目次
3.宇都宮鎮房 暗殺 4.肥前名護屋の縄張り 5.朝鮮での軍師官兵衛
6.秀吉の伝言 7.第二次晋州城攻防戦 8.慶長の役と関ヶ原の戦い
プロフィール

豊前国(福岡県東部と大分県北部)の戦国大名。幼名は万吉。
官兵衛は通称で正式名は孝高(よしたか)。号は如水(じょすい)。洗礼名はドン・シメオン。羽柴秀吉の軍師で茶人としても有名。
はじめ信長に属し、信長死後は秀吉の天下取りのため転戦。秀吉が天下統一を果たすと、政治の中枢からは外れる。
しかし秀吉が明国制圧に乗り出すと、本営の肥前名護屋の設計を担当。朝鮮出兵となり、子の長政は前線で奮戦、官兵衛はソウルで軍師として腕を振るう。
病を患って一時帰国するも、明提督・李如松が大軍を率いて平壌の日本軍を攻撃。これを受けて秀吉は再び官兵衛に渡海を命じるが――
詳細
1.囚われの有岡城
美濃守職隆(もとたか)の子として官兵衛は、播磨国(兵庫県)姫路に生まれました。
父職隆は、播磨国(兵庫県)赤松氏の一族で御着(ごちゃく)城主・小寺政職(こでら-まさもと)に属し、小野寺姓を名乗り姫路城を預かりました。
毛利氏と織田信長が台頭すると、父職隆と官兵衛は主君政職を説得して、政職と共に信長に臣従。天正五年(1577)官兵衛三二歳は、中国征伐のために播磨に入った信長の家臣・
羽柴秀吉を姫路城で迎い入れました。
同年、織田の外様大名で有岡城主の荒木村重が信長に謀反を起こすと、村重に呼応して政職も毛利氏に寝返りました。官兵衛は村重を説得するため有岡城に赴きましたが、逆に村重に捕らえられて有岡城の牢に幽閉されてしまいました。
一年後に官兵衛は救出されましたが、幽閉されていた時に片足を痛めて片足不自由となりました。政職は織田に攻められて落城、逃走しました。
2.豊前国を賜る
官兵衛は信長が死去した後も秀吉に属し、三〇代後半は秀吉天下統一のために各地を転戦。明智光秀を討つため山崎の戦い、
柴田勝家を討つため賤ヶ岳の戦い、
長宗我部元親討つため四国征伐、いずれの合戦においても功を立てました。
天正一五年(1587)秀吉自ら九州に入ると、官兵衛四一歳は羽柴秀長に属して豊後(大分)から日向(宮崎県)に進んで大いに功を立て、豊前国(福岡県東部と大分県北部)一二万石を賜りました。
3.宇都宮鎮房 暗殺

豊前を賜ったはいいですが、豊前にいる宇都宮鎮房という強力な土豪を倒さなければ治めることができません。
そこで官兵衛は、鎮房を自分の館に新年の挨拶としておびき寄せて暗殺。できることなら、こんなことはしたくなかった。そんな思いで官兵衛は城内に鎮房を祀る社を建てました。
天正一七年(1589)官兵衛四四歳は、家督を子の長政に譲り、翌年の小田原征伐は秀吉に従い
北条氏政・氏直父子の降伏に貢献しました。
天下を統一した秀吉の次の目標は明国制圧。そのための本営として肥前名護屋(佐賀県)に築城を九州の諸大名に命令しました。
4.肥前名護屋の縄張り

日本軍進路と国王避難路
官兵衛は縄張り奉行として、名護屋築城普請に取りかかりました[註]。縄張りとは敷地に縄を張って石垣・堀の位置など城の平面構造を決めることです。
かくして秀吉が日本の諸将に朝鮮・明への出陣を命じ、文禄元年(1592)四月、小西行長・
加藤清正らの軍に続き官兵衛も渡海しました。
日本軍は釜山から破竹の勢いで北上して、僅か半月で首都ソウル(漢城)を制圧。小西行長・宗義智・黒田長政らは更に北上して同年六月一五日、平壌も制圧しました。
5.朝鮮での軍師官兵衛
首都ソウルを追われた国王宣祖と朝廷は明の国境・義州(イジュ)に入りました。そして同年六月一三日に明に援軍を要請、明は援軍を差し向けました。
これにより小西・宋・長政籠る平壌城は、祖承訓・史儒ら明軍に攻撃されますが、日本軍は銃撃を浴びせてこれを撃退しました。
これとほぼ同じ頃、ソウルに秀吉の命で朝鮮奉行の増田長盛・石田三成・
大谷吉継らが着陣。祖承訓の平壌攻撃は日本軍勝利といえど、ソウルの日本軍にも衝撃を与えました。
今後も予想される明の攻撃への対処を話し合う為ソウルで軍議が開催されると、オランカイまで出陣した加藤清正・
鍋島直茂以外のほぼ全ての大名が集まりました。
官兵衛は、兵力と兵糧を分散せずソウルの維持を第一とすべきと主張。しかし祖承訓を撃退した小西行長は明への進撃を主張。行長は平壌に帰ってしまいました。
6.秀吉の伝言

官兵衛は秋に病を患って一時帰国。
年明けの文禄二年(1593)一月六日、朝鮮では朝鮮の再来援として明提督・李如松が四万の兵を率いて小西・宋らが籠る平壌城を包囲しました。
小西・宋らは、圧倒的な明軍の兵の数と大砲の威力に敗退。朝鮮奉行から日本軍平壌撤退を受けた秀吉は、官兵衛と浅野長政を朝鮮へ派遣し、兵力再編の指示しました。
しかし官兵衛が朝鮮の日本軍に秀吉の指示を伝える前に、今度はソウルの日本軍が碧蹄館で李如松の攻撃に合い撃退するも、その後の幸州で権慄率いる朝鮮軍に敗北。
ソウルの日本軍はソウルからの撤退を決定しました。
7.第二次晋州城攻防戦
秀吉は撤退の許可を与える代わりに、義兵や一揆の象徴的存在となっていた前年に敗れた晋州城を再び攻撃することを厳命しました。
これにより文禄二年(1593)六月、第一隊の加藤清正・長政ら、第二隊の小西行長・宗義智・伊達政宗・浅野長政・官兵衛ら、第三隊の
宇喜多秀家・石田三成・大谷吉継ら日本軍九万二千に達する戦乱最大の大軍団が再び晋州城を囲みました。
一一日間の激戦の末、晋州城陥落、金千鎰はじめ主だった武将は全員戦死。城の中の兵士、民衆あわせて六万余りは全て虐殺にあい、生き残ったものはごく一部でした。
8.慶長の役と関ヶ原の戦い

一時停戦時を経て慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定めました。
これに伴い官兵衛五二歳と子の長政は再び渡海。官兵衛は総大将・小早川秀秋の補佐役でしたが、慶尚道梁山倭城に在って、しばしば明軍と戦いました。
秀吉が死去し帰国後、関ヶ原の戦いで官兵衛は徳川家康に与(くみ)しました。そして豊後石垣原において大友義統(よしむね)の軍と戦ってこれを破り、豊前小倉の毛利勝信を攻めて小倉城を陥落させ、北九州をほぼ平定。
しかし家康の命で水俣で兵を止めて豊前へ帰りました。関ヶ原の功により長政が筑前一国に移されると官兵衛も福岡に移りました。享年五九
9.人物評
柴田一雄氏[文献2]によれば、官兵衛は"石田三成らとは異なり内政よりも軍事に長じ、軍師として優れた能力を発揮した。"と評しています。また高柳光壽氏[文献3]によれば、"なほ孝高のことについては、従来誤り伝へられていることが非常に多いから注意を要することを一言して置く"としています。
私個人としては、秀吉の天下統一までは豊臣の中枢にあったけれど、三成台頭後は官兵衛よりむしろ家督の長政がよくも悪くも文禄・慶長の役で奮戦し、豊臣での黒田の存在感を示すことに成功したと思います。意外にこれ程コンビネーション抜群の親子というのは、ありそうでないかもしれません。
黒田官兵衛 相関図
黒田氏
- 祖父:小寺重隆
- 父:黒田職隆(もとたか)、母:(小寺政職の養女、明石宗和の娘)
- 妻:幸圓(こうえん:櫛橋伊定(くしはし-これさだ)の娘)
- 長男:長政
- 家臣:後藤又兵衛
豊臣政権
交渉相手
補註
文献1「黒田家譜 朝鮮陣記」(天正一九年)148頁 黒田家譜は江戸前期の儒学者・福岡藩士である貝原益軒が藩命により編纂した。
参考文献
- 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)
- 柴多一雄「黒田孝高」『国史大辞典4』(吉川弘文館、1984年)971-972頁
- 高柳光壽「黒田孝高」『日本人名大事典2』(平凡社、1979年)482-483頁
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 笠谷和比古・黒田慶一 『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役と関ケ原合戦』(文英堂、2000年)