朝鮮軍(조선군)
豊臣秀吉の明国制圧の野望により、朝鮮へ侵攻した日本の大軍勢に屈せずに立ち向かう。
国王(왕)
宣祖(ソンジョ,선조)
王世子(왕세자)
光海君(クァンヘグン,광해군)
戦争の最中、宣祖が万一に備えて光海君を世継ぎと定め分朝の命を下す。宣祖は明の国境まで避難、一八歳の光海君は留まって義兵を奮起する。
朝廷(조정)
政治派閥党争が熾烈。改革派・東人は柳成龍、金誠一、李徳馨など。保守派・西人は左議政(副首相)尹斗寿(ユ・ドウス)、通信使 黄允吉(ファン・ユンギル)など。
柳成龍(ユ・ソンリョン,류성룡)
領議政(宰相)。李舜臣や権慄など名将を登用。明軍の兵糧調達や義兵との連合工作などに奔走し、平壌城奪回を目指す。
金誠一(キム・ソンイル,김성일)
戦争前に通信副使として来日。帰国後、国王に「秀吉の出兵はない」と報告。柳成龍の弁護により招諭使となり義兵活動で活躍する。
李徳馨(イ・ドキョン,이덕형)
戦争前に、秀吉の命で通信使派遣を求め来朝した宗義智一行を宣慰使として応対。戦争が始まると、三二歳の大司憲にして景轍玄蘇と大同江で船を浮かべて会談する。1561生-1613没。
陸軍(육군)
権慄(クォン・ユル,권율)
朝鮮全軍 最高司令官(都元帥)。幸州山城で朝鮮軍一万を指揮して日本軍三万に挑む。また蔚山倭城に籠る加藤清正には明軍との連合で挑む。
金時敏(キム・シミン,김시민)
慶尚道晋州の市長(牧使)。晋州城が日本の二万の大軍に包囲されると、三千八千の兵を指揮して奮戦。日本ではもくそ判官として有名人物。
沙也可(さやか/金忠善,김성일)
降倭領将。清正軍の先鋒将として渡海したが、意義を感じられず投降。以後、朝鮮軍として日本軍に捕らわれた人々を奪回する。
水軍(수군)
海岸防衛の為の軍事施設・全羅左水営(南海岸)は李舜臣、慶尚右水営(東海岸)は元均が司令官=水使(正三品)。その下に僉使(従三品)、虞候(正四品)、万戸(従四品)らが続く。
全羅左水営(전라좌수영)
李舜臣(イ・スンシン,이순신)
全羅左水使。のちに朝鮮水軍最高司令官(統制使)。卓越した統率力と知略で日本軍に挑み、朝鮮の危機を救う。
金浣(キム・ワン,김완)
蛇渡僉使。最初の(玉浦)海戦から最後の(露梁)海戦まで李舜臣を支え、この戦争を『龍蛇日禄』に記した。
李純信(イ・スンシン,이순신)
防踏僉使。李舜臣と名前の発音が同じ赤の他人だが、金浣と同じく最初から最後の戦いまで李舜臣を支えた。
権俊(クォン・ジュン,권준)
順天府使。李舜臣を補佐していたが、舜臣が元均に貶められて統制使の職から外れると、自身も水軍の職を辞す。李舜臣が復帰すると、再び李舜臣と共に日本軍と戦う。
鄭運(チョン・ウン,정운)
鹿島万戸。水軍将として活躍したが釜山浦開戦で戦死。李舜臣は「国家、右臂を失せり」と痛惜した。韓国海軍の潜水艦「鄭運」は彼にちなんで付けられた。
慶尚右水営(전라우수영)
元均(ウォン・ギュン,원균)
慶尚右水使。李舜臣の水営と連合で日本水軍を連戦撃破。そのあと李舜臣を陥れ、朝鮮水軍最高司令官に就任。李舜臣なしで日本水軍に挑むが…
義兵将(의병장)
神出鬼没で現れる義兵は日本軍に慢性的なストレスを与え続けた。
郭再祐(クァク・チュウ,곽재우)
名家の子息で、官職には就かずに田園生活を送っていたが、慶尚道の自分の村に日本軍が侵入すると私財を投げ打って朝鮮初の義兵を起こす。
鄭文孚(チョン・ムンブ,정문부)
咸鏡道の武官(正六品)。加藤清正が咸鏡道を支配すると義兵を決起。鏡城を落とし、吉州城を包囲し清正・鍋島直茂を追い詰める。
李廷馣(イ・ジョンアム,이정암)
学者(학자)
姜沆(カン・ハン,강항)
明軍(명군)
朝鮮を救うべく明は援軍を派遣。文禄の役(壬辰倭乱)と慶長の役(丁酉再乱)で派遣した指揮官や部隊等が基本的に異なる。(名前などの読みはカタカナの他、ハングル表記しています。)
皇帝(황제)
万暦帝(ばんれき-てい/만력제)
一〇歳で即位。官吏は読書人に成長した皇帝を規範内に納めようとしたので、長期サボタージュで対抗する。
文禄の役 派遣部隊(임진왜란 파견부대)
李如松(り-じょしょう/이여송)
提督として四万の兵を率いて小西行長が籠る平壌城を包囲して攻撃。南下し碧蹄館で小早川隆景・立花宗茂ら日本軍に挑む。
沈惟敬(しん-いけい/심유경)
外交家。小西行長と和議の交渉に奔走し、冊封使節として来日。秀吉に謁見した際、一連の偽装工作が露見し、日本軍再出兵の契機となった。
慶長の役 派遣部隊(정유재란 파견부대)
楊鎬(よう-こう/양호)
経略。文官の指揮官で黒田長政ら日本軍ソウル再侵入阻止を指令。加藤清正籠る蔚山倭城は朝鮮軍と共に六万の大軍で包囲した。
麻貴(ま-き/마귀)
提督。慶長の役 武官トップ。ソウル放棄計画を企て、上官の楊鎬に咎められる。その後は楊鎬と共に蔚山倭城を包囲、奮戦する。
劉綖(りゅう-てい/유정)
文禄の役から出兵し、慶長の役では禦倭総兵官として小西行長籠る順天倭城を朝鮮軍と共に包囲。しかし日本軍の猛攻に戦意喪失してしまう。
陳璘(ちん-りん/진린)
水軍都督。秀吉が死去し日本軍の帰国が始まると、李舜臣と共に追撃。露梁津で島津義弘ら日本軍に挑み、七年に及ぶ戦争の決着をつける。
解説
科挙と文官統制
李氏朝鮮王朝の役人はきほん的に、文官も武官も科挙(官吏登用試験)の合格者です。
また文官統制(シビリアン‐コントロール)のため、武官の権力は最小限に抑えられていたので李舜臣のような優秀な武官でも、文官に逆らうことはできません。
朝鮮が手本とした明は科挙は勿論、文官統制の家元。家元らしく?日本軍再出兵(慶長の役)の際、文官の楊鎬が武官の提督・麻貴を従えて黒田長政や加藤清正などの日本軍に果敢に挑みました。
このページで取り上げた朝鮮・明軍の面々は、日本では全く馴染みのない人物ですが、韓国では知られた人物だと思います、たぶん。豊臣秀吉の朝鮮侵攻という大惨事に、朝鮮の人々や明の援軍がどのように立ち向かったのか、是非チェックしてみてください。
参考文献
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)
- 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)
- 上垣外憲一『文禄・慶長の役-空虚なる御陣』(講談社、2002年)
- 岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』(中央公論社、1998年)