プロフィール
朝鮮全軍 最高司令官(都元帥)。
豊臣秀吉の命により文禄元年四月、日本軍が朝鮮へ侵攻すると、李舜臣は海で、権慄は陸で日本軍撃退を目指す。
戦争が始まった当初、権慄ら朝鮮官軍は龍仁で脇坂安治軍に完敗。しかし義兵らと共に、全羅道に侵入して来た小早川隆景軍を迎撃した。
幸州山城の戦いでは、朝鮮軍1万を指揮して宇喜多秀家ら日本軍3万に挑む。
一時休戦を経て日本軍が再び朝鮮に侵攻。日本軍北上を防ぐため、加藤清正の蔚山倭城を明・朝鮮連合軍で包囲。再び日本軍に挑む――!
詳細
1.最初の挫折
権慄は慶尚道安東の人で、父の轍は領議政(宰相)にもなった人物。
権慄は遅咲きで四六歳で文科に合格。司憲府監察(正六品)、札曹正郎(正五品)、戸曹正郎(正五品)、全羅道都事(従五品)、漢城府判官(従五品)などを歴任しました。
市長に相当する全羅道光州牧使(モクサ/正三品)の時に豊臣秀吉の明国制圧の野望により、日本軍が朝鮮へ侵攻。
文禄元年(1592)四月、第一軍の小西行長らが釜山に上陸。僅か半月余りで首都ソウル(漢城)を制圧しました。
日本軍に次々と敗れる中で、李舜臣が水軍を率いて巨済島の玉浦(オクポ)で藤堂高虎の水軍を撃破。朝鮮軍最初の一勝を挙げると、その後も次々に海上で日本軍を撃退しました。
しかし陸上ではいまだ苦しい戦いが続いていました。首都ソウルが落ちると、全羅(チョルラ)・忠清(チュンチョン)・慶尚(キョンサン)三道連合軍が首都回復のために北上。これに権慄五六歳も加わりました。
しかし京畿道(キョサンド)龍仁(ヨンイン)で脇坂安治らの日本軍に敗北しました(龍仁の戦い)。
2.小早川軍撃退
龍仁で華々しい成果を挙げた脇坂安治は約一か月後、李舜臣に連敗している日本水軍の救世主として南下。秀吉も安治なら、と大いに期待していました。
権慄の仇(かたき)をというわけでもありませんが、李舜臣率いる朝鮮水軍が安治を閑山島で迎撃。
龍仁の戦い敗北後に逃れ帰った権慄は、全羅道で軍を集め節制使となりました。かくして全羅道に侵入して来た小早川隆景を、全羅北道錦山で義兵将・郭再祐、招諭使・金誠一と共に撃退(錦山の戦い)。この功により権慄は知事に相当する全羅道観察使(従二品)に任命されました。
3.李如松逃走
一方、第一軍の小西行長らは、首都ソウルを制圧すると北上して平壌(ピョンヤン)も制圧、平壌城に留まりました。
その後、朝鮮からの援軍要請により明提督・李如松が四万の兵を率いて平壌城を包囲。
明軍の圧倒的な兵の数と大砲の威力に日本軍は敗北し、小西は敗走。
この勢いに乗ったは李如松は南下して、首都ソウル奪還を目指し、権慄ら南部朝鮮の諸将は北上して挟撃を試みました。
しかし小早川隆景・立花宗茂らソウルの日本軍が碧蹄館で李如松の軍を迎撃し、李如松の軍は敗れて退却しました。
4.幸州山城の戦い
これにより挟撃作戦は水に流れ、権慄率いる朝鮮軍は単独で日本軍と戦うこととなりました。
権慄は首都ソウルから僅かに離れた幸州(ヘンジュ)山城に入って(図2参照)、 城塁を修理し、重柵を造って防備を固めました。
孤軍に何ができるのかと、宇喜多秀家・小西行長・石田三成・黒田長政・小早川隆景等ソウルの日本軍三万は漢城から出陣して幸州山城を包囲。
これに対し城中の兵は一万しかいませんでしたが、善戦してこれを防ぎ、宇喜多秀家・吉川広家は重傷を負いました。その上、京畿水使・李蘋(りひん)が江華島から漢江をさかのぼって来援。
日本軍は背後を断たれることを恐れ、囲みを解き、朝鮮軍が大勝利を収めました。この功により権慄は、有事の際、朝鮮全国の軍隊を統括する臨時職・都元帥(トウォンス,도원수)に就任しました。
5.元均に杖罰
日本との一時休戦に入り、李舜臣は同僚の元均に陥れられ、水軍統制使の職を奪われ、権慄の元で白衣従軍(一兵卒)として過ごしていました。
慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定めました。李舜臣の代わりに水軍統制使となった元均は、同年六月に安骨浦・加徳島の日本軍を攻撃しましたが敗退。
その一か月後、慶尚右水使・裵楔(ペソル)が藤堂高虎・脇坂安治ら日本水軍に敗退。この時、元均は出陣しませんでした。
権慄は元均をとがめ、杖罰を施し前進するよう命令。その四日後、元均は憤懣(ふんまん)やるかたなく、再び朝鮮水軍を率いて日本水軍に対峙しました。しかし無策のため、朝鮮水軍は漆川梁で日本水軍に大敗退。
元均の敗報を聴くや権慄は、朝廷が李舜臣を水軍統制使に復帰させる前に「既に李舜臣を行かせて残余の兵を収拾させていた」(柳成龍『懲毖録』)
6.蔚山の戦い
一方の権慄は、同年暮れに明の経略・楊鎬、提督・麻貴らと共に、普請半ばの蔚山倭城を包囲。水道を絶ち、城内に踏ん張る加藤清正・浅野幸長を苦しめました。
しかし毛利秀元・黒田長政の救援軍が明軍の背後に迫っており、明・朝鮮軍は撤退。城は落とせませんでしたが、これ以降、日本全軍が一気に戦線縮小に傾いていきました。
続いて権慄は、明総兵官劉綖と水軍都督・陳璘、李舜臣と共に小西行長籠る順天倭城を水陸から挟撃する作戦に参加することになりました。
7.順天の戦い
翌九月二〇日、明軍の劉綖と陳璘、朝鮮軍の権慄と李舜臣の連合軍は、小西行長ら籠る順天倭城を水陸から挟撃。
しかし日本軍の応戦激しく、多くの明兵が喪失すると、劉綖は戦意を喪失し作戦を遂行しませんでした。
また水軍都督・陳璘は、気概はありましたが引き潮になったことを告げた李舜臣の言葉も聴かず戦闘を続け、浅瀬に乗り上げてしまい朝鮮水軍の足を引っ張りました。
こうして順天倭城を落とせず、作戦は失敗に終わりました。
しかしその約二か月後、 李舜臣と陳璘が順天の小西行長を救援しに来た島津義弘らの軍を露梁(ノリャン)で大いに破り、七年にも及ぶ長い戦争の幕がこうして閉じました。
この戦いで李舜臣は戦死、権慄は翌年死去しました。
柳成龍は『懲毖録』の中で、日本軍再出兵の際、清正やら行長が南原を攻めようという噂に権慄以下みな退却し「ただ郭再祐だけが昌寧の火旺山城に入り死を期して守った」など、度々臆病な態度を取ったり、または元均などに無茶な命令を出す権慄に度々イラッとしています。
権慄も人間。李如松のように大きな功績もあり、また煮え切らないところもあったようです。
権慄 相関図
味方
朝鮮国
明国
日本
- 宿敵:豊臣秀吉
文禄の役
慶長の役
参考文献
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 北島万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆』(岩波書店、2012年)
- 上垣外憲一『文禄・慶長の役―空虚なる御陣』(講談社、2002年)
- 柳成竜 著・朴鐘鳴 翻訳『懲毖録』(平凡社、1979年)
- 中村栄孝「権慄」『日本歴史大辞典4』(河出書房新社、1985年)362頁