プロフィール
別名・長吉(ながよし)。秀吉の側近で五奉行筆頭。
忠臣蔵でお馴染みの、浅野内匠頭(たくみのかみ)の高祖父にあたる。
文禄の役では、渡海しようとする秀吉を三成は支持したが、長政は自らの首をかけて諫言する。
秀次事件の際には、妻の姉が秀次の妾だったことから、再び立場が危うくなる。三成の権勢は長政を凌ぐも、浅野家は後世まで遺る――!?
詳細
1.北政所との関係
浅野長政は尾張の安井重継の子。織田信長の弓衆の浅野長勝の婿養子となり、浅野家を継ぎました。
長政の妻・ややは、秀吉の正室・北政所の妹にあたります。系図を見てのとおり、ややと北政所は姉妹で浅野長勝の養女でした。
長政がややが結婚、すなわち浅野家の婿養子となることで、北政所は義理の姉となりました。「やや」こしい!
なお、長政と改名したのは晩年で、現役活躍中は長吉(ながよし)の名を用いました。よってこれ以降、ここでは長政を長吉と言います。
長吉は信長に仕えていましたが、相婿(あいむこ:姉妹の夫同士)の関係から早くから秀吉に属し、近江・播磨・山城などで知行を得ました。
2.奥州仕置-政宗指南役
天正一八(1590)年、小田原城(北条氏政・氏直)攻めで長吉四四歳は、北条氏の支城・岩掛城を攻略。しかし降伏を申し出た城兵を快諾して開城させた所、秀吉に無断で開城させるとは言語道断と大きな怒りを買いました。
一方、前年六月の会津蘆名攻めを秀吉にとがめられていた伊達政宗は、散々迷って小田原に参陣。前年に切り取った会津を没収されましたが、伊達家を存続させたのは長吉と前田利家でした。
北条氏を滅ぼした秀吉は、会津に下向し途中の宇都宮で、葛西・大崎氏の所領没収のことを決定。だたちに直臣の木村吉清を派遣、それに長吉・石田三成・蒲生氏郷らを加えて仕置きを開始。没収地の会津には氏郷、葛西・大崎氏の領国には木村吉清に与えられました。
ところで白川・石川・田村等の伊達氏一族らは、政宗に全てを一任して小田原参陣を果たせませんでした。政宗の思惑を超えて、秀吉はこれらの地を没収するつもりでした。仲に立った政宗は当然困惑して、長吉もこれに加勢するも、結果が覆(くつがえ)ることはありませんでした。
木村吉清の治政は非道を極め、旧葛西・大崎氏の領民が木村勢を攻め、大一揆を起こしました。秀吉はその鎮圧に政宗と氏郷を任命。しかし氏郷は政宗を信用できず、木村吉清父子は政宗によって救出されました。それでも氏郷は政宗への疑い晴れず、長吉が二人の関係修復につとめ、一応落着しました。
翌年、奥州再仕置の一環として長吉は、九戸政実の乱に総大将・羽柴秀次の軍奉行として従軍しました。
3.太閤に一喝!
豊臣秀吉の明国制圧の野望による、二度に渡る朝鮮侵攻である文禄・慶長の役。
残っている文書によると長吉は、秀吉から朝鮮通信使を連れてくるよう命じられていた対馬の宗義智との連絡窓口になっていました[文献1]。
文禄元年(1592)長吉四六歳は、三成と増田長盛とともに朝鮮に渡り、軍事を監督しましたが、秀吉の渡鮮に関して強く反対しました。同年四月、長政は自らの首をかけて秀吉に諫言しました。
今日秀吉が渡海したならば「明日は必ず国々に殺人・謀反などの悪行を働く者が出てくるでしょう。ですから進み出て朝鮮を討つことはふさわしくありません。[註1]」とにかく朝鮮から軍隊を撤退して「諸大名を休息させ、万民が安堵の思いをなすようにするべきでしょう。」
しかし返って秀吉の怒りは増すばかりで、前田利家と蒲生氏郷がこの場をなんとか鎮(しず)めました。
4.三成と家康の激論
長吉が秀吉に許され、出仕したのもつかの間の同年五月、加藤清正が首都ソウル(漢城)を占領したと報せが届きました。
六月、秀吉は懲りずに朝鮮に向って乗船しようとしました。徳川家康と前田利家その外の人々が引き止めて、直ちに秀吉の前で会議が開かれ、三成と家康の間で激論が交わされました。
三成は、秀吉の朝鮮渡海を仰いで秀吉の直接指揮を期待しました。しかし多くの日本中の人々はこれ以上の戦線拡大は望んでいません。
この場は長政が表に出ず、秀吉の渡海を家康と利家で止めました。この結果を長政は、六月九日付上京中宛浅野弾正書状[註2]で喜んでおり、長吉は予め反戦派である家康・利家に根回ししていたとも考えられます。
また当時二二歳の後陽成天皇も渡海せんとする秀吉を制止するため、秀吉に勅書を下しました。
5.五奉行筆頭
文禄二年、長男・幸長とともに甲斐二二万五千石を与えられた長吉は、伊達政宗、南部信直ら奥羽・関東の大名の指揮監督を担いました。
同四年、長男・幸長が秀次事件の時、妻の姉が秀次の妾だったことから連座の罪に問われました。
このため長吉は一時不安定な時期にあり、三成の権勢は長政を凌いでいましたが、長政は五奉行筆頭となり、豊臣秀頼の擁立に重責を負うことになりました。秀吉が死去すると、九州博多で朝鮮出兵の撤収に尽力を注ぎました。
6.民政家
関ヶ原の戦い。長吉は家康の側について、秀忠の配下になることを命ぜられ、美濃大井に出兵しました。戦後は江戸に住み、関ヶ原の戦いから一六年後、江戸にてその生涯を閉じました。享年六五。
優れた民政家であり、旧領甲斐・播磨の庶民にその人徳を慕われ、また囲碁に長け、しばしば家康との盤上の争いを楽しみ、長吉没後、家康は囲碁の遊びを断つほどだったと伝わっています。
浅野長政 相関図
浅野氏:近世の外様大名
妻:やや(北政所の妹)
- 長男 幸長:紀伊和歌山藩浅野家初代。享年三八。
- 次男 長晟(ながあきら):兄幸長の跡を継ぐも、福島正則改易により安芸広島藩浅野家代となる。宗家は代々安芸守(あきのかみ)を称し、幕末に至る。
- 三男 長重(ながしげ):常陸笠間(かさま)を領したが、子長直のとき播磨(兵庫県)赤穂にうつり、代々内匠頭(たくみのかみ)を称した。長直の孫の長矩(ながのり)の時、江戸城中で吉良上野介(こうずのすけ)義央(よしなか)にきりつけたため切腹を命じられ、家は断絶。
豊臣政権
奥州仕置
文禄の役 味方
長政繋がり
参考文献
- 黒田和子『浅野長政とその時代』(校倉書房、2000年)「第八章 奥州仕置」206-212頁、「第九章 葛西大崎一揆」220-224、227頁
- 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)29頁"猶、浅野弾正少弼可申付也"「榊原家所蔵文書」天正一七年三月二十八日 宗義智宛 豊臣秀吉判物写、34頁「武家事紀」(第二二続集「天正十六年」一一月八日浅野長政宛 小西行長書状)
- 岩沢愿彦「浅野長政」『国史大辞典1』(吉川弘文館、1979年)141頁
- 小和田哲男「浅野氏」左同(監修)左同・菅原正子・仁藤敦史(編集委員)『日本史諸家系図人名辞典』(講談社、2003年)68-70頁
補註
- 『寛政重修諸家譜』三〇九(『浅野家文書』付録五六九項)
- 六月九日付上京中宛浅野弾正書状(『改定史籍集覧』第十一冊「中外経緯伝」一五八項)