解説
文禄・慶長の役では、主に九州の大名を中心とした西国の大名が動員されました。よって東国の大名はきほん的に朝鮮へ渡海しません。
例外的に伊達政宗が渡海し、文禄二年(1593)六月の第二次晋州城攻防戦に参戦。これは豊臣秀吉に対する忠勤を表現するための、いつものわげさわがんねパフォーマンスの延長線上と言えるでしょう。
また上杉景勝は前年六月、釜山にほど近い慶尚道南東海岸の熊川(ウンチョン)に出陣しました。
渡海はしませんでしたが、徳川家康・前田利家・蒲生氏郷らは日本本営の肥前(佐賀県)名護屋に在陣。自身も渡海するという秀吉を、浅野長政と共に家康・利家・氏郷が制止するという重要な役目を果たしました。
参考文献
- 児玉幸多 編集『日本史年表・地図』(吉川弘文館、2016年)
- 笠谷和比古、黒田慶一『秀吉の野望と誤算―文禄・慶長の役と関ケ原合戦』(文英堂、2000年)