プロフィール
琉球第二尚氏王統第七国王。
童名(わらびなー)思徳金(うみとくがね)、神号は日賀末按司添(てだがすえあじそえ)。
二六歳で即位。琉球国中山王は代々、冊封関係にあった中国より派遣される冊封使によって即位儀礼が執行される。
いまだ冊封使は訪れず、豊臣秀吉の服属要求という招かれざる客が訪れる。
詳細
1.二六歳で即位
尚寧は一五六四年(永禄七)生まれ。三代国王尚真の玄孫(孫の孫)で浦添王子と称しました。母は六代国王尚永の妹で、首里大君加那志(おおきみかなし)。
一五八九年(天正一七)一月に尚永が三一歳の若さで死去。嗣子がないため、長女の婿であり甥の尚寧二六歳が琉球第二尚氏王統第七国王に就いたと言われます。
琉球において即位儀礼は、冊封関係にあった中国より派遣された冊封使によって執行されました。
皇帝から琉球国中山王(ちゅうざんおう)として名指しされること――これによって琉球王国は王権を維持していました。
然しながら尚寧が即位しても、いまだ冊封使は訪れませんでした。
2.秀吉の服属要求
天正一五年(1587)に豊臣秀吉は、九州征伐において、薩摩の島津義久を降伏させ九州を平定。秀吉は義久を介して、琉球への服属を要求。
しかし尚永はいまだこれに応じずに死去。尚寧が跡を嗣ぎました。また秀吉の使者が琉球に訪れて、那覇久米村に居住する福建人こと久米村三十六姓・鄭迵(ていとう)に金を贈り、大明行きを請ずるよう要求。
鄭迵曰く「迵は倭に対し固辞して受けませんでした。」また「世子(尚寧)は迵の多言を見、また堅持して屈しませんでした。」[文献3]
同一七年五月、尚寧は明朝の塗物や琉球の作物などを献上したうえで秀吉に服属の意を示しました。
3.明へ通報
鄭迵は尚寧に「天朝(明)の厚恩を念(おも)い、小船一隻ならびに琉球の梶取を賜り(前掲書)」出帆することを願い出て、明へ国家の大難を報じました。
一方、秀吉の命を受けた対馬島主の宗義智と僧の景轍玄蘇らが朝鮮国へ渡海し、通信使派遣を再三要求。朝鮮も秀吉の明制圧の企図は察知していました。
しかし朝鮮朝廷は政治派閥が熾烈で、これを明へ報せるか否かも争いの種に。かくして朝鮮は琉球より遅れて明へ報せることになったのでした。
4.文禄・慶長の役
この頃のヨーロッパは大航海時代にあたり、琉球はアジアにおける一大中継交易拠点でした。
琉球は明と朝貢関係にあって、明にとっては琉球産の硫黄は火薬、琉球馬は物資の輸送に欠くことができない品でした。
文禄元年(1592)四月一三日、秀吉の命で日本の諸将が朝鮮へ侵攻。僅か半月で首都ソウル(漢城)を制圧すると、先鋒隊の小西行長らは更に北上して、平壌(ピョンヤン)城をに入城しました。
万暦帝は同年一〇月に提督・李如松を朝鮮に派遣することを決定。翌年一月六日、李如松が四万の兵を率いて平壌城を包囲。城内の日本軍一万五〇〇〇は、圧倒的な明軍の兵の数と大砲の威力に破れました。
琉球は島津義久からの朝鮮出兵に際して兵七千、兵糧十か月分の要求については、いくらかを届けて断ったそうです[註]。一方で思い出されるのが、朝貢としての明へ送っていた琉球産の硫黄と琉球馬。
平壌の戦いでは直接使用されないまでも、文禄・慶長の役の七年、琉球王国は意図的にせよ、結果的にせよ、明を軍事面から間接的に支えていたのではないでしょうか。
5.冊封使来琉
慶長三年(1598)八月に秀吉が死去し、翌年一一月に豊臣政権による朝鮮出兵が終結。
いまだ冊封を受けていない尚寧三五歳はこの年、長史(明の王府長史司)鄭道(ていどう)らを請封のため明に遣わし、翌年にも長史蔡奎(さいけい)、使者毛加鳳(もうじょほう)らを派遣しました。
万暦帝が冊封使任じた正使・夏子陽、副使・王士禎らが慶長一一年(1606)も来琉。尚寧は二六歳で即位し、四三歳になってようやく冊封を受けました。夏子陽はその時の滞在記を『使琉球録』に著しました。
6.島津氏の琉球侵攻
これに先立つ慶長八年(一六〇三)徳川家康は江戸に幕府を開き、断絶している日明勘合貿易について斡旋役として琉球に期待。
島津氏は、朝鮮出兵で膨れ上がった家臣団の知行問題などを抱えていました。島津氏の再三の琉球出兵要求を抑制していた幕府は、ついに琉球出兵を許可。同一四年(1609)三月、三〇〇〇の薩摩軍勢が琉球に侵攻。
琉球国にもある程度軍事組織は存在していましたが、島津軍に対抗しうる軍事力ではなく、首里城において尚寧王四六歳は降伏させられました。また首里城以前の中山王城・浦添グスクと、今帰仁グスク[図1]は焼き討ちにされ、そのまま廃城となりました。
将軍職を秀忠に譲っていた大御所家康は、琉球陥落の報に接すると即座に義弘の子で島津当主家久に琉球の仕置(しおき)権=支配権を与えました。
薩摩は奄美諸島を割(さ)き取り、琉球支配の基本方針である掟(おきて)一五カ条を制定。その契約書の署名を拒んだ、琉球の三司官(大臣)謝名利山(じゃな-りさん)は、義弘の命で殺害されました。
7.したたかな外交
鹿児島へ連行された尚寧王一行は、歴代国王始まって以来はじめて国外へ出て同一五年(1610)八月八日に駿府で家康に、二八日に江戸で将軍秀忠に謁見。
幕府は尚寧王一行を捕虜として処遇したのではなく、二年前の同一二年に来日した江戸期第一回朝鮮通信使とほぼ同じように待遇しました。
そのうえで幕府は、琉球をつうじて日明の国交回復=勘合貿易の復活を目指しましたが、尚寧政権はそれに従うことはありませんでした。また島津氏の琉球支配はスムーズに展開したわけでなく、尚寧王は裁判権に介入してきた島津権力に対して「日本の代(世)なり迷惑」と薩摩支配への反感をあらわにしました。
尚寧は、尚永王長女・阿応理屋恵按司加那志(あおりやえ あじかなし)を妃とするほか二夫人いましたが、嗣子ができませんでした。尚寧のあとは尚永王の兄弟・尚久の第四子尚豊を世子(世継ぎ)としました。享年五七。
尚寧 相関図
尚氏王統
- 伯父:尚永(第二尚氏 第六国王)
- 父:尚懿(しょうい)、母:尚永の妹(首里大君加那志)
- 尚寧王妃:尚永の長女(阿応理屋恵按司加那志)
- 世子:尚豊(尚永王の兄弟、第八国王)
- 味方:久米村三十六姓
ライバル
東アジアの国王
補註
文献3第1巻170頁・島津家文書(刊本三六〇 天正二十年正月十九日))において秀吉は、島津義弘・義久に対し、琉球の兵を与力として唐入りに召し連れて出陣すべきことを命じている。
参考文献
- 高良倉吉・田名真之 [編]『図説 琉球王国(ふくろうの本)』(河出書房新社、1993年)
- 田里修「尚寧」『国史大辞典7』(吉川弘文館、1985年)592頁
- 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)第1巻85頁より候継高編『全浙兵制孝』
- 安里進・田名真之・豊見山和行・西里喜行・高良倉吉『沖縄県の歴史(県史)』(山川出版社、2010年)
- 安里進『琉球の王権とグスク(日本史リブレット)』(山川出版社、2006年)