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戦国武将解説

金誠一(キム・ソンイル/きん-せいいつ)

プロフィール

金誠一
김성일
Kim Seong-il

朝鮮王朝・文臣。

通信副使として日本に渡海、京都・聚楽第において豊臣秀吉と対面する。帰国後、国王・宣祖に「秀吉の出兵はない。」と報告。

しかし約一年後、秀吉の朝鮮侵略が始まり、宣祖は金誠一の虚言に激怒、下獄を命ずる。宰相の柳成龍は金誠一を救い、義兵を募る慶尚右道招諭使に任命。

これにより金誠一は、官から反乱軍だと誤解を受けていた義兵将・郭再祐を助け、義兵活動を行う。

かくして郭再祐と各地の義兵、官軍の権慄らと共に小早川隆景軍の全羅道侵入を阻止することに成功。

金時敏が守る晋州城の戦いでは防備の中心を担い、朝鮮軍三千八百で細川忠興ら日本軍二万の大軍に挑む――!

享年56(生1538-没1593)。豊臣秀吉より一つ、小早川隆景より四つと年下。

詳細

1.通信使として秀吉と対面

金誠一は、朝鮮の朱子と呼ばれた李退渓(り‐たいけい)門下三傑の一人に数えられた人。

三一歳の時に文科に合格、史局に入り、湖堂を経て副定学となりました。

開戦前。島津氏を服属させ、九州を平定した豊臣秀吉豊臣秀吉の次の狙いはアジア、明国制圧でした。秀吉は、明国の通り道となる朝鮮に国王・宣祖(ソンジョ)の参内を二度三度と要求しました。

余りにしつこいので、朝鮮は秀吉の天下統一の祝賀の為ということで通信使の日本派遣を決定。

通信使の正使に黄允吉(ホワン・ユンギル)、副使に金誠一を選任。楽隊まで加えて二百人の大一行は、都・漢城(ソウル)を出発、日本へ渡海しました。

天正十八年七月下旬に京都に到着した通信使一行。しかし秀吉は当時、小田原で北条氏政北条氏政・氏直と合戦中。三か月以上待たされた通信使は、十一月七日、京都・聚楽第において、ようやっと秀吉との会見を果たしました。

この時の秀吉の様子は、柳成龍の『懲毖録(ちょうひろく)』に詳しく記されており、「秀吉に抱かれた小児(鶴松)が小便を漏らして、秀吉が笑う」という場面は有名です。

儒教の礼節が徹底している朝鮮の人にとって、秀吉のこの振る舞いは「!」。誠に傍若無人でしたが、秀吉は秀吉でこの通信使を服属通信使と思っている事情がありました。

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2.宣祖に虚偽の報告

秀吉との会見を済ませて、通信使一行が天正十九年(1591)二月、都・漢城(ソウル)に帰って来ました。正使・黄允吉は、御前会議において「兵乱が必ず起きる。」と断言。

しかし副使・金誠一は「秀吉の出兵はない。允吉の発言は大袈裟であり人心を揺動させる。」と正反対のことを報告。

当時の朝鮮の官僚は、東人派と西人派に分かれ党争が激化。東人派に属する金誠一は、西人派の黄允吉に対する対抗する為にこのような発言をしてしまったのです。

おまけに金誠一は、持参した国書に対する秀吉の返書が「道に悖(もと)り、人をあなどる」ものとして、日本の僧・景轍玄蘇景轍玄蘇と交渉して改定しました。

国命を受けた通信使が、無礼な国書を受け取って帰国するわけにはいかない、という礼節偏重主義にも狂わされていた金誠一。

東人派の左議政・柳成龍は、西人派・黄允吉の報告を退け、東人派・属する金誠一の報告を採用。しかし秀吉の出兵に危機感を持っていた柳成龍は、李舜臣李舜臣全羅左水使を登用して南海の防備に当たらせました。

3.日本軍侵攻、宣祖は(金誠一に)激怒

金誠一の舞台
図1:文禄の役 朝鮮全土関係図
金誠一は錦山、晋州城の戦いで活躍。

金誠一の「秀吉の出兵はない」発言から約一年後の文禄元年(1592)四月十三日。

秀吉の命により日本の諸将朝鮮へ侵攻。第一軍の小西行長小西行長宗義智宗義智が釜山(プサン)に上陸するやいなや破竹の勢いで北上。僅か半月で都ソウル・漢城(ハンソン)を制圧しました。

それに先立って平壌へ避難した朝鮮国王の宣祖(ソンジョ)は、金誠一の虚言を怒り、彼に下獄を命じます。

柳成龍は金誠一を救い、義兵を募る慶尚右道(キョンサンウド)招諭使に任命しました。

4.英雄に豹変する

しかし金誠一の活躍は招諭使に任命される前から既に始まっていました。

右兵使に任命された金誠一は慶尚道で掠奪を行う日本軍と遭遇した際、部下が逃げようとしたので、小部隊を指揮していた李宗仁(イ・ジョンイン)を呼び寄せて言いました。

「おまえは勇士である。賊に出会って先ず退いてはならんぞ。」

その時、一人の日本軍が刀を振って突進。李宗仁は馬で進み出てこれを射殺すと、これを見ていた日本軍は尻込みして進み出ませんでした(柳成龍『懲毖録』)。

その頃、慶尚道・宜寧(ウィリョン)に住む郭再祐は、日本軍が自分の村に迫って来ると、家財を投げ打って朝鮮初の義兵を起こしました。しかし慶尚道巡察使の金睟(キム・ス)から反乱軍だと誤解を受けることに。

これを助けたのが、招諭使・金誠一でした。金誠一は金睟に言いました。

「その人(郭再祐)は、大胆で勇ましいといえども深謀遠慮無く、この危急の時に当たり、このような人を制御してこれを用いるならば、その益は無いと限らない。直ちに宜寧に突撃将の称号を贈り、郭再祐をして倭を撃たしめん(朝鮮王朝宣祖実録)」と。

5.小早川隆景軍を撃退す

かくして金誠一は、郭再祐らと協力して義兵活動を行っていきました。

そしてついに、第一軍・小西行長の釜山上陸から三か月後の文禄元年(1592)七月九日、金誠一と郭再祐、各地の義兵、官軍の権慄らが結集して、全羅道侵犯をはかる小早川隆景小早川隆景の日本軍を撃退しました(錦山の戦い)。これは連戦連敗していた朝鮮陸軍の最初の勝利となりました。

6.第一次晋州城の戦い

第一次晋州城の戦い
図2:第一次晋州城の戦い

その約三か月後(文禄元年十月四日)、細川忠興素材細川忠興ら日本軍二万の大軍が朝鮮の要衝・晋州城を囲みます。城内には市長の牧使・金時敏以下三千八千の城兵しかいません。

しかし金時敏の卓越した指揮力と戦術の下、金誠一は防備の中心を担い、郭再祐の義兵も奮闘した結果、日本軍を見事撃退しました。金時敏はこの戦いで戦死。

その半年後、金誠一は心労のあまり病に倒れ、文禄二年(1593)四月(第二次晋州城の戦いの約二か月前)に晋州城内で死去しました。享年56。著作に『鶴峰集(かくほうしゅう)』。

人は過ちを犯さずに生きられない。だからこそ、よりいっそう懸命に生きる。そして救われなければならない。そんな真理を体現したような、受難者・金誠一でした。

金誠一 相関図

宿敵

豊臣秀吉豊臣秀吉

外交

対馬外交僧・景轍玄蘇景轍玄蘇

錦山の戦い

味方:義兵将の郭再祐と官軍の権慄/ライバル:小早川隆景小早川隆景

第一次晋州城の戦い

味方:牧使の金時敏と義兵将の郭再祐/ライバル:細川忠興素材細川忠興

朝鮮国

王室:宣祖光海君/朝廷:柳成龍・金誠一/陸軍:権慄金時敏沙也可

水軍:李舜臣李舜臣元均/義兵将:郭再祐/学者:姜沆

明国

万暦帝李如松沈惟敬楊鎬陳璘劉綖

  

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詳細事項

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参考文献

北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)

木村誠、趙景達、吉田光男、馬淵貞利 (編集) 『朝鮮人物事典 』(大和書房、1995年)

柳 成竜 (著), 朴 鐘鳴 (翻訳)『懲毖録 (東洋文庫 357)』(平凡社 、1979年)