解説
豊臣秀吉の明国制圧の野望により、日本軍は文禄元年(1592)四月に釜山に上陸し、秀吉の定めた分担地域に従って朝鮮全土に進軍しました。
第一軍の小西行長らは、釜山から北上して僅か半月で首都・漢城(ハンソン/現ソウル)を制圧。平安道(ピョンアンド)担当により、北西に進軍して平壌を制圧、ここに留まりました。
第二軍の加藤清正らは、一軍の行長と先陣争いをして漢城に入り、咸鏡道(ハムギョンド)担当により北東に進軍。咸鏡道を制圧し、明国へ道を探るためオランカイまで侵攻。
第三軍の黒田長政らは、漢城から行長と共に北西に進軍して平壌を制圧すると、黄海道(ファンヘド)担当により南下して黄海道を制圧。
第四軍の島津義弘らは、江原道(カンウォンド)担当により漢城から東に進軍して江原道に侵攻。
第六軍の小早川隆景らは、全羅道(チョルラド)担当により漢城から南下。しかし忠清道・錦山(クムサン)で権慄with義兵将郭再祐&金誠一連合軍の迎撃を受けて、全羅道を制圧できずに漢城へ帰還。
第五軍の四国衆(福島正則ら)は、漢城と釜山の間にある忠清道(チュンチョンド)担当。兵站の保全と輸送が主な任務により、進軍という意味合いが少ないので図において割愛。
日本軍は地図および上記のとおり進軍したため、朝鮮全土は焼土と化しました。