清正と直茂の半年に渡る咸鏡道支配は失敗に終わったのでした。
7.降倭・沙也可との戦い

慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定め、これにより直茂六〇歳は息子の勝茂と共に第四軍として再出兵しました。
同年一一月、直茂ら日本軍約一万が慶尚南道雲峰から咸陽を経て山陰・三嘉に南下。
この報を受けて、前慶尚右兵使・金応瑞(キム・ウンソ)は、朝鮮兵を降倭を分道して進軍。直茂ら日本軍が宜寧から鼎津を渡ろうとした時、明軍も到着し日本軍を襲撃。
日本軍は一時敗退しましたが、逆襲したため多くの降倭含む朝鮮軍と明軍が戦死。しかし朝鮮・明軍は日本軍の首を七〇余級ほど取りました。
この時に降倭の中で最も活躍した者に、元清正軍の先鋒将だった降倭・沙也可(金忠善)がいて、沙也可は他の降倭と共に朝鮮人捕虜一〇〇名ほどを奪回しました。
8.蔚山の戦い

明の経略・楊鎬と麻貴は、日本軍ソウル再侵入を阻止すると、次の攻撃目標を日本軍のシンボリックな存在・加藤清正に定めました。
一二月二三日、楊鎬・麻貴率いる明軍と権慄率いる朝鮮軍併せて六万の連合軍が蔚山倭城を包囲。
城内の清正・浅野幸長以下日本軍二千余は飢えと寒さに苦しみ、日数が増えるごとに投降する日本兵も続出。
楊鎬は沙也可を使者として送り和議を持ちかけ、清正はその和議に乗ろうとしました。しかし、年明け正月二日に毛利秀元・黒田長政・直茂ら一万三千の救援軍が駆け付け、明・朝鮮軍の背後をつき囲みを解かせました。
しかし蔚山の戦いは朝鮮在陣の日本軍に衝撃を与え、これを境に一気に戦線縮小・撤退案に傾き、同年(慶長三年)八月には秀吉が死去。
日本軍の帰国が始まると、同年一一月に朝鮮水軍の李舜臣と明水軍都督の陳璘が、露梁(ノリャン)で
島津義弘らの水軍を追撃、撃破して七年にも及ぶ朝鮮の役はようやっと幕を閉じました。
9.佐賀藩の礎を築く
帰国後の慶長五年(1600)九月、関ヶ原の戦いで直茂は徳川家康側につき、龍造寺氏は安泰。かと思いきや龍造寺政家・高房が死亡し、龍造寺氏は絶えました。
龍造寺氏の家督は、直茂の息子・勝茂が相続。ここでやっと佐賀藩の家督と支配が鍋島氏に統一され、直茂は佐賀藩政を後見しました。享年八一。
当頁は直茂の武功における事跡に終始し、その人物像が(個人的に)いまだよく見通せないのですが、今に残る佐賀の孔子廟・多久聖廟を思うとき、佐賀藩の祖・直茂を考えずにはいられません。
鍋島直茂 相関図
主君
九州のライバル
文禄・慶長の役
文禄の役 相方:加藤清正
参考文献
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 「鍋島直茂譜孝補」(太閤殿下朝鮮攻之起)_北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)144頁
- 笠谷和比古、黒田慶一『秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦』(文英堂、2000年)
- 上垣外憲一『文禄・慶長の役―空虚なる御陣』(講談社、2002年)
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