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戦国人物解説

李舜臣(イ・スンシン,이순신/り-しゅんしん)サムライに挑んだ無敵の朝鮮水軍将

目次

序文プロフィール詳細:1.ソウル陥落 2.最初の海上戦

3.生い立ち 4.亀甲船の建造 5.閑山島海戦 6.統制使となる

7.元均の大敗北 8.鳴梁海戦 9.順天の戦い 10.最期の戦い

相関図参考文献関連記事

序文

咨(ああ)、爾(なんぢ)舜。天の暦数、爾の躬(み)に在り。允(まこと)其の中を執れ。四海困窮し、天禄永く終(を)へん。『論語』堯曰

プロフィール

李舜臣/이순신
이순신/Yi Sun-shin

朝鮮王朝 水軍司令官(全羅左水使)。救国の英雄。著書に『乱中日記』。

両班(ヤンバン)と呼ばれる貴族階級出身で、32歳の時に武科に合格。

豊臣秀吉の命により日本軍朝鮮へ侵攻すると、巧みな戦術と卓越した統率力で朝鮮水軍を率いて日本水軍を度々撃退する。

この功により水軍の最高司令官(統制使)となるも、同僚の元均に陥れられ、職を解かれて日本との一時停戦時を一兵卒として過ごす。

日本軍再び朝鮮に侵攻。李舜臣の、大逆襲がここから始まる――

享年54(1545-1598)。

同い年は浅井長政板倉勝重山内一豊徳川家康柳成龍より3歳年下。

詳細

1.ソウル陥落

文禄の役 朝鮮全土関係図
図1:文禄の役 朝鮮全土関係図
国王避難路と日本軍進路

豊臣秀吉豊臣秀吉明国制圧の野望により、日本の諸将朝鮮へ侵攻文禄元年(1592)四月一三日、第一軍の小西行長小西行長が釜山(プサン)に上陸。

軍神の血祭りだと言って朝鮮の女男、犬猫まで無差別虐殺して、釜山鎮を陥落させました。

続いて第二軍加藤清正加藤清正、第三軍黒田長政黒田長政、第四軍島津義弘島津義弘、第五軍福島正則福島正則、第六軍の小早川隆景小早川隆景ら、日本の諸将が次々に朝鮮に上陸。

破竹の勢いで北上する日本軍に、首都ソウル(漢城)の朝廷はなすすべがなく、国王宣祖は避難することとなり、 都を捨てて大雨の中を平壌(ピョンヤン)に向かいました。

これにより小西行長と加藤清正は、ほとんど無血のまま漢城に入城。日本軍が朝鮮に上陸して、たった半月余りの出来事でした。

2.最初の海上戦―玉浦海戦

玉浦海戦(VS藤堂高虎)
図2:玉浦海戦

もはや朝鮮もこれまでか――

都の漢城が日本軍の手に渡った四日後の同年五月七日。

ついに朝鮮水軍の司令官である全羅左水使(チョルラチャスサ,正三品李舜臣李舜臣が、七四隻の兵船を率いて朝鮮の海に現れました。

かくして巨済島(コジェド)玉浦(オクポ)に停泊していた日本水軍・藤堂高虎藤堂高虎率いる五〇余隻に大砲を浴びせました。

この奇襲に対し、藤堂高虎は二六隻もの船を喪失。しかし朝鮮水軍は一隻失ったのみ。朝鮮軍が日本軍に初めて勝利し、日本軍が朝鮮軍に初めて敗北した瞬間でした。

この玉浦海戦を皮切りに李舜臣は戦火に苦しむ朝鮮のため、日本の武将に挑み続けます。この男一体何者!?

初心者マーク

3.生い立ち

李舜臣は両班(ヤンバン)の李貞の三男として、仁宗元年・天文一四年(1545)漢城乾川洞(現 ソウル市仁峴)に生まれました。 八歳の時に一家は母の実家である忠清道・牙山にお引っ越し。

はじめ科挙(官吏登用試験)文科を目指していましたが、二二歳で武科を目指すことに。李舜臣は三二歳で武科に合格し、三〇代は朝鮮各地に飛ばされては赴任先で国防に励む日々を送りました。

四二歳でオランカイ(中国東北部)との国境地帯・咸鏡道造山堡の長に就任。女真族の頭目二人を射殺しましたが、これを独断専行とした上官・李鎰の命令により白衣従軍(一兵卒として従軍)として過ごしました。

四四歳で職を辞し牙山に帰郷。しかし翌年、推薦者があり全羅道井邑県監(ヒョンガム,従六品)に就任。

四七歳の時に古くからの友人で朝廷の中心人物でもある柳成龍の推挙で、全羅左道(チョンラジャド)海岸防衛の長官・全羅左水使(チョルラチャスサ,正三品)に階級七段跳びで大抜擢されました。

然しながら李舜臣、それまでの海上での実戦経験はほとんどありませんでした。

4.亀甲船の建造

亀甲船
図3:亀甲船

全羅左水使となった李舜臣は、朝鮮南海岸の全羅左水営にて、間もなく上陸してくるという日本軍を海で撃退すべく、亀甲船の建造に着手。

亀甲船とは李舜臣が考案したとされる朝鮮水軍の砲艦です。前方に龍頭をつけ、その口から大砲を放ち、 船全体を無数の鉄の針を取り付けた屋根で覆い、敵が飛び乗れないようにしました。

また兵員を編成、訓練を行い、海流や潮の干満、日本のことなどを調べ上げました。

全羅左水使となってから約一年後、ついに朝鮮の海に侵攻してきた日本の藤堂高虎率いる水軍を上記の通り巨済島・玉浦で撃破。綿密な準備なくして成し遂げられなかった勝利でした。

玉浦海戦から二二日後の泗川(サチョン)海戦では、完成した亀甲船が登場。亀甲船の活躍もあって、朝鮮水軍は日本水軍に再び大打撃を与えることに成功しました。

5.閑山島海戦

閑山島海戦
図4:閑山島海戦

泗川海戦から一か月余り経った閑山島(ハンザンド)海戦では、日本水軍の将として脇坂安治脇坂安治が李舜臣に挑みました。

李舜臣率いる朝鮮水軍は、見乃梁(キョンネリヤン)という細長い川のような狭い地形におとり船で日本水軍を誘(おび)き出しました。

これに引っかかった脇坂安治率いる日本水軍七〇余隻が、見乃梁を通り閑山島沖の広い海に出た時、待ち構えていた朝鮮水軍が新たに完成させた亀甲船一一隻を加えた六〇余隻で猛攻。

日本軍は五九隻の兵船を失い、脇坂安治は九死に一生を得ました。朝鮮側の損害は僅か四隻で、朝鮮水軍の完勝でした。

脇坂の救援に九鬼嘉隆九鬼嘉隆加藤嘉明加藤嘉明が船を率いて駆けつけましたが、劣勢を知ると安骨浦(アンゴルポ)に引き揚げます。 しかし朝鮮水軍は安骨浦の九鬼・加藤らを襲撃、これも撃破しました。

兵糧不足

6.統制使となる

このころ朝鮮内陸では朝鮮の義兵闘争が盛んになり、また朝鮮の要請で明国が援軍を派遣。 日本軍は一進一退を繰り返していました。

海上では李舜臣の活躍により、朝鮮南海岸の制海権は完全に朝鮮水軍が掌握。ついに日本軍は深刻な兵糧不足となり、撤退が決定されました。

日本と朝鮮は休戦状態となり、閑山島海戦から約一年が経った頃、日本軍の帰国が相次ぎました。

一方、李舜臣は慶尚・全羅・忠清三道をまとめる三道水軍統制使(スグントンジェサ)という朝鮮水軍の最高司令官に昇進しました。

7.元均の大敗北

慶長の役_主な戦い
図5:慶長の役_主な戦い

慶長二年(1597)二月、秀吉が日本の諸将に対して朝鮮再出兵の陣立てを定めました。

これに先立つ同年一月、李舜臣の同僚である元均が李舜臣を陥れ、元均が三道水軍統制使に任命されました。

元均は李舜臣が定めた制度を皆廃止、李舜臣の信任した副将・士卒も皆追放。李舜臣は獄に繋がれたあと、朝鮮軍司令官長権慄の元で白衣従軍(一兵卒として従軍)として過ごしていました。

同年七月、元均率いる朝鮮水軍は漆川梁(チルチョンリャン)で日本水軍の藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明・島津義弘らに大敗。元均敗死。 李舜臣が作り上げた朝鮮水軍はこの一戦でほぼ壊滅してしまいました。

8.鳴梁海戦

鳴梁海戦
図6:鳴梁海戦

これにより李舜臣は三道水軍統制使に復帰しましたが、元均の大敗により手元に残された兵船は僅か一三隻。

幸いその中に亀甲船がありましたが、大変厳しい局面に立たされました。 この頃の様子については、柳成龍著『懲毖録』(ちょうひろく)にはこう記されています。

「舜臣は珍島に到着し、兵船を収拾して一〇余隻を得た。この頃、沿海の人で船に乗って乱を避ける者がいたが、舜臣がやって来て大喜びしない者はいなかった。

舜臣が各方面から(難民を)招き寄せたところ、遠近を問わず雲のように集まったので、軍の背後に置いて陰の力にさせた。」

同年九月、藤堂高虎・脇坂安治・加藤嘉明・来島通総来島通総ら率いる日本水軍一三三隻が鳴梁(ミョンリャン)海峡に迫ってきました。 一三隻対一三三隻。一〇倍以上の敵に果たして勝てるか――

李舜臣は自軍の諸将らに「死を必(なしと)げんとすれば即ち生き、生を必(なしと)げんとすれば即ち死す」 (死を覚悟した者は生き、生きようともがけば死ぬ)と申し渡して戦闘態勢に入りました。 かくして自軍にとっても難所である鳴梁海戦の西側に、東から攻めて来る日本水軍を誘い込む作戦に出ます。

海戦の当初、潮流は東から西に向かい、朝鮮水軍にとっては逆流で苦しい戦闘を強いられました。しかし潮流が西から東に代わると、潮の流れに乗った朝鮮水軍の大逆襲が始まります。

これにより日本側は多くの兵船三一隻を失い、来島通総は戦死、藤堂高虎は負傷。朝鮮水軍は奇跡の大勝を得ました。

9.順天の戦い

順天の戦い
図7:順天の戦い

一方陸上の明・朝鮮連合軍は、蔚山倭城を包囲。加藤清正以下城内の日本軍を大いに苦しめ、これ以降、一気に日本軍は戦線縮小に傾きました。

慶長三年九月二〇日、明軍の劉綖陳璘、朝鮮軍の権慄との連合軍は、小西行長小西行長らの順天倭城を囲み水陸から挟撃しました。しかし日本軍の応戦激しく、多くの明兵が喪失すると劉綖が戦意喪失。これにより順天倭城を落とすことができませんでした。

これに先立つ同年八月、ついに豊臣秀吉が死去。これに伴い日本軍の帰国が始まりました。

秀吉が死去したことを陳璘を通して知った李舜臣。戦争が収束に向かっていても日本軍を生きて帰してちゃおけねえ。

という信念を持つ李舜臣は陳璘と共に、 順天の小西行長の帰国の退路を断つことを決意しました。

10.最期の戦い-露梁海戦

露梁の海戦
図8:露梁海戦

身動きの取れない小西行長の救援に同年一一月、島津義弘島津義弘を筆頭に立花宗茂立花宗茂宗義智宗義智ら約五〇〇隻の大船団が南海から露梁(ノリャン)に迫りました。

これに対して陳璘と李舜臣は、明・朝鮮軍合わせて約五〇〇隻の兵船を左右に分けて夜襲をしかける作戦で日本軍を待機。

島津義弘率いる兵船が露梁津の海峡に至ると、明・朝鮮の水軍は左右から砲撃を加えました。

戦いは翌日まで続き、李舜臣の船を日本の船団が囲むと陳璘は危険を犯して救います。今度は陳璘の船が日本の船団が囲むと李舜臣の船が救援に向かいました。

更に李舜臣の大将船がひとり飛び出して奮戦、混戦に。その時、島津勢が発した銃弾が李舜臣の胸中に命中。自分の死を敵に悟られないよう、甥に言い残して李舜臣は息絶えました。

この戦闘中、小西行長は順天から脱出しましたが島津勢は多数の死傷者を出し、こうして七年もの間の長い戦争の幕が閉じました。柳成龍『懲毖録』には李舜臣への哀惜の念がこう綴られています。

「舜臣の人なりは、言葉かずが少なく、むやみに笑いもしなかった。容貌は雅(みやび)やかにととのい、謹厳な学者のようであったが、しかし心中には胆力、勇気をそなえ、一身をなげうって国に殉じたのであった。これは、彼がひごろから積み蓄えてきたものであった。」

李舜臣 相関図

父母

  • 父:李貞(京畿道開豊郡徳水の李氏)
  • 母:草渓の卞氏

朝鮮国

明国

日本

参考文献

関連記事:李舜臣