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戦国人物解説

来島通総(くるしま-みちふさ)李舜臣に挑んだ村上水軍の雄

目次

プロフィール詳細:1.偉大なる父 2.大坂 木津川口の戦い

3.能島水軍との戦い 4.海賊から大名へ 5.李舜臣に挑む兄弟

6.鳴梁海戦相関図関連記事参考文献

プロフィール

来島通総
Mitifusa Kurushima

伊予国の戦国大名。幼名・牛松丸、通称・助兵衛。

救国の英雄・李舜臣と全面対決した村上水軍の雄。

毛利元就から頼りにされていた来島城主の父・通康が病死すると、僅か七歳で家督を継ぐ。

第二次木津川口海戦では織田勢として九鬼嘉隆水軍と共に毛利水軍を破り、秀吉の四国征伐で軍功を立てると大名となる。

秀吉の朝鮮出兵において、兄・通之と共に李舜臣率いる朝鮮水軍に挑む――!

享年38(15611597)。同い年は福島正則井伊直政藤原惺窩

詳細

1.偉大なる父

天正期の瀬戸内海周辺諸国地図
図1:天正期の瀬戸内海周辺諸国

来島氏は、伊予野間郡来島(愛媛県今治市)を本拠とした海賊衆。

村上通康(みちやす)は、伊予守護の河野通直(こうの-みちなお)に属し、娘婿となりました。永禄四年(1561)通康の四男として来島通総通総が誕生。

河野氏と関係が深い村上水軍は、能島(のしま)・来島(くるしま)・因島(いんのしま)の三氏あり、この三島村上氏は一致団結していたわけでなく緩やかな同盟関係にありました。

父通康が、弘治元年(1555)毛利元就毛利元就VS陶晴賢の厳島の戦いに参戦したかはわかっていませんが、その後の陶氏残党掃討戦、豊後沖の海戦に同盟関係から加勢。その功績は毛利氏にとって多大でした。

永禄一〇年(1567)父通康四九歳が病死。通康の死は毛利氏にとって痛恨の一大事でしたが、翌年には元就も死去。通康の死により通総は、僅か七歳で来島城主なり、また通総の代から村上から来島を名乗りました。

2.大坂 木津川口の戦い

元就死後の家督を継いだ毛利秀元輝元は、天正四年(1576)四月、織田信長織田信長に追われた第一五代将軍・足利義昭足利義昭を迎え、石山本願寺と結んで信長との対決を決意。

小早川隆景小早川隆景は厳島の戦い同様、三島村上水軍に応援を要請。能島と因島村上水軍は毛利に加勢することになりましたが、一六歳の当主通総率いる来島村上水軍は織田氏に加勢することになりました。

三島村上水軍@木津川口の戦い

  • 能島:毛利氏に加勢
  • 来島:織田氏に加勢
  • 因島:毛利氏に加勢

同年七月の第一次木津川口海戦は、毛利水軍が織田水軍を破り石山本願寺に兵糧を運ぶことに成功しました。。しかし同六年一一月の第二次木津川口海戦は、九鬼嘉隆九鬼嘉隆が建造した甲鉄戦艦と来島村上水軍の活躍により、毛利水軍を破りました。

水軍

3.能島水軍との戦い

能島は、村上武吉を当主として日本最大の海賊と恐れられていました。

しかし来島のように主体的に土地に基盤をおかなかった能島氏は、信長の瀬戸内海進出によって毛利氏に頼らざるをえなくなってしまいました。

天正一〇年(1582)通総二二歳の時、来島は主家河野氏に離反して豊臣秀吉羽柴秀吉に属しました。木津川口の戦いで来島憎しの毛利は、因島に加えて能島と河野氏も味方につけて来島を攻撃。

来島は能島の攻撃に苦戦を強いられましたが、時代はもはや毛利でも海賊能島でもありません。秀吉は本能寺の変を知ると直ちに毛利氏と和睦し、山崎で明智光秀明智光秀軍を撃破しました。

4.海賊から大名へ

文禄年間 中国・四国諸大名配置図
図2:文禄年間 中国・四国諸大名配置図

秀吉が天下統一のため同一三年、四国征伐に踏み切ると、通総は兄の得居通之(とくい-みちゆき)とともに小早川隆景の指揮下にあって軍功を立てました。

この戦功により通総は伊予国野間・風早両郡で一万四千の大名に取り立てられ、兄通之は三〇〇〇石の所領を与えられました。

伊予河野氏当主・通直(みちなお)は、これに降伏して領国を喪失。

天正一六年七月には秀吉が「海賊禁止令」を発布。組織的な海賊衆は史上から姿を消え、能島・因島村上氏は毛利の一家臣に収まることとなりました。

5.李舜臣に挑む兄弟

文禄の役地図_来島通総
図3:文禄の役 朝鮮全土関係図
日本軍進路と主な海戦

そのあと秀吉の九州征伐小田原征伐にも水軍と従軍。

文禄元年(1592)四月、通総三二歳は兄の通之三六歳と共に第五軍四国勢の福島正則福島正則長宗我部元親長宗我部元親に属して朝鮮へ渡海しました。

第五軍は、釜山と首都ソウル・漢城の中間点の忠清道にて兵站の保全と輸送が主な任務。

しかし藤堂高虎藤堂高虎率いる日本水軍が玉浦で李舜臣率いる朝鮮水軍に撃破されたのを皮切りに連戦連敗すると、秀吉の命によって来島兄弟は水軍に配置替えに。

同年六月七日、村上水軍の雄は満を持して李舜臣李舜臣率いる朝鮮水軍に挑みますが、巨済島南部・栗浦にて破れ、兄・通之は戦死しました。

6.鳴梁海戦

一時停戦を経て、慶長の役で通総三七歳は、再び朝鮮へ渡海。このころ李舜臣は、同僚の元均の陰謀よって更迭されて元均が朝鮮水軍を率いていました。

慶長二年(1597)七月一六日、藤堂高虎藤堂高虎脇坂安治脇坂安治加藤嘉明加藤嘉明が率いる日本水軍は漆川梁(チルチョンリャン)にて元均率いる朝鮮水軍を撃破。元均は戦死、李舜臣が作り上げた朝鮮水軍はこの一戦でほぼ壊滅しました。

鳴梁海戦
図4:鳴梁海戦

同年九月一六日、藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明・通総らが兵船一三三隻が鳴梁(ミョンリャン)海峡に迫りました。

対する李舜臣李舜臣率いる朝鮮水軍は一三隻。通総に兄の仇(かたき)を討つ機会が訪れました。

しかし鳴梁の潮流を熟知していた朝鮮水軍に苦戦。朝鮮水軍一三隻に日本水軍一三三隻は惨敗し、戦闘中に通総は戦死しました。

能島・因島と違っていち早く脱海賊に成功した来島に見えましたが、結局のところ三島の中で最も海賊にふさわしい死に様を見せた通総。その死は村上水軍の歴史と共に鳴梁海峡の底に沈んでいったのでした…

通総は、韓国の大河ドラマ『不滅の李舜臣』や映画『バトル・オーシャン 海上決戦』に登場しています。それもあって、韓国では知られた人物だと思います。この二作品を通して、韓国の人から見る通総をぜひ堪能してみてください。

来島通総 相関図

久留島氏

  • 父:来島通康、母:河野通直の娘
  • 兄:得居通之(とくい-みちゆき)
  • 甥:毛利秀元(父通康の娘の子)

豊後(大分県)森藩

  1. 来島長親(ながちか):通総の子。関ヶ原では西軍に属す。のち許され、豊後森に移り一万四〇〇〇石。享年三一。初名は康親(やすちか)。
  2. 久留島通春:長親の子。久留島と改姓。享年四九。以降、同藩久留島氏は幕末に至る。

木津川口の戦い

文禄・慶長の役

参考文献

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来島通総:肖像素材イラスト