プロフィール
尾張国(愛知県)出身の戦国大名。血液型A、幼名は吉法師(きっぽうし)。
27歳の時に桶狭間で今川軍を、42歳の時に長篠で武田軍を倒した。しかし本願寺顕如との戦いは11年にもおよび、本能寺の変2年前まで天下統一を阻まれる。
43歳の時に近江国(滋賀県)安土に5年かけて城を築く。
44歳の時に朝廷から賜った右大臣兼右大将という有難い官位は、半年後にわざわざ返上。
肩書に頼らず実力勝負。人にも厳しく、彼の辞書に「恕」という言はない。
詳細
少数の兵力で今川義元の軍を倒した桶狭間の戦い、鉄砲を新しく時代に取り入れ武田勝頼に勝利した長篠の戦い、明智光秀の謀反により壮絶な最期を遂げる、クライマックスだらけの武将・織田信長。
顕如との石山合戦においては、比叡山延暦寺を焼き討ちにしました。寺の建物や宝のほか古文書類が焼失。僧俗、児童、智者、上人一々に首を切り、犠牲者は三〇〇〇人及んだといいます。
伊勢(三重県)長島の一向一揆勢には二度敗れるも平定。長島の者は降伏して船に乗って退去しようとしましたが、男女二万人が焼き殺されました。
越前(福井県)の一向一揆勢も徹底的に攻撃。四方八方へ軍勢を派遣し、山々谷々まで残る所なく捜(さが)し出し首をきり、犠牲者は三万人以上にのぼりました。
このようにして比叡山や一向宗などの宗教的なアジールは、徹底的に解体。すべての宗教的世界の頂点に立つ生き神として自己神格化を行いました。安土城はそのような信長の権力の可視的な表象でした。
石山合戦中に信長は、味方であったはずの荒木村重に裏切られました。その報復として、村重や一族の妻子は六条河原で首を切られ、村重方の有力武士の妻子一二二人は磔、下級武士の妻子ら五一二人は家四つにとじ込めて焼き殺しにしました。
そんな信長は、家臣を身分に関係なく実力で評価。然しながら封建制の枠から出ない革命児は、自分の跡は長男信忠引き継がせてしまう血縁信仰。また次男信雄や三男信孝などのその後を見ると、秀吉を家臣にしたのは織田家にとって非常にマズかったように思います。
一方で人間信長は、荒れ果てた京を再生すべく禁裏(朝廷の住居)の修復や京の町の整備、治安維持などを側近の村井貞勝に命じました。
諸国に号令をかけるには、朝廷の権力が必要だったにせよ、凋落の一途を辿っていた朝廷(正親町天皇)を、陰ながら支え救っていた一面もある信長でした。
織田信長 相関図
織田氏:おだし
- 一族:祖先、兄弟、妻・子供
裏切った武将
ライバル
一蓮托生?
参考文献
- 池上裕子『織田信長(人物叢書)』(吉川弘文館、2012年)
- 京都信長研究会『織田信長-スーパー情報ガイドブック』(データハウス、1991年)
- 桜井進『江戸のノイズ-監獄都市の光と闇』(日本放送出版協会、2000年 )