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戦国武将解説

西笑承兌(さいしょう-しょうたい)秀吉の朝鮮出兵を支えた禅宗トップ

目次

プロフィール

詳細:1.僧録とは 2.秀吉を「日輪の子」と命名

3.朝鮮征伐檄文を起草 4.明国書をそのまんま読み上げる

5.大仏大破 6.大施餓鬼会

7.相国寺のもう一人の「大物」

相関図関連記事参考文献

プロフィール

西笑承兌
Syodai Saisyo

豊臣秀吉のブレーンで、文禄・慶長の役では大本営発表的な役割を担う。

臨済宗相国寺の禅僧。第五〇世鹿苑僧録(ろくおんそうろく)=室町幕府の外務官僚で、これに就任にすると秀吉に接近する。

中国歴代王朝の歴史を踏まえ、秀吉=「日輪の子」と秀吉に入れ知恵。文禄の役では肥前名護屋で諸大名宛てに檄文を起草。

和議交渉のため、明皇帝からの国書を携えた沈惟敬らが来日。その国書を承兌は秀吉の前で、書いてある通りに読み上げたことにより和議が破たん。

朝鮮再出兵となり、朝鮮より大量の鼻が送られくると、秀吉から大施餓鬼会(せがきえ)を行うよう命が下る――

享年60(生1548-没1607)。本多忠勝榊原康政・北政所と同じ年。秀吉より11歳年下。

詳細

1.僧録(そうろく)とは

西笑承兌承兌は、臨済宗真如寺(しんにょじ)において出家。相国寺(しょうこくじ)の仁如集堯(にんじょしゅうぎょう)に詩文を学びました。

相国寺は、京都市にある臨済宗相国寺派の大本山で、末寺一〇〇寺余を擁します。足利義満が創建し、京都五山(禅宗の臨済宗で格式の高い五つの寺)の第二位に列します。寺内にある鹿苑院(ろくおんいん)は、足利義満の修禅道場で、その院主は歴代僧録司(そうろくし)として禅宗寺院を統括しました。

承兌は、天正一二(1584)年に相国寺第九二世住持(住職)となり、翌年三八歳の時に第五〇世鹿苑僧録(ろくおんそうろく)に就任。鹿苑僧録(=僧録司)は、五山文学僧でもあり、五山に代々蓄積された博識によって、室町幕府の対明文書の起草にあたるという外務官僚でもありました。

鹿苑僧録に就任した承兌は、凋落しつつあった相国寺の復興すべく豊臣政権に接近。その知識をもって、外交文書の作成に携わっていきました。

2.秀吉を「日輪の子」と命名

東アジア地図
図1:東アジア各国関係図

天正十八年(1590)、明国制圧を目論む豊臣秀吉豊臣秀吉は、明国の通り道となる朝鮮に国王・宣祖(ソンジョ)の参内を二度三度と要求しました。

余りにしつこいので朝鮮は、秀吉の天下統一の祝賀の為ということで通信使の正使・黄允吉(ホワン・ユンギル)、副使・金誠一らを選任。

来日した通信使らは同年十一月七日、京都・聚楽第において秀吉と会見しました。

通信使は、朝鮮国王が秀吉に宛てた日本六〇余州統一の祝賀に対する国書を差し出しましたが、秀吉の返書は無礼なものでした。

「自分が母の胎内に宿った時、母は日輪(=太陽)が懐中に入った夢を見た。子である自分は日本全国の統一で満足していない。朝鮮は自分のもとへ服属したので、憂うことはない。自分が明へ兵を出すとき、士卒を将いて軍営に臨めば、更に臨盟が固まるであろう。」

この返書の制作者こそが承兌でした。漢王朝の始祖・劉邦(りゅうほう)やモンゴル帝国の始祖テムジンなど中国歴代王朝の始祖には「日輪の子」とする神話があり、これを踏まえて承兌が秀吉を「日輪の子」とせしめたのでした。

3.朝鮮征伐檄文を起草

朝鮮全土_文禄の役緒戦
図2:文禄の役 朝鮮全土関係図
日本軍進路と国王避難路

秀吉の明国制圧の野望により、文禄元年(1592)四五歳の承兌は、秀吉に共し日本本営の肥前名護屋(佐賀県)へ赴きました。

同年四月十三日、日本の諸将朝鮮へ侵攻小西行長小西行長加藤清正加藤清正らを先鋒に破竹の勢いで北上して僅か半月で都ソウル・漢城を制圧。

秀吉自身も渡海を望みましたが、徳川家康徳川家康前田利家前田利家ら押しとどめた結果、秀吉の代わりに、石田三成石田三成大谷吉継大谷吉継ら豊臣奉行衆が渡海することになりました。

同年六月三日、奉行衆の出発の際に秀吉は承兌に朝鮮在陣の諸大名宛ての檄文を起草させました。その内容は、以下のようなものでした。

「秀吉は信長の配下にあった小臣の時から、五〇〇騎あるいは一〇〇〇騎の小をもって大を撃ち、日本国中を攻め伏した。汝らのごときは、数十万の軍卒をもって処女のごとき大明国を誅殺すべきは、山が卵を圧するようなものだ。単に大明のみにあらず、天竺・南蛮も言うまでもない。誰も羨ましがらぬ者はいないだろう」

然しながら、奉行衆がソウルに到着した頃には、日本軍は劣勢に陥っていました。翌年二月、奉行衆を含むソウルの日本軍が幸州山城権慄率いる朝鮮軍に敗退しました。

龍

4.明国書をそのまんま読み上げる

日本軍は、窮地に陥りソウルからの撤退を決定し、秀吉は明の皇女を日本の天皇の妃にするなどの「和議七ヶ条」を示しました。

この和議七ヶ条は明側が受け入れられる内容ではなかったので、小西行長は明国の外交家・沈惟敬と図って、秀吉の降伏文書を作成。行長の家臣・内藤如安は、この降伏文書を携えて北京に向かい、明皇帝に恭順を誓いました。

明朝廷は、降伏文書が偽造であるとは露とも思わず、日本に冊封(さくほう)使節を派遣することを決定。これにより、明冊封使節正使・楊方亨、副使・沈惟敬が来日しました。

彼らは慶長元年九月一日、大坂城で秀吉に拝謁。翌日、明冊封使節歓迎の宴が開かれ、徳川家康・前田利家も出席。秀吉は明皇帝が贈った王冠と赤の官服を身に着け、承兌に明皇帝からの国書を読ませました。しかし、

「ここに特に爾(なんじ)を封じて日本国王となす」

という文言に秀吉は激怒。小西行長は「日本国王を大明皇帝を読み替えてほしい」と予め承兌に頼みましたが、承兌はそのまんま読み上げました。全てが露見して、行長の首はなんとか繋がりましたが、沈惟敬は帰国後、明将・楊元に捕らえられて処刑されました。

5.大仏大破

明使節との会見より二か月前の慶長元年閏七月に畿内に大地震がおそいました。これにより、朝鮮侵攻と並行して造立した京都の東山大仏が大破。しかし大仏を収めている大仏殿は何故か倒壊しませんでした。

大破した大仏は秀吉の命により破却。その代わりに秀吉の夢に出てきた善光寺(現・長野県)の如来を大仏殿に移すことになりました。

夢の話だけでは説得力にかけると思ったのか承兌は、地震を明智光秀にたとえ、その反逆で倒れた信長は大仏、その代わりとしてやってきたのが僅か一尺五寸の善光寺如来これがすなわち秀吉なのだ(『鹿苑日録』)としました。

6.大施餓鬼会

慶長の役日本軍進路と主な戦い
図7:慶長の役 日本軍進路図主な戦い

慶長二年(1597)、日本軍は朝鮮へ再出兵し、同年八月の南原の戦いでは大量殺戮と徹底した鼻切りが行われました。

そして朝鮮から大量に鼻が送られてくると秀吉は承兌に、明と朝鮮の戦死者の鎮魂のため、大仏殿=善光寺如来堂の前で大施餓鬼会を(せがきえ)行えと命じました。

施餓鬼会とは、悪道に堕ちて飢餓に苦しんでいる衆生や餓鬼にほどこす法会のことで、鎮魂の意味があるとされています。また、室町時代から京都では、大規模な施餓鬼会は五山禅宗によって行われるのが慣例でした。

緒戦は日本軍優勢でしたが、同年九月七日に明経略・楊鎬の指令で明軍が忠清道・稷山で日本軍北上を阻止。

その十日後、李舜臣李舜臣が朝鮮水軍を率いて鳴梁海戦で日本水軍を撃破。

そのような中で、同月二八日、秀吉の命により承兌は供養の同師として、大仏殿の近くに築かれた鼻塚(耳塚)において大施餓鬼会を行いました。承兌は卒塔婆(そとば)に次ぎのように記しました。

「本朝(日本)の鋭士(えいし)、城を攻めて地を略す。そうして撃殺(げきさつ)すること無数なり。将士は功名を挙げたといえども、川と海、遥か遠いところで鼻を切り、大相国(秀吉)が御覧になり、怨みの思いをなさず、かえって慈(いつく)しみの心を深くす。よって五山の清衆に命じ、彼が為に墳墓を築き、これを鼻塚と名付ける(『鹿苑日記』より抜粋、現代語訳)」

何故、鼻塚が大仏殿の近くに築かれたのか。それは大仏殿建設当初から、人々の見物対象になっていた事情がありました。つまり、秀吉軍の勝利を多くの人々に宣伝するために、ここ以上に適したところはなかった(河内将芳『秀吉の大仏造立 (シリーズ権力者と仏教)』(法蔵館、2008))と考えられるのでした。

7.相国寺のもう一人の「大物」

朝鮮再出兵の真っ只中、秀吉は病を患い、慶長三年(1598)に入ると悪化。同年七月、承兌は秀吉の亡きあとの豊臣政権安泰のため、豊臣秀頼に対し忠誠を誓う起請文(誓紙)案を徳川家康と前田利家に示しました。

これに基づき、諸大名は同文の起請文を家康・利家に提出。八月一七日、大仏殿の善光寺如来は善光寺に返され、翌日秀吉が死去。露梁海峡において、帰国する日本軍を李舜臣率いる朝鮮水軍が撃破して、七年にも及ぶ大戦争は幕を閉じました。

関ヶ原の戦いのあと承兌は、徳川家康に仕え、対外交渉に加え、畿内寺社のこともつかさどり、日本寺奉行と呼ばれるほど寺社からの訴訟には大きな影響力を持ちました。

承兌の相国寺の後輩に藤原惺窩藤原惺窩がいます。惺窩は禅僧から儒者に転身。秀吉の朝鮮侵攻の最中、明への遊学を企て、または日本軍に捕らわれた朝鮮の学者・姜沆の帰国を助け、生涯誰にも仕えませんでした。戦国後期の相国寺において、正反対の「大物」が相国寺で生まれたのでした。

西笑承兌 相関図

主君

豊臣秀吉豊臣秀吉

対面した外国人

朝鮮通信副使:金誠一、明使節:沈惟敬

臨済宗の後輩

相国寺:藤原惺窩藤原惺窩/南禅寺:金地院崇伝

  

関連記事

西笑承兌イラスト

参考文献

河内将芳『秀吉の大仏造立 (シリーズ権力者と仏教)』(法蔵館、2008)

北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略 (日本歴史叢書) 』(吉川弘文館、1995年)