基本データ
概要
陣容
日本水軍70余隻(うち大型層桜船7隻)
- 大将:脇坂安治
- 部隊:安治率いる日本水軍
朝鮮連合水軍60余隻(うち亀甲船11隻)
- 大将:全羅左水使 李舜臣
- 全羅左水営:蛇渡僉使 金浣(キム・ワン)、防踏僉使 李純信(イ・スンシン)、鹿島万戸 鄭運(チョン・ウン)、順天府使 権俊(クォン・シュン)ら。
- 慶尚右水営:慶尚右水使 元均ら。
- 全羅右水営:全羅右水使 李億祺(イ・オクギ)ら。
結果
日本水軍59隻喪失、朝鮮連合水軍4隻喪失。
解説
1.亀甲船の建造
日本軍が朝鮮へ侵攻する一年ほど前に、李舜臣は柳成龍の推挙により朝鮮水軍司令官・全羅左水使に就任。
就任すると、日本軍を海上で撃滅すべく、亀甲船の建造に着手しました。
亀甲船とは李舜臣が考案したとされる朝鮮水軍の砲艦です。前方に龍頭をつけ、その口から大砲を放ち、 船全体を無数の鉄の針を取り付けた屋根で覆い、敵が飛び乗れないようにしました。
また兵員を編成、訓練を行い、海流や潮の干満、日本のことなどを調べ上げました。
2.秀吉の作戦
文禄元年(1592)五月七日、李舜臣率いる朝鮮水軍は朝鮮の海に侵攻してきた藤堂高虎率いる日本水軍を巨済島玉浦で撃破。
二二日後の泗川(サチョン)海戦では、完成した亀甲船が登場。亀甲船の活躍もあって、朝鮮水軍は日本水軍に再び大打撃を与えることに成功しました。
見かねた豊臣秀吉は、四国州の第五軍に配属した村上水軍の雄 来島通総を水軍に投入するも、栗浦でこれまた朝鮮水軍に撃破されてしました。
これを受けて秀吉は、織田信長の水軍将として無敵の毛利水軍を破った実績のある九鬼嘉隆と、水軍の国の脇坂安治(淡路洲本)と加藤嘉明(伊予松崎)を水軍に投入することにしました。
3.閑山島・安骨浦海戦
朝鮮水軍が手ごわいことを認識した秀吉は、安治・嘉隆・嘉明の三水軍将に防戦を命令。
然しながら功名を焦った安治は、抜け駆けして手勢のみで同年七月八日、巨済島(コジェド)に出撃しました。
これに対して李舜臣は、見乃梁(キョンネリヤン)という細長い川のような狭い地形におとり船で日本水軍を誘(おび)き出す作戦に出ます。
これに引っかかった脇坂安治率いる日本水軍七〇余隻が、見乃梁を通り閑山島沖の広い海に出た時、待ち構えていた朝鮮水軍が新たに完成させた亀甲船一一隻を加えた六〇余隻で猛攻。
日本軍は五九隻の兵船を失い、脇坂安治は九死に一生を得ました。朝鮮側の損害は僅か四隻で、朝鮮水軍の完勝でした。
脇坂の救援に九鬼嘉隆と加藤嘉明が船を率いて駆けつけましたが、劣勢を知ると安骨浦(アンゴルポ)に引き揚げます。しかし朝鮮水軍は安骨浦の九鬼・加藤らを襲撃、これも撃破しました。