プロフィール
秀吉のブレーンで、文禄・慶長の役では大本営発表的な役割を担う。
臨済宗相国寺の禅僧。第五〇世 鹿苑僧録(ろくおんそうろく)=室町幕府の外務官僚に就任にすると秀吉に接近。
中国歴代王朝の歴史を踏まえ、秀吉=「日輪の子」と秀吉に入れ知恵。文禄の役では肥前名護屋で諸大名宛てに檄文を起草。
和議交渉のため、明皇帝からの国書を携えた沈惟敬らが来日。その国書を承兌は秀吉の前で、「文字通り」読み上げて和議は破たんする――
詳細
1.僧録(そうろく)とは
承兌は、臨済宗真如寺(しんにょじ)において出家。相国寺(しょうこくじ)の仁如集堯(にんじょしゅうぎょう)に詩文を学びました。
相国寺は、京都市にある臨済宗相国寺派の大本山で、末寺一〇〇寺余を擁します。足利義満が創建し、京都五山(禅宗の臨済宗で格式の高い五つの寺)の第二位に列します。寺内にある鹿苑院(ろくおんいん)は、足利義満の修禅道場で、その院主は歴代僧録司(そうろくし)として禅宗寺院を統括しました。
承兌は天正一二年(1584)に相国寺第九二世住持(住職)となり、翌年三八歳の時に第五〇世鹿苑僧録(ろくおんそうろく)に就任。鹿苑僧録(=僧録司)は、五山文学僧でもあり、五山に代々蓄積された博識によって、室町幕府の対明文書の起草にあたるという外務官僚でもありました。
鹿苑僧録に就任した承兌は、凋落しつつあった相国寺の復興すべく豊臣政権に接近。その知識をもって、外交文書の作成に携わっていきました。
2.秀吉を「日輪の子」と命名
天正一八年(1590)、明国制圧を目論む豊臣秀吉は、明国の通り道となる朝鮮に国王宣祖の参内を二度三度と要求しました。
余りにしつこいので宣祖は、秀吉の天下統一の祝賀の為ということで通信使正使に黄允吉(ホワン・ユンギル)、副使に金誠一らを選任。
来日した通信使らは同年一一月七日、京都・聚楽第において秀吉と会見しました。詳しくは秀吉と対面する朝鮮通信使参照のこと。
通信使は、朝鮮国王が秀吉に宛てた日本六〇余州統一の祝賀に対する国書を差し出しましたが、秀吉の返書は無礼なものでした。
「予(秀吉)が母の胎内に宿った時、母は日輪(=太陽)が懐中に入った夢を見ました。人相見は曰く「日光の及ぶ所、四方を照らし君臨」するとして「貴国(朝鮮)が(日本を)先導して入明すれば、憂いがありましょうか(江雲随筆[註])」
この返書制作者こそが承兌。漢王朝始祖・劉邦やモンゴル帝国始祖テムジンなど中国歴代王朝の始祖には「日輪の子」とする神話があり、これを踏まえて承兌が秀吉を「日輪の子」とせしめたのでした。
3.朝鮮征伐檄文
文禄元年(1592)四五歳の承兌は、秀吉に共し朝鮮出兵の本営・肥前名護屋(佐賀県)へ赴きました。
同年四月一三日、日本の諸将が朝鮮へ侵攻。小西行長・加藤清正らを先鋒に破竹の勢いで北上して僅か半月余りで首都ソウル・漢城を制圧。
秀吉自身も渡海を望みましたが、徳川家康や前田利家らが押しとどめた結果、秀吉の代わりに、石田三成・大谷吉継ら豊臣奉行衆が渡海することになりました。
同年六月三日、奉行衆の出発の際に秀吉は承兌に朝鮮在陣の諸大名宛ての檄文を起草させました。その内容は、以下のようなものでした。
「秀吉は信長の配下にあった小臣の時から、五〇〇騎あるいは一〇〇〇騎の小をもって大を撃ち、日本国中を攻め伏した。汝らのごときは、数十万の軍卒をもって処女のごとき大明国を誅殺すべきは、山が卵を圧するようなものだ。単に大明のみにあらず、天竺・南蛮も言うまでもない。誰も羨ましがらぬ者はいないだろう(毛利家文書)」
然しながら奉行衆がソウルに到着した頃には、山(日本軍)は劣勢に陥っていました。翌年二月、奉行衆を含むソウルの日本軍が幸州山城で権慄率いる朝鮮軍に敗退しました。
4.明国書を読み上げる
これにより日本軍はソウルからの撤退を決定。秀吉は明の皇女を日本の天皇の妃にするなどの「和議七ヶ条」を示しました。
小西行長は明の沈惟敬と図って、これを秀吉の降伏文書として偽造。これを受けて明皇帝は秀吉を日本国王として冊封するため、冊封使の正使・楊方亨、副使・沈惟敬を派遣。
彼らは慶長元年九月一日、大坂城で秀吉に拝謁。翌日、歓迎の宴が開かれ、徳川家康・前田利家も出席。秀吉は明皇帝が贈った王冠と赤の官服を身に着け、承兌に明皇帝からの国書を読ませました。しかし、
「ここに特に爾(なんじ)を封じて日本国王となす」
という文言に秀吉は激怒。小西行長は「日本国王を大明皇帝を読み替えてほしい」と予め承兌に頼みましたが、承兌はそのまんま読み上げました。全てが露見して、行長の首はなんとか繋がりましたが、沈惟敬は帰国後、明将・楊元に捕らえられて処刑されました。
5.大仏大破
明使節との会見より二か月前の慶長元年閏七月、畿内に大地震がおそいました。これにより朝鮮侵攻と並行して造立した京都の東山大仏が大破。しかし大仏を収めている大仏殿は、何故か倒壊しませんでした。
大破した大仏は秀吉の命により破却。その代わりに秀吉の夢に出てきた善光寺(現・長野県)の如来を大仏殿に移すことになりました。
夢の話だけでは説得力にかけると思ったのか承兌は、地震を明智光秀にたとえ、その反逆で倒れた信長は大仏、その代わりとしてやってきたのが僅か一尺五寸の善光寺如来これがすなわち秀吉なのだ(鹿苑日録)としました。日輪の子はどこへ行ったのだろう…
6.大施餓鬼会
慶長二年(1597)、日本軍は朝鮮へ再出兵し、同年八月の南原の戦いでは大量殺戮と徹底した鼻切りが行われました。
そして朝鮮から大量に鼻が送られてくると秀吉は承兌に、明と朝鮮の戦死者の鎮魂のため、大仏殿=善光寺如来堂の前で大施餓鬼会(せがきえ)を行えと命じました。
施餓鬼会とは、悪道に堕ちて飢餓に苦しんでいる衆生や餓鬼にほどこす法会(ほうえ)のことで、鎮魂の意味があるとされています。また室町時代から京都では、大規模な施餓鬼会は五山禅宗によって行われるのが慣例でした。
同年九月二八日、秀吉の命により承兌は供養の同師として、大仏殿の近くに築かれた鼻塚(耳塚)において大施餓鬼会を行いました。承兌は卒塔婆(そとば)に次ぎのように記しました。
「本朝(日本)の鋭士(えいし)、城を攻めて地を略す。そうして撃殺(げきさつ)すること無数なり。将士は功名を挙げたといえども、川と海、遥か遠いところで鼻を切り、大相国(秀吉)が御覧になり、怨みの思いをなさず、かえって慈(いつく)しみの心を深くす。よって五山の清衆に命じ、彼が為に墳墓を築き、これを鼻塚と名付ける(『鹿苑日記』より抜粋、現代語訳)」
なぜ鼻塚が大仏殿の近くに築かれたのか。それは大仏殿建設当初から、人々の見物対象になっていた事情がありました。つまり、秀吉軍の勝利を多くの人々に宣伝するために、ここ以上に適したところはなかった(文献2)と考えられるのでした。
7.正反対の後輩
朝鮮再出兵の真っ只中、秀吉は病を患い、慶長三年(1598)に入ると悪化。同年七月、承兌は秀吉の亡きあとの豊臣政権安泰のため、豊臣秀頼に対し忠誠を誓う起請文(誓紙)案を徳川家康と前田利家に示しました。
これに基づき、諸大名は同文の起請文を家康・利家に提出。八月一七日、大仏殿の善光寺如来は善光寺に返され、翌日秀吉が死去。露梁海峡において、帰国する日本軍を李舜臣率いる朝鮮水軍が撃破して、七年にも及ぶ大戦争は幕を閉じました。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いのあと承兌は、徳川家康に仕えて対外交渉に加え、畿内寺社のこともつかさどり、日本寺奉行と呼ばれるほど寺社からの訴訟には大きな影響力を持ちました。
承兌の相国寺の後輩に藤原惺窩がいます。惺窩は禅僧から儒者に転身。日本軍に捕らわれた朝鮮の学者・姜沆の帰国を助け、生涯誰にも仕えずして近世儒学の祖となりました。
戦国時代後期の相国寺において、正反対の「大物」が生まれたのでした。
西笑承兌 相関図
豊臣政権
- 主君:秀吉
来日の使節
仏教宗派
補註
文献1第1巻66頁より『江雲随筆』。 対馬以酊庵住職・江岳元策と雲崖道岱が対朝鮮外交の覚書としてまとめたもの。当頁掲載文章は当サイトによる口語訳。
参考文献
- 北島万次『豊臣秀吉 朝鮮侵略関係史料集成』(平凡社、2017年)
- 河内将芳『秀吉の大仏造立(シリーズ権力者と仏教)』(法蔵館、2008年)「第三章 善光寺如来の遷座」131-132、136-142頁
- 北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』(吉川弘文館、1995年)