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戦国人物解説

脇坂安治(わきざか-やすはる)手勢のみで李舜臣に挑む水軍将

目次

プロフィール詳細:1.賤ヶ岳の七本槍

2.龍仁の戦い 3.閑山島海戦 4.慶長の役 5.晩年

相関図参考文献関連記事

プロフィール

脇坂安治
Yasuharu Wakizaka

脇坂氏の始祖。

文禄・慶長の役の水軍将。安治なしで救国の英雄・李舜臣は語れない。

秀吉の命で日本の諸将朝鮮へ侵攻。首都ソウル陥落後、ソウル奪還を目指して北上した朝鮮軍を、安治が龍仁(ヨンイン)で撃退した。

この余勢をもってして安治は、朝鮮水軍撃滅を目指す。巧妙を焦って手勢のみで、閑山島(ハンザンド)で李舜臣に挑む。

慶長の役では、安治ら日本水軍が漆川梁にて元均率いる朝鮮水軍を撃滅。鳴梁(ミョンリャン)で再び、李舜臣率いる朝鮮水軍に挑む――!

享年73(1554-1626)。同い年は金時敏藤堂高虎より2歳年上。

詳細

1.賤ヶ岳の七本槍

文禄年間 中国・四国諸大名配置図
図1:文禄年間 中国・四国諸大名配置図

脇坂安治安治は、天文二三年(1554)近江国浅井郡脇坂生まれ。母は田村景治の妹、父は景治の従弟・孫右衛門。母の再婚相手・脇坂安明の跡取りとなりました。

はじめ明智光秀明智光秀に属し、織田信長信長存命時から豊臣秀吉羽柴秀吉に属して姉川の戦い、三木城攻めに参陣。

天正一一年(1583)三〇歳の時、賤ヶ岳の戦い(VS柴田勝家柴田勝家)で加藤清正加藤清正福島正則福島正則加藤嘉明加藤嘉明らと共に賤ヶ岳の七本槍の一人として勇名を馳せました。

同一三年に淡路国州本城主として三万を領し、天正一八(1590)三七歳の時、小田原合戦で九鬼嘉隆九鬼嘉隆・加藤嘉明・長宗我部元親長宗我部元親らと共に水軍の将として伊豆国下田城を落としました。

2.龍仁(ヨンイン)の戦い

文禄の役地図_脇坂安治
図2:文禄の役 朝鮮全土関係図
龍仁・閑山島海戦など

秀吉の明国制圧の野望により、文禄元年(1592)四月一三日、第一軍の小西行長小西行長らが釜山に上陸すると、日本の諸将が続々と朝鮮へ侵攻

安治三九歳もこれに続き、日本軍は僅か半月で首都ソウル(漢城)を制圧。

ソウル陥落後、首都回復のために朝鮮南部の全羅・忠清・慶尚三道の朝鮮軍が総力を結集し北上。権慄(クォン・ユル)もこれに加わりました。

柳成龍懲毖録』によると「この時の三巡察使(軍権統括)は、みな文人で兵務に習熟せず、軍兵が多かったとはいえ命令(系統)が一つではなかった」。

そんな三道の朝鮮軍五万余を、安治率いる日本軍が同年六月六日、漢城にほど近い龍仁(ヨンイン)であっさり撃退しました。

3.閑山島海戦

そんなノリに乗っている安治に秀吉から朝鮮水軍の撃滅を命が下ります。

秀吉の期待を一身に背負って安治は、その余勢をもって九鬼嘉隆九鬼嘉隆加藤嘉明加藤嘉明らと共に漢城から南下し、彼らと共に出陣するはずでした。

閑山島海戦
図3:閑山島海戦

しかし安治は功名を焦って抜け駆けして手勢のみで同年七月八日、巨済島(コジェド)に出撃。

これに対して李舜臣李舜臣率いる朝鮮水軍は、見乃梁(キョンネリヤン)という細長い川のような狭い地形におとり船で、安治率いる日本水軍を誘(おび)き出す作戦に打って出ました。

これに引っかかった安治率いる日本水軍が、見乃梁を通り閑山島(ハンザンド)沖の広い海に出た時、 待ち構えていた朝鮮水軍が新たに完成させた亀甲船一一隻を加えた六〇余隻で猛攻。

日本軍は五九隻の兵船を失い、脇坂安治は九死に一生を得ました。損害が僅か四隻の朝鮮水軍の完勝でした。

4.慶長の役

鳴梁海戦
図4:鳴梁海戦

一時停戦を経て、慶長の役が始まると安治四四歳は再び朝鮮へ渡海。このころ李舜臣は、同僚の元均(ウォン・ギュン)の陰謀よって更迭され、元均が朝鮮水軍を率いていました。

慶長二年(1597)七月一六日、藤堂高虎藤堂高虎・安治・加藤嘉明が率いる日本水軍は漆川梁(チルチョンリャン)にて元均率いる朝鮮水軍を撃破。

元均敗死し、李舜臣が作り上げた朝鮮水軍はこの一戦でほぼ壊滅しました。しかしこれにより、李舜臣が朝鮮水軍最高司令官(統制使)として復帰。

同年九月一六日の鳴梁(ミョンリャン)海戦で、藤堂高虎・安治・加藤嘉明・来島通総来島通総ら率いる日本水軍一三三隻は、李舜臣率いる朝鮮水軍一三隻に挑みました。結果はまさかの日本軍惨敗。来島通総に至っては戦死しました。

慶長三年八月には秀吉が死去。同年一一月、李舜臣・陳璘率いる朝鮮・明連合水軍は、帰国せんとする島津義弘島津義弘らの船団を露梁(ノリャン)海峡にて撃破して、この長い戦争は幕を閉じました。

5.晩年

関ヶ原合戦直前の諸大名配置図
図5:関ヶ原合戦直前の諸大名配置図

慶長五年(1600)九月の関ヶ原の戦い。安治四七歳は西軍に従いました。

しかし密かに徳川家康家康に通じ、小早川秀秋小早川秀秋らとともに東軍に寝返り、味方であったはずの西軍大谷吉継大谷吉継の部隊を攻撃しました。

戦後は家康の命により、敗戦の将・石田三成石田三成の佐和山城を攻撃。同一四年(1609)安治五六歳は、淡路国州本から転じて伊予国大洲城主になりました。享年七三。

安治を始祖として脇坂氏は、小藩の外様大名でしたが江戸後期の安董(やすただ)の代に譜代になり、安董(やすただ)・安宅(やすおり)は老中まで務めました。

安治は韓国の大河ドラマ『不滅の李舜臣』や映画『バトル・オーシャン 海上決戦』に登場しているため、日本よりむしろ韓国で知られた人物だと思います。特に『不滅』は、ワキジャカしか記憶に残らない。というのは大袈裟ですが、役者さんが熱演しています。

脇坂安治 相関図

脇坂氏

  • 父:田村孫右衛門、母:田村景治の妹
  • 養父:脇坂安明。母の再婚相手。
  • 次男:安元、三男:安信ほか安方

播磨(兵庫県)竜野藩

  1. 安政:堀田正盛の次男。安元の養子。養父の弟・安方に二〇〇〇石を分与する。実弟・堀田正俊が大老になったのを機に願(ねがい)譜代となる。
  2. 安照:安政次男。播磨竜野藩二代。
  1. 安董(やすただ):同藩八代。譜代となる。老中。
  2. 安宅(やすおり):安董次男。同藩九代、幕末の老中。

文禄・慶長の役

関ヶ原の戦い

参考文献

関連記事:脇坂安治

肖像素材イラスト晩秋寅男