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文禄・慶長の役

豊臣秀吉系図 父母、兄弟、甥、妻子など早わかり

目次

豊臣家系図

秀吉一族父母兄弟姉妹妻子養子の秀勝

一口メモ 参考文献関連記事

豊臣家系図

豊臣家系図

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秀吉一族

豊臣秀吉豊臣秀吉:父は弥右衛門または築阿弥。母は大政所。秀吉は子どもがなかなかできなかったので、養子が多々ある。享年六二。秀吉の苗字変遷@豊臣氏家紋

父母

  • 木下弥右衛門(きのした-やえもん):百姓で、木下姓は秀吉がのちに付けたとされる。ともの父。秀吉の父ともされる。
  • 築阿弥(ちくあみ):なか(大政所)の再婚相手。秀吉、秀長、旭姫の父とされる。近年、秀長・旭姫は秀吉の異父弟・異父妹ではなく、実弟・実妹という説が浮上している。
  • 大政所(おおまんどころ):別名なか。二〇歳の時に秀吉を授かる。木下弥右衛門死亡ののちに築阿弥と再婚。享年八〇

兄弟姉妹

  • とも:大政所と弥右衛門の子。秀吉より四歳上の姉。三好吉房の正室。秀次生母。享年九二
  • 豊臣秀長秀長:秀吉より二歳下の同母弟。通称小一郎。秀長死去により文禄・慶長の役本格化。
  • 旭姫(あさひひめ):秀吉より五歳下の同母妹。尾張の地侍佐治日向守に嫁いだのち、秀吉の命で離婚し、徳川家康徳川家康の正室。享年四七

甥(姉・ともの子)

  • 豊臣秀次秀次:秀吉の姉・ともと三好吉房の長男。秀吉の養子となり関白となる。
  • 豊臣秀勝:ともの次男。秀次の一つ下の弟。岐阜宰相。妻は浅井長政三女の崇源院お江文禄元年(1592)巨済島にて戦病死。享年二四。1569生-1592没。※秀吉養子の羽柴秀勝とは別人。
  • 豊臣秀保(ひでやす):ともの三男。秀次の一一歳下の弟。秀長の養子。秀長死後は高虎が後見し、紀伊・大和両国を遺領を継ぐが謎の死を遂げる。享年一七

妻子

  • 北政所北政所:別名ねね。杉原定利の子。秀吉より一一歳下の正室。
  • 淀殿淀殿:別名茶々。秀吉の側室。浅井長政長女。秀吉との子、鶴松、秀頼を生む。
  • 鶴松:秀吉と淀殿の子。僅か(数えで)三歳で死去。翌年文禄の役が始まる。
  • 豊臣秀頼秀頼:別名お拾い。秀吉五七歳と淀殿の子。(数えで)六歳の時に父秀吉死去。

養子の秀勝

  • 羽柴秀勝織田信長織田信長の四男。長浜城主時代に秀吉が養子に請う。秀吉に従い各地を転戦し、丹波亀山城主となったが、一八歳で病死。1568生-1585没。※秀次弟の豊臣秀勝とは別人。

  • 大善院:秀長長女。秀吉の養女でもある。文禄四年(1596)四月に一八歳の毛利秀元毛利秀元正室となるが、慶長一四年(1609)に死去。

  • 国松:秀頼の子。大坂の陣で秀頼・淀殿死去後に殺害される。

一口メモ

このたび豊臣家の系図を作製しましたが、見ての通り複雑怪奇です。

まず、秀吉の父親が誰だかよくわからない…から始まって、子供がなかなかできなかった秀吉は、各所から養子をもらい、その養子(信長の四男)と秀次の弟が共に名が秀勝(!)という紛らわしさ。

かくして系図右側・北政所の縁戚も込み入っているのですが、戦国時代を考えるうえで関白秀次、小早川秀秋、秀頼など一族に重要人物が多いです。秀吉一族を整理しておくと、この時代の理解も進むでしょう。

参考文献

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秀吉